第8話 冷たいスープ
「えっ? あ、あの――っ」
男に思い切り頭を下げられ、私はすっかり面食らって、あちこちに視線をさまよわせた。
ニーナちゃんは、彼の横に立ち、こちらの出方を窺っている。
男はというと、いつまでも頭を下げ続け……私はすっかり閉口してしまった。
「わ、わかりましたっ! もういーです許しますっ! だから、いい加減頭を上げてっ!」
どうにも落ち着かず、私が声を上げたとたん。
男はさっさと頭を上げ、
「よし。これで、さっきのはチャラだからな。おまえもスッパリ忘れろよ?」
まるで、やっつけ仕事でも終えたかのように、ケロッとした顔で言い放つ。
「兄さんっ! そーゆー態度がいけないって、どーしてわからな――」
「ああっ、もういーよニーナちゃん! 私は大丈夫だからっ」
再び、兄に説教し始めそうだったニーナちゃんを制し、私はふるふると首を振った。
こんなの、何度やり直しさせたって、本人が心から悪いと思ってるんじゃなきゃ、意味がないもんね。
人に頭を下げられるのも苦手だし、ものすごくひどいことされた、ってワケでもないんだから。
この男の言う通り、さっさと忘れよう。
早々に頭を切り替えた私に対し、ニーナちゃんは、まだ納得行かないような顔をしていたけど。
当の本人が、許すと言ってるんだからと、追及するのは諦めてくれたらしい。
彼女は兄を見上げ、
「兄さん。この人に話があるってことだったけど、それはもう済んだのよね?」
両手を腰に当て、軽く男を睨みながら訊ねる。
「……いや。まだだ」
「ええーーーっ!?」
あっさりと否定され、彼女は不満げに口をとがらせた。
「さっさと済ませるって言ったじゃない! スープはすっかり冷めちゃってるわよ?……もうっ、仕方ないわね。温め直して来るわ」
ため息をつき、スープ皿を下げようとするニーナちゃんを、私は慌てて引き留めた。
「あっ。だいじょーぶだよ、そのままでも?」
「え?……でも、体を温めるためのスープなのに……」
「今のゴタゴタで、すっかり温まっちゃったから。……ねっ? そんなに気を遣わないで?」
笑って両手を差し出す私に、彼女は一瞬、ためらうような仕草を見せたけど、
「……じゃあ、あの……どうぞ」
モゴモゴと告げながら、私にスープ皿を手渡した。
「ありがとう。夕食まだだったから、お腹空いてたんだ。……じゃあ、いただきます」
『イタダキマス?』と問いたげに、ニーナちゃんが可愛く小首をかしげる。
ここでは、食べる前にこんなこと言わないんだっけと、ちょっぴりヒヤッとした。
でも、特にツッコまれる様子もなかったので、気付かないフリをして、スープを口に運ぶ。
「……ん、美味しい!」
具はほとんど入っていない、コンソメみたいな味のスープだったけど、感動するくらい美味しかった。
男は、私の反応を見て、満足そうにうなずくと、
「だろ? ニーナは、くず野菜や、カッチカチになっちまったパンやチーズ――ろくな食材しかなくてもな? ぶったまげるほど、美味いもんに変えちまう才能があるんだぜ!」
まるで自慢するみたいに、ニカッと笑う。
その笑顔は、なんだかやたらとまぶしく見えて、私は驚いて目を見張った。
……へえ……。
この人、こんな風にも笑えるんだ?
なんだか、笑うと少年みたいに、無邪気な顔になるんだなぁ……。
新たな発見に、感動に似た思いを抱きつつ。
私は男の意見に賛同する意味を込め、こくこくとうなずいた。
「ヤダ、兄さんったら。それほどじゃないわよ。……もう。大袈裟なんだから」
真っ赤になって謙遜しながらも、ニーナちゃんはとっても嬉しそうで……。
いい兄妹だなぁと、しみじみ思った。
二人とも、お互いのことを、すごく大事に想ってるのが伝わって来る。
……ギルとフレディも、こんな風に、心から仲良くなれたらいいのに……。
彼らのことを考えると、どうしても胸が痛んでしまうけど。
ここで落ち込んでいても仕方ない。
私は気持ちを切り替え、スープを綺麗に平らげた。
ニーナちゃんにお礼を言って、お皿をお盆の上に置く。
彼女は満足そうにニコリと微笑み、お盆を持って出て行こうとしたんだけど。
ふと、何か思い出したように、ドアの前で振り返った。
「兄さん? またその人に妙なことしようとしたら……今度こそ、絶対に許さないわよ?」
男はげんなりした顔でうなずいてから、妹の後姿を見送る。
そして私に向き直り、
「――さて。話の続きをしようか」
妹の前とは全然違う、硬い表情に戻って、私を射るように見つめた。
私は彼の視線を受け止め、こくんとうなずく。
……やっぱり、この人に人殺しなんかさせちゃいけない。
ニーナちゃんのためにも、絶対やめさせなきゃ!
明日までに、必ず男の気持ちを変えてみせると、私は強く心に誓った。