ふたりの最期
何となく就職して何となく生きている。そんな生活を始めてもう5年が経った。
目的もなく入学した4年制大学を卒業して、営業職になった俺は6畳一間の家賃5万5千円のアパートに1人暮らしをしている。彼女もおらず、友達もすごない俺の唯一の楽しみは映画館に行くことだけだった。
映画はいい。自分がどれほど惨めでつまらない人生を送っていても、映画を見ている間だけは現実から離れ、スリルでエキサイティングな世界に陶酔できる。
そんな生活をダラダラと過ごし、満足はできないが、平凡な人生を送っていた。
俺は一生このまま何となく生きていき、そして死んでいくのだろうと思っていた。
そんな時、母親が死んだと連絡があった。
父親は小さい頃に死別し、女で一つで俺を育ててくれた母親が交通事故で死んだのだ。
就職して地元を離れる俺を泣きながら見送ってくれた俺の唯一の味方であり理解者だった母親が何の前触れもなくこの世からいなくなってしまった。
できた親孝行といえば初任給で買ってあげた茶碗だけ。そんな小さな贈り物にも母親は涙を流して喜んでくれた。
いくら悔いても母親は戻ってこない。絶望に打ちひしがれた俺にできることは、母親と同じところに逝くことだけだ。
世間では芸能人の自殺が話題を呼んでいるが、あの人達にはそれなりの理由があったのだと今では思う。俺にとってその理由が母親の死というだけだ。
だが、死ぬ前にどうしても見ておきたい映画が1本ある。それは、小さい頃に家族で見た子供と母親の人生を描いた映画だ。
その映画の中では父親と死別し、母親と懸命に生きていく子供の姿がリアルに描かれ、最後はハッピーエンドで終わっている。
俺と母親の人生はハッピーエンドではないかもしれないが、俺はその映画がどうしても見たかった。家族で見ていたあの時間に戻りたいという願望なのかもしれない。
俺はレンタルビデオショップへ行き、その映画を虚な瞳で探し始めた。普段から訪れている店のため、あの映画が置いてある場所の目星は付いている。
目星をつけた棚にあの映画があるのを見つけ、手を伸ばした時だった。
1人の女性と俺の手と重なった。
「あ、すいません…」
女性は小さくそういうと胸の前にすぐ手を引っ込めた。
「いえ、こちらこそ」
俺もとっさに手を縮こませて小さく答える。
「この映画ですか?」と俺がパッケージを指差すと女性はこくんと頷いた。どうやら借りたい映画が被ってしまったようだ。
在庫が数本置いてあればいいが運の悪いことにあの映画は1本しか置いていなかった。どちらかが諦めるしかない。
普段なら譲るところだが今日だけはどうしても譲ることができない。何とかして女性に諦めてもらうしかないと考えていた時、女性が口を開いた。
「すいません、譲っていただけないでしょうか…」
「え、あ…」
先を越されてしまった。俺は情けなく狼狽する。だが、俺も引くことはできない。
「ごめんなさい、どうしても今日この映画が見たいんです。今日見て、明日には返します。どうか、譲ってくれませんか」
俺から冷や汗が溢れ出す。こんな風に反抗したのは子供の頃以来で緊張していた。
そんな様子を不審に思ったのか、女性は「何か特別な事情が?」と俺に尋ねてきた。
嘘をつくこともできた。しかし、気づいたら俺は全てをその女性に話していた。
母親が死んだこと。
何となく生きていること。
その映画を最後に死のうと思っていること。
同情してほしいわけではない。ただ、最後に自分のような人間がいたことをこの世に残したかったのかもしれない。ただ何となく生きてきた人生だったが、それでも誰かに認めて欲しかったのだ。
気がついたらレンタルビデオショップの中で俺は長々と身の上話をしていた。その間、女性は俺の目を見ながらコクコクと黙って頷いてくれていた。
「そんな事情があったんですね…」
全てを話し終えた俺に女性はそう言った。
「ごめんなさい、初対面の人に話すことじゃなかったですね。気にしないでください」
「そんなことありません。私もあなたと同じですから」
「同じ、ですか?」
「完全に同じという訳ではないですが、私もその映画を見たら…その…死のうと思ってたんです」
そんな偶然があるだろうか。とても信じられない。
「なにかあったんですか?」
俺はたまらず聞いていた。他人のプライベートに首を突っ込むのはどうかと思ったが、聞くのをやめることはできなかった。
そして、彼女は少しずつ話してくれた。
信頼していた人に騙されてお金を騙し取られたこと。それが理由で仕事をクビになったこと。もう誰も人を信用できないこと。
この映画が、普通の生活を送っていた時に見た最後の映画であること。
「この映画を見て、あの頃に戻れるとは思っていません。ただ、人生の最期くらいは少しでも幸せな気持ちでいたいんです。あの頃みたいに」
そう付け足して、彼女の話は終わった。
彼女の話を聞いて、俺は何も言ってあげられなかった。彼女に対して、死ぬほどじゃない。まだこれからやり直せる。そう思ってしまったが、人には人の考えがあり、感情がある。俺なんかにはわかり得ない何かがあるのだから。
「すいません、私も初対面の人に話すようなことじゃなかったですね。忘れてください。」
少しの沈黙後、彼女はそう言った。
もちろん忘れることなんてできない。たまたま同じ日に同じ時間に同じ場所でこうして巡り会うことができたんだから。こんな奇跡を忘れることはできない。
そして、気づいたら口を開き、こう言っていた。
「あの、一緒に観ませんか。」
いままで女性を映画に誘ったことすら会話もあまりしたことがない。ただ、この時だけは違った。何の躊躇いなく、そう口に出していた。
そして、彼女は小さく頷く。
一緒に映画を観て何かが変わるとも思わない。最期の思い出づくりをしたいだけなのかもしれない。本当は死ぬのを止めて欲しいのかもしれない。理由はきっと誰にもわからない。
ただ、ひとつだけ言えることは、俺はこの映画をこの人と観たいと思ったということだ。その理由は、映画を観た後にわかるのかもしれない。