第16話 絶頂、そして奈落。
「すまない、リア。どうしても、抑えられなかった」
朦朧とした頭に、ギルの声が響く。
徐々に通常の感覚が戻って来ると、私は少しだけ首を傾けて、彼の顔を覗き込んだ。
「……ギ……ル……?」
彼の肩に手を置き、ゆっくりと体を起こす。ぼんやりと見つめると、困ったように笑って……。
「まだ少し、君には早かったかな?……そうだね。他人はともかく、自分にキスはまだ早いと、以前言っていたね。君の気持ちも確かめず、強引にキスしてしまって……申し訳なかった」
「……キ、ス……?」
キスって……今のが?
今のも……今のもキス、なの……?
「リア?」
不思議そうに私を見つめる彼に、確かめたかったけど……。ぼんやりした頭で、考えようとするけど……。
……ダメ。うまくまとまらない……。
「どうしたんだい? 突然のことだったから、驚いているんだろうが……。それにしても……」
戸惑ったように首をかしげると、彼は私の頬をそっと撫で、
「もしかして、怒っているのか? 今のキスは……嫌だった?」
不安げに、そう訊ねて来た。
「……キス……」
「え?」
「今の……キス、だったの……?」
私の問いに、ギルはポカンと口を開けて……しばらく、質問の意味を考えているみたいだった。
「……そうだよ。しかし、何故そんなことを?」
「だって……あんなキス、知らない……。カイルだって……」
「――カイル?」
ギルの顔が、すうっと青ざめるのがわかった。瞬間、私は目が覚めたようにハッとして――。
「リア……。カイルと…………キス、したのか?」
「……あ……。あ、あの……」
震える両手で、口元を覆った。
鼓動が息苦しさを感じるほど速くなり、冷汗が背中を伝う。
私……今、何を?
いったい、何を口走って……?
「キスしたのか、カイルと……?」
低い、気持ちを押し殺したような声で、彼は重ねて訊ねる。
でも、とっさに返せなくて……どう言っていいのかわからなくて。
私は胸の前で両手を組み、為す術なく震えるのみだった。
「リア。正直に答えてくれ。カイルと……キスした?」
私の両肩に手を置き、探るように顔を覗き込みながら、彼は静かに質問を繰り返す。
私は瞼をギュッと閉じ、ぎこちなくうなずいた。
「ギル、私……私、約束……もう一つの約束、守れなかった。……ごめんなさい。ごめんなさ――」
「謝るなッ!!」
聞いたことがないくらいの大声に、ビクッと身をすくめる。
「……謝らないでくれ。よけい惨めになる……」
打って変わった、耳を澄まさなければ聞こえないくらいの頼りない声に、胸が押し潰されそうで……。
「あ……の……。ギル。私……私……」
「君は……やはりひどい人だ」
「え――?」
ギルは泣き笑いのような顔を私に向けて、
「君が、『会いたかった』と言ってくれたから……。キスも、強く拒まずに、受け入れてくれたから……私は、勘違いしてしまった。君が、私を選んでくれたのだと。カイルではなく、私を選んでくれたのだと。……勝手に一人で舞い上がって、思い込んで……。ハッ。滑稽だな。まるで道化だ」
「ギル……。違…っ、違うの。私は――」
「何が違うんだ!?」
再び大声を上げると、彼は私を膝から下ろして立ち上がった。
何も言わず、ドアの方へと足早に歩いて行く。
「ギル! 待って! お願い、待ってっ!!」
私は夢中で駆け寄り、彼の腰に抱きついた。
「お願い、話を聞いて! 私、ちゃんと話すから! 全部ちゃんと話すからっ!!」
「聞く必要は……ない」
「――ギル!……お願い……。そんな……そんなこと言わないで……」
祈るようにギュッとしがみつく私の腕を、彼はそっとつかむ。
「君は……優しいが、誠実な人だ。心のないままに、キスを受け入れるなど……出来る人ではないはずだ。その君が――」
つかむ手に力を込め、ギルは強引に私の腕を引き離すと、振り向いてつかみ直し、荒々しく引き寄せた。
「そんな君が、拒みもせず……カイルのキスを受け入れたのだろう!? それだけで充分だ! 君はカイルを選んだ! 私ではなく、カイルを……」
今にも泣き出しそうに顔をゆがめ、彼は責めるように私を見つめる。
「だったらどうして!……何故君は、私のキスを受け入れたんだ? 何故、もっと強く拒んでくれなかった!?……私がシリルを救ったからか? 恩義があるから、拒めなかったのか!?」
「ギル!! 違う!! 違うのっ!! そんなんじゃ――っ」
「違わないッ!! 何も違うものかッ!!……そうだ。考えてみれば……君が『会いたかった』と言ってくれたのだって、シリルを助けるために、私の力が必要だったからではないのか? シリルを助けたいと願った時に、私の顔が浮かんだ。――そうだ! それだけだったんだろう!?」
「ち……違う……。私は……私は……っ!」
「もういい――!!」
ギルは私の手を振り払うように解くと、背を向けた。
「これ以上、君の顔を見ていたくない。今夜はもう、ここへは戻らないから……君の好きなように使ってくれて構わない。後でまた、ウォルフが来るだろう。その時に――必要なことは、全て彼に聞いてくれ」
ドアノブに手を掛け、部屋を出て行こうとする彼に、慌てて駆け寄ろうとしたけど、
「来るなッ!!」
振り向きもせずに制され、足が凍り付いてしまったかのように、動けなくなる。
制止を無視してまで、追う勇気が持てなくて――。
もっと強く、拒絶されてしまうのが怖くて。
私はただただ呆然と、彼の背を見ていることしか出来なかった。
ギルは振り向きもせず、廊下に足を踏み出して。
一言も発さないまま、後ろ手にドアを閉めた。
「……ギル……」
つぶやいたとたん。
私は少しずつ空気が抜けて行く人形の風船のように、その場にへたり込んだ。