第8話 口は災いの元
「あの日のことは、切れ切れにしか覚えていないけれど……それでも、母上の様子が明らかにおかしかったことだけは、今でも記憶に残っている。部屋から出て行こうとすると、ひどく反対して、僕が『兄上のところに行く』『いっしょにおかしを食べるんだ』と駄々をこねて泣き出すと、引きつり笑いを浮かべながら、なだめすかそうとしたり……。どう考えても、普段の母上らしくなかった。いつもは、僕が泣き出したとたん、不機嫌になりはするけれど、部屋へ閉じ込めるようなことだけは、絶対にしなかったのに。それなのに、何故かあの日だけは、どんなに泣こうがわめこうが、兄上の元へは行かせてくれなかった。そうして、僕が泣き疲れて、すっかり眠り込んでしまっていた間に……まさか、あんな忌まわしい出来事が起こってしまっていたなんて!」
彼は苦しげに目を閉じると、拳を思い切り手すりに打ちつけた。
「僕はっ――僕は何も出来なかった! 母上のお心を慰めて差し上げることも、その狂気に気付くことも、愚かな行為を止めることも――何一つ出来なかった!……僕が……僕さえもっとしっかりしていれば……セレスティーナ様を失うことも、そのせいで兄上が傷付くこともなかったのにっ!――僕だ……! 僕のせいだっ!」
何度も何度も、拳を手すりに打ちつけながら、彼は自分を責め続ける。
黙って見ていられなくて、その腕を押え込むようにして止めると、堪らず叫んでいた。
「お止めください、フレデリック様っ! あなたのせいではございませんっ!」
彼はハッとしたように目を見開き、ゆっくりと握り締めていた手を解くと、私に顔を向けた。
私は彼の瞳をまっすぐ見つめながら、小さくうなずき、同じ言葉を繰り返す。
「あなたのせいではございません。フレデリック様は、その頃、まだお小さかったのですから。ギル――、ギルフォード様だって、それがわかっていらっしゃるからこそ、今でもフレデリック様のことを、大切に思ってくださっているのでしょう?……ね? もうそうやって、ご自身をお責めになるのは、終わりにしましょうよ」
「……サクラ……」
まだ呆然としているフレデリックさんに、私は安心させるよう、そっと笑い掛けた。
「今は過去を悔いるよりも、ギル――、……ギルフォード様をあんなひどい目に遭わせた人間を捜し出す方が、ずっと大切じゃないですか。だからもう少し、二人でいろいろ考えましょう? そして一刻も早く、この事件を解決させなくっちゃ!」
フレデリックさんは少しずつ表情を和らげると、はにかむように笑った。その笑顔は、今まで見せた高慢な感じのものや、皮肉げな感じのものとは全く違っていて……とても少年らしい、素直で清々しい笑顔だった。
「……そうだな。今更過去を悔いたところで、どうにもならないよな」
「そうですよ!――頑張りましょう! 頑張って、早く悪いヤツを捕まえなきゃ!」
フレデリックさんの両手を取って、ぎゅっと握り締める。それからふと、その手に目をやると……。
「――血! 血が出てるじゃないですかっ!」
さっき拳を打ちつけた時、石の表面で擦ってしまったと思われる傷口から、僅かに血が滲んでいた。
「大変! 早く手当てしないと!」
私は彼の手を握ったまま、血を洗い流すための場所がどこかにないかと、必死に辺りを見回してみたんだけど……残念ながら、水場は池ぐらいしか見当たらなかった。
池の水で洗い流すなんて、かえって悪い菌が傷口から入っちゃうかも知れないから、出来るワケないよね。
だったら、ここはやっぱり、一度部屋に戻って、ウォルフさんにお願いするしかないかな?
そんなことを考えていると、フレデリックさんは顔を赤くして、
「お……おいっ! 手を離せ! この程度の傷、放っておいても治る。余計なことはするなっ」
私の手を振り解くと、素早く両手を後ろに隠した。
「でも、浅い傷だからって放置はいけませんよ。せめて、表面の血だけでも洗い清めないと」
「いいっ! 大丈夫だと言っているだろう!?……このくらい、舐めれば治る。放っておけ!」
「ダメですよ! ギルフォード様とは違うんですから、舐めたって治りませんよ! やっぱりちゃんと――……痛っ!」
突然、サッと顔色を変えて、フレデリックさんが私の両手首をつかみ、ギリリと締め上げた。
「い――っ!……痛い、です。フレデリック様。……な、何を――」
「どうして知っている?」
青白い顔――鋭い目つきで私の顔を覗き込み、フレデリックさんは、感情を押し殺したような声で問う。
「……え? 『どうして知っている』って、何のこ――」
「兄上のことだ! 兄上に治癒能力があることを――何故おまえが知っている!?」
言われたとたん、『しまった』と思った。
――そうだ。ギルの治癒能力のことを知ってるのは、『極々身近な人間』だけだって、以前ギルが言ってたっけ……。
……うぅっ、ヤバイ。
思いっ切り、口すべらしちゃった……。
「このことを知っているのは、僕と父上とウォルフ――そして、アセナだけだ。それを何故……ただの新人メイドであるはずのおまえが?」
「……え……っと、あの……。それは、その……」
射抜くようなフレデリックさんの視線から逃れるため、私は落ち着きなく視線をさまよわせる。
う~…、どーしよー……。
いったいどーすれば?
どーやったら、このピンチを切り抜けられるの――!?
気持ちばかり焦るけど、何もいい案が思い浮かばず、私はパニクった。
「おいっ! 黙ってないで答えろ!……おまえいったい、何者なんだ!?」
「な、何者って、それは……」
追い詰められて、絶体絶命。そんな中、救いの神が現れた。
「フレデリック様!」
聞き覚えのある、低く通る声。振り向く私の目に映ったのは――。
ウォルフさん!
『助かった!』――心の中で歓喜かつ安堵する私と、戸惑い顔でウォルフさんを見つめるフレデリックさん。
そんな私達にツカツカと歩み寄ると、ウォルフさんは、私の腕をつかんでいるフレデリックさんの手を取った。
「お話中失礼致します、フレデリック様。至急お伝えしたいことがございますので、少々こちらへ――」
私の手から引きはがすようにして、強引に彼の手を引っ張ると、通路の先へと歩いて行こうとする。
「ちょ…っ! まっ、待て、ウォルフ! 僕はまだ、この者に話が――」
「申し訳ございませんが、こちらも急いでおりますので。そちらのお話は、また後日ということでお願い致します」
ウォルフさんは話の途中で私に目配せし、『あちらへお逃げください』と言うように、反対側――城へと続くドアの方へと、僅かに顔を傾けた。
それに応えるように小さくうなずくと、『ありがとう、ウォルフさん!』と心で感謝しつつ一目散、私は城の中目差して駆け出す。
「あっ! おいっ、逃げるなっ!――ウォルフっ、手を離せっ! 僕はあいつに訊きたいことがたくさんあ――」
「私にも、フレデリック様にお願いしたいことが山ほどございます。――さあ、お早く!」
二人のやりとりを後ろに聞きながら、私は通路を走り抜け、ドアを開けて城内へと逃げ込むことに、なんとか成功した。
……だけどまだ、油断は出来ない。
ウォルフさんを振り切って、フレデリックさんが追って来ることだって、充分あり得る。
私は長い廊下を、よそ見もせず、一直線に走り続けた。
ギルの部屋の前まで来ると、私は辺りを何度も見回し、誰もいないことをしつこいくらい確認すると、そっとドアを開ける。
中に入り、顔だけ外に出し、右を見て、左を見て……。
誰もいないと納得してから、ようやく息をついて、ドアを閉めた。