第5話 突然の抱擁
「ああ、リア。待たせて悪か――っ」
ドアを開けた私は、ギルと目を合わせないように、少しうつむいていたんだけど。
変に思ったのか、彼は驚いたように言葉を切り、心配そうに訊ねて来た。
「どうしたんだい? 顔色が悪いようだが……。もしかして、今になって怖くなった?」
「え? 怖く……?」
ギルは柔らかく私の腕をつかみ、自分の胸元に引き寄せると、優しく頭を撫で始めた。
「かわいそうに……。目の前で親しい者が襲われて、平気でいられる訳がないか。……すまない。私の配慮が足りなかった。君一人を、あんな薄暗い部屋に残して……。心細かっただろう?」
労るような声に、呆然とする。
この人は……どこまで優しいんだろう。
普段は意地悪なこと言ったり、からかってばかりいるクセに……。
こんな時は、胸が痛くなるくらい優しくて、温かくて……。
「リア?」
ギルが驚いたように、私の顔を覗き込む。
私の両目からは、涙がはらはらとこぼれ落ちていた。
「リア――!」
掻き抱かれて、息が止まる。同時に、鼓動が激しく暴れ始める。
「大丈夫だよ。あの少年――シリル、だったかな? 安静にしていれば、必ず回復するから。何も怖がることはない。ただ、この部屋に彼を寝かせておくのは、ちょっとまずいからね。今は、ウォルフの部屋に移ってもらっている。心配だろうが、当分、彼を見舞うことは出来ないんだ。……我慢してくれるね?」
私の涙のワケを、ギルは、シリルのことが心配なせいだと思っているらしい。
しきりに『大丈夫だよ』『心配いらないよ』と、落ち着かせるような言葉を掛けてくれる。
その優しさが、胸に沁みれば沁みるほど、ズキズキと痛んで……どうしようもなく、泣けて来てしまった。
違うよ、ギル。私はそんな、優しい人間じゃない。
大丈夫って聞いた後は、ギルと自分のことばっかりで……シリルのこと考える余裕なんて、なくなってたんだよ。
ギルに嫌われたらどうしようって……そんなことばっかり、考えてたんだよ。
だから……だからそんなに、優しくしないで……。
「リア……お願いだから泣かないでくれ。泣いている君も可愛いけれど、私はやはり、君の笑顔を見ていたい。本当にもう、シリルは大丈夫だから――」
「ちがう……の。シリルのことで、泣いてるんじゃ……ない」
ギルが良い方に誤解してるのが苦しくて、思わず声に出してしまった。
「え?……リア?」
ギルは困惑したように体を離し、肩に手を置く。
「シリルのことではないのなら……どうして……」
訊かれたとたん、体がすくんだ。
本当のことを覚られるのが、怖かった。ズルイ自分をギルに知られるのが、怖くて堪らなかった。
「……いいよ、何も言わなくても。無理に訊き出そうとは思っていない」
「え……?」
予想外の言葉に、驚いて顔を上げると――ギルはふっと微笑んで、私の額にキスをした。
「言いたくないことは、言わなくていいよ。誰にだって、一つや二つ、秘密にしたいことはある。君は正直すぎる人だから、黙っていることが罪悪であるかのように、感じてしまうことが多いのかも知れないが……そんなことはないんだよ。泣いてしまうほどに辛いことなら、言わなくていいんだ。誰も君を責めはしないよ」
「ギル……」
「だからほら、もう涙を拭いて。身を清めて、新しい服に着替えておいで。――夕食はまだだろう? それも用意しておくから。さあ早く」
そう言って、彼は私の背を抱くようにしてバスルームへと導き、すでに用意されていたらしい、たたまれた服を手渡した。
「これが着替え。ウォルフが揃えて来たものだから、気に入るかどうかわからないが……。今はこれしか用意出来ないんだ。我慢してくれるね?」
戸惑って見上げると、
「一人で入れる? 心配なようならメイドを……と言いたいところだが、それは無理だからね。頑張って一人で入ってもらうしかないな。それとも――」
彼は私の頭に手を置き、耳元に口を寄せてささやいた。
「私が一緒に入って、手伝ってあげようか?」
「な…っ!」
一気に体温が上昇し、思わず後ろに飛びのく。
「いっ、いーですっ! 一人で入れますッ!! ばっ、バカなこと言ってないで、早く出てってくださいッ!!」
彼は口元を片手で覆いながらくすくす笑って、
「冗談だよ。そんなに慌てなくてもいいだろう? それに、私達は婚約しているんだ。そう恥ずかしがることでも――」
「そっ、そんなの関係ありませんっ!!――いーからもうっ、出てってッ!!」
「はいはい。出て行きますよ、お姫様」
ギルはバスルームのドアを開けて出て行く間も、ずっとおかしそうに笑い続けていた。
私は彼の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、鍵を掛けようとドアに近付き、
「ああ、そうだ。今着ている服なんだが――」
「きゃーーーッ!!」
再びドアが開いて、慌ててダダダダっと後ずさる。
ギルはひょいっと顔を覗かせて、涼しい顔でつぶやいた。
「……っと、残念。そろそろ服を脱ぎ始めている頃だと思ったのに」
「な――っ!……な、何っ、何を言……っ」
心臓がバクバクして、全身がカーッと熱くなる。
「ふふっ。だから、冗談だよ。脱いだ服や下着は洗わないといけないから、後で取りに来る。それを伝えたかったんだ」
「……あ……あぁ……。服……ですか……」
「そう。メイドに頼む訳にもいかないから、洗うのはウォルフに任せるしかないけれど。……それとも、捨ててしまった方がいいかい? 血に染まってしまった服など、着たくないというのであれば、こちらで捨てておくが――」
「あ、いえっ、捨てるなんてもったいな――」
……ん?
ちょっと待って。
今、確か『洗うのはウォルフに頼む』って……。
「あぁあああっ!! ダメッ!! それはダメぇええーーーッ!!」
「え? ダメ……って、捨てないで欲しいってこと?」
「ちっ、違いますッ!! あ、洗うのは私がっ――、じ、自分で洗いますからッ!! ウォルフさんには頼まなくていーですッ!!」
「リアが? 自分で?……いや、しかしそれは――」
「いーんですっ、私がやりますッ!! いえっ、やらせてくださいお願いしますッ!!」
いくら『神の恩恵を受けし者』って言ったって、ウォルフさんだって、一応男の人でしょおっ!?
男の人に服だの下着だの……洗うのはもちろん、触られるのだって嫌だよっ!!
ギルはきょとんとした顔で私を見つめ、しばらくしてからプッと吹き出す。
「わ……わかったわかった。わかったから。なにもそんなに、必死にならなくても……」
「う……。ど、どーせギルには、私の気持ちなんてわからないよっ!……いーからもう、ホントに出てってってばぁッ!!」
……なによ。
どれだけウォルフさんを信用してるのか知らないけど、他の男の人に私の服とかし――下着、とか触らせても……ギルは平気なの?
そう考えたら、なんだか惨めな気持ちになって来て、また涙ぐみそうになった。
「リア?」
「出てってっ! 出てってくださいッ!! いいってゆーまで入って来ないでッ!!」
私は彼に駆け寄って、ドアの外へと体を押し出した。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。まだ話が――」
「そんなの後で聞きますッ!! だから出てってーーーッ!!」
バタンと大きな音を立ててドアを閉め、大きく息をつく。
もう……もうっ! ギルのバカッ!!
鈍感ッ!! 無神経ッ!! バカバカッ、大っ嫌いッ!!
……大っ……きら……い……。
……嘘。
大好き。大好き。大好き。
つまらないことで泣きたくなるくらい、好き……。
私はドアの前でうずくまり、自分でも引いちゃうくらいの勢いで、長い間泣き続けた。