第8話 しばしのお別れ
イサークとニーナちゃんは、驚くほど早く旅支度を済ませて、私達の目をまんまるくさせた。
たぶん、家に入ってから出て来るまで、五分――ううん、三分も掛かってなかったと思う。
「狭ぇ家だしな。ザックスとの国境までなんざ、歩いたって二日と掛かんねえし。必要最低限の水と食料。後は、残ってる金全部持ちゃあ、充分だろ」
なんて言って、イサークは挨拶もそこそこに、私達に背を向けた。
ニーナちゃんもペコリと頭を下げ、慌てて兄の後を追う。
私は『待って待って!』と二人に声を掛けてから、くるりとシリルを振り返った。
「シリル、体はどう? まだ、どこか痛む?」
「えっ?……あ、いいえ。もう、すっかりよくなりました。どこも痛くありません」
急に訊かれて、ビックリしたみたいだったけど。
シリルはすぐさま返事して、ニコッと微笑む。
「そっか。よかったぁ~。だったら、ザックスまで……歩いて帰れる、かな?」
「えっ?……それは、あのぅ……どういう意味ですか?」
たちまち困惑顔になって、シリルは私を見上げて首をかしげた。
「うん……。あのね? 突然で悪いんだけど、イサークとニーナちゃんに、ついてってあげて欲しいんだ。二人とも、ザックスは初めてだってことだし、道案内も兼ねて……って、あっ! もしかしてシリルも、国境越えるのは初めてだったりする?」
そーだよ。
そー言えば私だって、国境越えなんてしたことないんだった!
ルドウィンには、いつの間にか来てたってゆーか……気付いたら、ギルの部屋にいたってだけだったし。
……そっかぁ。
歩いて帰るなんて、私にも出来ないかも知れないんだ。(なんてったって、方向オンチだもんね)
じゃあ、シリルに道案内をお願いするのは無理か……と諦めかけた時。
「いえ、大丈夫です。国境辺りまでなら、訓練で、歩いて行ったこともありますから。ルドウィンの検問所までの道はわかりませんけど……ザックスに入ってからなら、ご案内出来ると思います」
意外にも、頼もしい言葉が返って来て。
私はめちゃめちゃ感動し、シリルの頭をいいこいいこと撫で回してから、ギュッと抱き締め、
「すごいすごい! すごいよシリル! その歳で、もうそんなに頼りになっちゃうなんて!……あーもぉっ、私、あなたを誇りに思うっ!」
なんて言いながら、ドサクサに紛れて、頬ずりまでしてしまった。
「そ……そんなっ、姫様……」
シリルは真っ赤になって、何か言おうとしてたみたいだけど、
「リアっ!」
突然、ギルが大きな声で私を呼び、あっと言う間に近付いて来て。
私の両腕を後ろからガッシとつかみ、強引にシリルから引き離した。
「君は毎回毎回懲りもせず――っ! 私が側にいる時くらい、どうにかならないのかい? その突発的な行動はっ?」
「ええーっ? 今のは、普通の行動でしょぉっ? シリルはまだ十一歳なのに、もう自国の道案内が出来るんだよ? すごいじゃない! それを褒めて、何がいけないってゆーのよっ?」
発作と勘違いされて、ムッとした私は。
彼に後ろから両腕をつかまれたまま、振り向きざまに抗議した。
「道案内など、造作ないことだよ! 私も十歳の頃、一人で君に会いに行ったと伝えたはずだが? もう忘れたのかい?」
……あ。
そーだった。忘れてたぁ~……。
「その顔は忘れていたね……? まったく、ひどいな。恋人の告白を、そんな簡単に忘れてしまうとは……」
不満げに洩らした後、彼は私を抱きすくめ、首元へ顔を埋める。
「ちょ――っ!……もうっ、ギルったら! 急いでるんじゃなかったのっ?」
「急いでいるよ? だが、一日も離れ離れだったんだ。少しくらいはいいだろう?」
甘えるように言った後、首筋にそっとキスして。
くすぐったさと恥ずかしさで、私は顔を熱くしながら、ふるふると首を振った。
「もぉっ! だからダメだってばっ。こーゆーことは、戻ってからにしてっ」
「……戻ってから?」
「そう! 戻ってか――」
ハッとして口をつぐんだ時には、手遅れだった。
ギルは私を両腕から解放すると、クスッと笑い、
「わかった。続きは、戻ってからのお楽しみ……ということで、大事に取っておくとしよう。逃げちゃダメだよ?」
耳元で熱っぽくささやいて、素早く頬へキスする。
それから、まるで何事もなかったかのような顔をして、シリルに向かって声を掛けた。
「シリル、道中は充分気をつけるんだよ? 追手が差し向けられでもしたら、大変だからね。……まあ、その男と君がいるなら、心配することはないと思うが――」
なんて、平然と語る彼の背中を、熱くほてった顔のまま、私は思い切りにらみつける。
――もぉっ!
もぉもぉもぉもぉっ!
ギルのバカっ!
また突然、変なことゆーから……戻ってからが、心配になって来ちゃったじゃない……。
熱があるんじゃないかと思えるくらい、のぼせてしまった頬を両手で押さえていると。
いつの間に移動したのか、ウォルフさんが横にいて。
「いかがなさいました、リナリア様? お顔の色が……」
『かなり赤くなっていらっしゃいますよ?』と訊かれる前に、
「いーのっ、わかってる! 赤くなってるのはわかってるから……お願いっ、何も訊かないでっ!」
自分から白状し、私はブンブンと首を横に振った。
何気なく前に目を向けると、顔だけをこちらに向け、私達の様子を窺っていたらしいギルと、思い切り目が合う。
彼はフッと意味ありげに微笑んで、顔を元に戻した。
私は唖然として彼を見つめた後、再びカーッと全身が熱くなった。
……あの人、絶対面白がってる!
人のことからかって、また面白がってるぅううう~~~~~ッ!!
悔しくて悔しくて、危うく地団駄を踏みそうになる。
ふざけてる場合なんかじゃないって、自分が一番よくわかってるクセに!
まったく、よくもそんな余裕があるわねっ!?
……ああもぉっ、悔しい悔しい悔しいぃいいいーーーーーッ!!
「では、また会おうシリル。リアのことは、私に任せてくれ。後日、責任を持って、ザックスへと送り届けるからね。セバスにも、安心していてくれと、伝えておいてくれるかい?」
「はい、かしこまりました! 必ずお伝えします!……ギルフォード様も、どうかお気を付けて」
「ああ、ありがとう」
そんなやりとりが、目の前で展開されているのに気付き、私はようやく我に返った。
「へ?……えっ、いや――っ、ちょっと待ってっ!」
私が一人で悔しがってる間に、なにをさっさと、お別れの言葉なんか交わし合っちゃってるのよっ!?
シリルの主は私よっ!?
ギルじゃなくて、私なんだからぁああああっ!!
「シリル!――ニーナちゃん、イサークも!」
私は慌てて彼らに近付き、一同が振り向くと同時に、思い切り手を振った。
「みんながザックスに着く頃までには、セバスチャンに手紙出しとくから、安心してねっ? それと、可愛いニーナちゃんはともかく、目つきの悪いイサークだけだと、怪しまれるに決まってるから……シリル! 二人のこと、しっかり説明してあげてっ?」
「はいっ! お任せください、姫様!」
「――って、おい! 誰が目つき悪いだって!?」
「兄さんに決まってるじゃない。……ホント、もう少し柔らかい表情、普段から心掛けてくれればいいのに。ただでさえ、誤解されやすいんだから、兄さんは」
「な――っ! ニーナおまえっ!」
イサークが文句を言おうとするのをさえぎり、
「あのっ、リナリア姫様っ。いろいろと、ありがとうございました! 兄のこと、そのっ……こ、心から感謝しますっ。それで、えっと……わたし、メイド見習い、しっかり務めさせていただきますっ。姫様にご迷惑が掛からないよう、ちゃんと働きますからっ。ですからっ、あの――っ、お、お城に戻られましたら、また……ど、どーかよろしくお願いしますっ!」
一生懸命敬語を使い、ぺこりと頭を下げるニーナちゃんが、なんだか、とっても愛らしかった。
私は笑ってうなずくと、一人一人と挨拶を交わし――。
少しずつ離れて行く彼らに向かって、大きく手を振り続けた。