第10話 亀裂
「――っ!……え……?」
フレデリックさんはビクッと肩を揺らした後、声のした方向へ、のろのろと顔を向けた。
「あ……兄上……」
振り向いた先には、当然ギルがいて、まるで、敵に対峙してでもいるかのような冷たい瞳で弟を見据え、足早に近付いて来るところだった。
「兄上!……よかった。お目覚めになられたのですね」
一瞬、私のことなんかすっかり忘れてしまったかのように瞳を輝かせ、本当に嬉しそうにギルを見つめるフレデリックさんだったんだけど。
ギルの険しい表情に気付くと、たちまち顔面蒼白になってしまった。
「リアから離れろと言ったはずだ。聞こえなかったのか、フレデリック?」
ギルはフレデリックさんの手を強引に私の肩からどけると、ゾッとするような目で彼を見下ろす。
「……あ……。も、申し訳ございません、兄上。ですが、あの……『リア』、とは……?」
フレデリックさんはかわいそうなくらい萎縮して、怯えた子犬のようにギルを見上げた。
「リアはリアだ。私の婚約者――ザックス王国第一王女、リナリア姫だ」
そう言って私の手を取ると、ギルはフレデリックさんから遠ざけるようにして、自分の背にかばった。
フレデリックさんは微かに震え出し、かすれた声でつぶやく。
「リナリア……姫?……サクラが?」
「サクラ――?」
ギルは説明を求めるようにこちらを振り返り、私はビクッと身をすくめて、叱られた子供みたいにうつむいた。
「ご、ごめんなさい。本名を名乗るワケにも――って思ったら、その名前しか浮かばなくて……」
「なるほど。――いや、リアに非はないよ。偽名など、そう簡単に浮かぶものでもないだろうし、とっさに、慣れ親しんだ名を思い浮かべてしまうのは、無理のないことだ」
私の頭に柔らかく手を置き、ギルは優しく微笑む。
だけど、すぐに厳しい顔に戻ってフレデリックさんに向き直ると、いっそう冷然とした態度で、突き放すように宣告した。
「そういうことだ、フレデリック。彼女の名はサクラなどではない。隣国の姫――私の最愛の女性、リナリアだ。……いいか、フレデリック? 今後一切、おまえが私の許可なく彼女に近付くことを禁じる。ましてや、抱き締めてキスしようとするなどもってのほかだ。もしもまた、同じことをしようとしたならば……その時は、たとえおまえであろうと容赦はしない。わかったな、フレデリック?」
「……兄上……」
がくがくと小刻みに震え、フレデリックさんは真っ青な顔色のまま立ち尽くしている。
心から慕う兄に冷たくされたのが、よっぽどショックだったんだろう。
「ギル! なにもそんな……そこまでひどいこと言わなくてもっ」
私はギルの服の袖をつまみ、訴えるように彼を見上げた。
するとギルは、今まで見たこともないような複雑な表情――怒っているとも、悲しんでいるとも、恐れているとも――そのどれにも当てはまりそうでいて、どれにも当てはまらないような顔をして、私をじっと見返した。
そして、およそ感情のこもっていない、《よくよう》抑揚を全く感じさせない口調で訊ねる。
「君は……私よりフレデリックのことを気に掛けるのか……?」
「そ――っ、そうじゃないけどっ!……でも……」
どーしちゃったの、ギル?
フレデリックさんとは仲がいいって、前に言ってたじゃない。呼ぶ時だって、親しげに『フレディ』って、ずっと……。
なのにどーして――……どーして今は、『フレデリック』なの……?
なんだか、どうしようもなく悲しい気持ちになった。
仲良しだったはずの兄弟が――母親が違うと言っても、ずっと仲良くやって来たはずの兄弟が、こんな風に気まずい状態になっちゃうなんて、耐えられなかった。
……そりゃあ、こうなるきっかけを作っちゃったのは私だけど……。その点は、反省してるけど……。
でも、だからこそ――私のせいで二人の関係にヒビが入っちゃうなんて、絶対に嫌だよ!!
「お願い、ギル。機嫌を直して? 私がっ――私がフレデリックさんに嘘ついちゃったのがいけないの。私が全部悪いの。だから――」
「リア!」
さえぎるように名を呼んで黙らせると、ギルは振り返りもせずに。
「頼むから、口を挟まないでいてくれないか。これは、私とフレデリックの問題だ。君に立ち入る資格はない」
「……そんな、ギル……」
『資格はない』とまで言われてしまって、私はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
苦しくて、胸を押さえてうつむいていると、同様にうつむいていたフレデリックさんが、ふいに顔を上げ、
「兄上! 僕――いえ、私が軽率なことをしてしまったことは、謝罪致します。本当に申し訳ございませんでした。兄上のおっしゃるように、二度とこのような、不徳な真似は致しません。誓います! ですから――ですからどうか、彼女のことは……それ以上お責めにならないでください」
何故か私をかばうようにして、片手を胸に当てて懇願する。
「責める? 私が? リアを?……何故? 何故私がリアを責めなければならないんだ? 私はリアを責めてなどいない。責める理由もない。私が責めているのは――おまえだけだ、フレデリック」
「――っ!……は、はい……。申し訳、ございませ――」
「いいな? 二度とリアには近付くな。自分から声も掛けるな。そして、彼女がここにいるということを、他の誰にも口外してはならない。私が目覚めたこともだ!……わかったな? わかったならば返事をしろ、フレデリック!」
「は、はい!……わかり……ました――。兄上の、仰せのままに……」
深々と頭を下げるフレデリックさんに、それを冷然と見つめるギル――。
その痛々しい光景を見ていられず、私はギュッと両目を閉じた。
「わかればいい。――もう行け。当分ここへは近寄るな。私の見舞いなど、気にする必要はない」
「……は……はい、兄上……。それでは、私はこれで……失礼、致します……」
ふらふらとおぼつかない足取りで、フレデリックさんはドアへと歩いて行く。
私はその背中をやりきれない気持ちで見やってから、ギルを振り返った。
「ギル!……ホントにいいの? このまま帰らせちゃって……」
「…………」
彼は私から顔をそらし、言葉もなく、じっと空を見据えている。
「ギルってば!」
私が声を上げた瞬間、開いた気配すら感じられぬうちにバタンとドアが閉まり、二人の間には、長い沈黙が横たわった。