【二場】常夜の森の修理屋さん
扉一枚隔てた工房内は、アトリエの周囲に点在していた鉱石や薬草、それらで作成した薬品や道具などで溢れていた。木製の作業机には所狭しとメモが貼られ、備え付けの棚は僅かな隙間も見当たらないほど物で溢れかえっている。机の棚だけでは足りないらしく、隣にもう一つ二つと物置棚が並んでいる。そこも間もなく埋まり切りそうだ。
天井を見上げれば細いロープが無数に渡され、薬草やなにかのメモ、染色した布などがいくつも吊り下げられている。ロープはエルレフリートが頭を下げずに歩き回れる高さにあり、リーリエ用と思われる踏み台が部屋の隅で静かに出番を待っていた。
それだけなら、一般的な工房と変わりない。リーリエの工房で異彩を放っているのは、部屋の中央の床に描かれた巨大な魔法陣と、その中心に恭しく置かれた台座だ。
台座はリーリエの胸の高さほどで、小さな木製円テーブルに似た形をしている。台座の天辺にも魔法陣が描かれており、中心に一つと四方になにかを置けそうな空白めいた円が描かれている。
リーリエは台座に描かれた魔法陣の中心、空白部分にネルケから預かったオルゴールを大事そうに置くと、部屋中から必要なものを集め始めた。
「欠けてるのは風と詩、それから刻……? 装飾の素材はネルケがくれたから……」
台座と棚を往復する度、オルゴールの周りに色鮮やかな鉱石が集まっていく。
不思議な色と輝きを帯びた鉱物たちの他に、金貨を一枚。そうしてオルゴールを素材で取り囲むと、最終確認として指折り数えて小さく素材の名を一つ一つ呟いた。
「ねえエル、これで全部よね……?」
まるで試験の出来を問う生徒のような面持ちで、リーリエがエルレフリートに訊ねる。上目遣いで緊張しながら答えを待つリーリエに、エルレフリートは小さく頷いた。
「ええ、これで全てです。少しずつ成長しておられるようでなによりです」
褒めたのかそうでないのかわかりにくい言い方だが、リーリエはうれしそうに、そしてなにより安堵したように表情を緩めた。
オルゴールの破損箇所は、メロディを奏でる鍵盤部分と内部構造の螺子が数本。それを修復するには、音を伝えるための風と、抑々の音を出すための詩、そして正確に時を刻む他に『正しい状態、正しい瞬間に固定する』意味を持つ刻属性の素材が必要となる。傷がついた外側の金装飾は、せっかくなのでもらった金貨を素材にすることにした。
素材全てを正確な分量で配置し、修復したいものを元通りに再構築する。これが修復の魔法の基本であり、全てである。
「……読み取って、理解して、配置して、再現する……それだけのはずなのに、どうしてわたしの魔法だとあなたのようになってしまうのかしら」
「私に聞かれましても」
「そうよね……自分にもわからないことが、人にわかるはずないわよね」
難しい顔をしながら落ち込むという器用なことをしている主人を見下ろしつつ、異形の従者は淡々と準備を進めていく。
「ただ、私の推測ではございますが」
そう切り出したエルレフリートを、リーリエは傍らから見上げた。立ち姿さえ刃の如き瀟洒な従者は、鋭くも優しい目でリーリエを真っ直ぐに見下ろす。
「最初の理解の段階で、お嬢様はそのものの形だけでなく歴史や想いまでもを読み取っておられるので、そこに要因の一つがあるのではないかと」
「……それっていけないことなの?」
「いけないということはありませんが、修復が行き過ぎてしまう原因であるとするなら、良いこととも言い切れませんね」
「そうよね……」
エルレフリートの言葉は最もだ。そう内省するリーリエの肩にそっと手を置き、静かな眼差しで促す。
「さあお嬢様、原因探しはまた後ほど。お客様をお待たせしているのですから」
「……そうね。せっかく常夜の森を越えてまでわたしたちを頼ってきてくれたのだもの、ちゃんと直してあげなきゃ」
気を取り直し、目の前のオルゴールに向き直る。リーリエがオルゴールに両手を翳すとその上からエルレフリートが手を重ねた。子供の作業をそっと補佐する親のような優しい手つきで、幼い主人を支える。
「Ell yelah. Ferd tictile syella. Ferdolla shalltiera frow」
(わたしは祈る。刻の傷が癒えることを。失われた詩が蘇ることを)
リーリエが目を閉じ謳うように呪文を唱え始めると、足元の魔法陣が光を放ち始めた。歌声が室内に満ち、呼応するように光が膨れ上がったと思うと、オルゴールに吸収されていく。
「―――どう、かしら……?」
恐る恐る目を開き、光が収束していく様を見守る。弾けるように光の玉が宙に舞うのを最後に魔法陣からも光が消え、そして台座の上には傷一つないオルゴールがあった。裏を返して刻まれた文字まで消してしまっていないか確かめると、しっかり誕生祝いの言葉は残ったままだった。
「お疲れさまです、お嬢様。無事修復されましたよ」
「良かった……」
リーリエは新品同然となったオルゴールを両手で抱え上げ、台座を離れる。宝物を扱う仕草で慎重に歩を進めるリーリエをエスコートするようにエルレフリートが扉を開くと、二人は揃ってネルケの待つ部屋へ戻った。
扉が開く音と共に、ネルケはパッと顔を上げてアトリエのほうを見た。そこには預けたオルゴールを両手に持つリーリエと、彼女を先導するエルレフリートがいた。
「リリィ!」
「お待たせいたしました。オルゴールは無事直りましたよ」
「ほ……本当っ!?」
エルレフリートの言葉と共にリーリエがオルゴールを差し出すと、ネルケは震える手で受け取った。外側には傷一つ見当たらない。蓋を開いて中を確かめてみるが、折れていた鍵盤も、一見しただけではどこが折れていたのかわからないほど見事に直っている。軽く振ってみても、中の壊れて落ちた部品がからから鳴る音もしない。
「すごい……あんなに、ひどく壊れてたのに……なのに……」
リーリエが工房に入ってから、然程時間は経っていないはずだ。現に、出されたお茶はまだ仄かに温かい。それなのに完璧に直ったというなら、やはり魔女の噂は本当だったのだとネルケは思った。
「……音、鳴らしてみてもいい?」
「ええ、もちろん」
震える指先が、きりきりと音を立ててゼンマイを巻いていく。指が離れて、一拍。もう二度と聞くことは出来ないと思っていた旋律が、小さな箱から流れ始めた。
繊細な金属パーツが重なり、弾かれ、歌を歌う。単純なメロディだが、だからこそ胸に直接響いてくる。聞けなくなった音と共に封じていた思い出までもが再生され、ネルケはオルゴールを見つめたまま声も立てずに涙を流していた。
「…………ありがとう」
やっとといった様子で、絞り出すような声で呟く。その言葉、たった一言に彼女の深い感謝が込められているのを感じ、リーリエは安堵の息を吐いた。
「お役に立てて良かったです……大事なものなのですね」
「うん」
頷きながら、涙に濡れた頬を袖で拭い、ネルケは照れくさそうに笑った。
「七つの誕生日に、お母様に買ってもらったの。お母様の故郷に伝わる子守歌でさ、よくぐずって泣いてたあたしに歌って聞かせてくれていた歌。子守歌を歌ってもらうような年じゃなくなってからも、ふと聞きたくなるときがあって、それで……」
そう温かな記憶を語るネルケの表情に、僅かに影が差した。
買ってもらって大事にしていただけなら、修理が必要になることはないのだ。そして、これほど大切なものを、中の機構が壊れるような扱いを彼女がするとも思えない。なにが彼女とオルゴールに起きたのかと息を飲むリーリエに、ネルケは不器用に笑って見せた。
「寝る前に聞くとぐっすり眠れるから、毎晩のように聞いてたよ。でもあるとき、うちに聖教会の連中がきてさ……お母様が魔女に加担してるって噂があるから確かめに来たとか言って、家中野盗みたいに荒らし回って……」
ぐっと、オルゴールを持つ手に力がこもる。
階下から聞こえた母の叫び声。大きな足音、扉を蹴破る乱暴な音、なにかが割れる音、椅子やテーブルをなぎ倒して、ありもしない魔女の証拠を探し回る野蛮な複数の男たち。体の弱い母は、あのとき突き飛ばされたことが原因で、ただでさえ弱かった心臓に負担がかかり、寝込むことが増えた上に外を歩き回ることも出来なくなってしまった。
痛む胸を押さえて叫んだ、母の声。それは教会への恨み言でも身を守る言葉でもなく、幼いネルケに対する慈悲を乞う言葉だった。
俯き、深く息を吐いてからネルケは暗い気持ちと嫌な出来事を精算するように続ける。
「お母様が止めるのもお構いなしにあたしの部屋まで乗り込んできてね、枕元に飾ってたオルゴールを乱暴に掴んで勝手に開けて、目的のものじゃないとわかると投げ捨てた」
ネルケの話を、リーリエは息をするのも忘れて聞き入っていた。彼らの所業が、まるで手に取るように、目の前で再現されているように、はっきりと理解出来てしまう。小さな子供の宝物でも構わず荒らす彼らの所業に、覚えがあるからだ。
更に彼らは、ネルケが泣きながらオルゴールに駆け寄ろうとするのを、足元の小石でも退かすかのように蹴り飛ばした。そのときに出来た傷は、いまもネルケの左太腿に小さく残っている。
「……ごめん、暗い話して。あいつらのことは一生赦せないけど、でも、それでリリィに会えたと思うとちょっと複雑なんだよね。どうせならもっと平和な形で会いたかったのはあるけど」
赤く涙の痕が残る顔で取り繕うような笑顔を向けるネルケに、リーリエは胸の奥に棘が刺さる心地を覚えた。ネルケは大切な思い出の品をゴミのように扱われて、身を裂かれる想いだったはずなのに、それを語れる強さも、語ってなお笑える強さも持っているのだ。
「まあ、だからね、直してもらえてほんとうれしいんだ。壊れたのが十歳のときだから、七年くらい聞けなかったのがまた聞けるようになったんだもん。ありがとう」
改めて感謝の言葉を口にしながら、ネルケはリーリエを抱きしめた。やがて、ネルケの手の中のオルゴールは、緩やかに旋律を止める。
無音の中暫く抱き合っていた少女たちは、どちらからともなく体を離すと、照れ笑いを浮かべて目尻の涙を拭った。
「久々にこの曲聞いたらお母様に会いたくなっちゃった」
「名残惜しいですけれど、お外が夜になってしまう前に戻ったほうが良いですね」
「そだね。……うん、そうする」
深く長く息を吐き、ネルケは跳ねるように立ち上がる。
「じゃあ、あたしは帰るね。今日はほんとにありがとう」
「はい、お気をつけてお帰りください。そして出来れば、二度とわたしの力が必要になることがありませんよう」
帰って行くネルケが見えなくなるまで、リーリエは遠ざかる背を見送った。
常夜の森はその名の通り一日中暗闇の中にある。たった数刻、ほんの少し話しただけの間柄だが、彼女は明るい日の光の下がよく似合うと思った。
「……お嬢様」
「大丈夫よ。今更外への憧憬を抱いたりはしないわ。わたしの居場所はここだもの」
扉を閉ざし、日の光に背を向ける。異形の従者と白皙の少女は、ふたりきりの工房へと戻っていった。
森を出ると、外は日が傾きかけていた。一日の仕事を終えて帰路につく人々に紛れて、ネルケも真っ直ぐ家を目指して駆けていく。
「お母さん、ただいま!」
玄関扉を開け、リビングへと駆け込む。元気な声と足音で気付いていた母が、一直線に飛び込んできたネルケを抱き留めた。胸に顔を埋めて機嫌良さそうに笑みを零すネルケを見下ろしながら、母は優しく頭を撫でて言う。
「お帰りなさい。オルゴールは直ったみたいね」
「えっ、まだなにも言ってないのになんでわかったの?」
「あなたがうれしそうだからよ」
ネルケは明るい表情で頷くと、手にしていた袋からオルゴールを取り出して見せた。
「噂通りだったよ。森の奥に独りぼっちだったらどうしようって思ってたけど、ちょっと変わった執事さんもいて、凄くいい子だった」
「そう……良かったわね」
頬を紅潮させて話すネルケの頭を、母の優しい手が慈しむように撫でる。擽ったそうにそれを受け止めてから、ネルケはオルゴールのゼンマイを回して蓋を開いた。
空回りをして掠れた音を立てるだけだったオルゴールが、懐かしい子守歌を歌う。母もその更に母親から聞かされて育った、遠い故郷の旋律だ。
夕焼け空の下、いなくなった兄弟を探す子供の歌。最後に山の中で獣と出会って思わず逃げ帰るが、兄弟しか知らないはずの旋律を奏でる遠吠えが夕焼け色の山奥から聞こえてきたことで、先ほどの獣がずっと探していた兄弟だと知るという、恐ろしくも哀しい愛と別離の歌だ。
歌の意味もわからないくらい幼い頃には無邪気に聞けていたこの歌も、いまとなってはもの悲しく感じてしまう。自分だったらハッピーエンドにしたのにと、母に語ったこともあった。
旋律と共に、たくさんの思い出が溢れてくる。この音色を聞くだけで、優しい母の手を感じられる。二度と聞くことは出来ないと思っていた大切な音色に耳を傾けて、ネルケは旧い記憶に浸った。
「すごいでしょ、ほんとに全部綺麗に直ったの」
「ええ、本当に……」
緩やかに曲が止まると、静寂が辺りを包む。小さなオルゴールを胸に抱き、そっと息を吐いて母の顔を見上げた。
「こんなに凄いことが出来る子が、どうして森の奥にいないといけないのかな」
「そうね……ただ、森の奥のほうが都合がいいこともあるのよ」
「えっ……あんな真っ暗で誰もいないところなのに?」
信じられないと言いたげな表情のネルケに、母はやわらかく目を細めて頷いた。
「修復にはたくさんの鉱石を使うはずよ。依頼の度に森の奥へ取りに行くよりは、お庭のように近いところにあるほうが良いでしょう」
「それは、そうかも知れないけどさ……でも先生は、街に住んでるじゃない」
ネルケの言葉に、母は眉を下げて微笑みながら幼子に言い聞かせるように続ける。
「それにね、人にはそれぞれ安心出来る場所というものがあるのよ。賑やかな街が好きな人もいれば、静かな森が好きな人も、海の傍が好きな人もいるの」
「じゃあお母様は、あの子が好きで森の奥にいると思うの?」
「そうかも知れないという話よ。そうでないとしても、その子に迷惑がかかるから、用もないのに行ってはだめよ」
「……わかったわ」
まだ納得し切れていない様子ながらも頷いたネルケを、母はまた優しく撫でた。魔女に通じていると噂が立っただけで教会の人間が好き勝手荒らし回るのだから、もしネルケが森の魔女に同情して街に連れ出そうとすれば、今度は家を荒らされるだけでは済まないと危惧しているのだ。彼らは自らの意にそぐわない者に対してならば、ありもしない疑念を張り付ける程度のことは平然と行うのだから。
あの日――――ネルケのオルゴールが壊れるに至った事件が起きた抑々の原因は、夫であるジークリンデ伯が、街に教会建設することを反対したことにある。教会に背くということは即ち魔女の側だと見做し、夫が留守のときを狙って訪れたのだ。
不幸中の幸いで、夫が忘れ物を取りに戻ったことで母やネルケが魔女として連行されることもなく、あれから表立って教会建設の話は上がっていないが、依然彼らに疎まれ目を付けられていることに変わりはない。
ネルケの祖父の代から父の代にかけて急速に発展した後発の田舎街であるため、教会が進出してきたのもごく最近だが、だからこそ街の人々は、遠い王都や大都市での噂でしかなかった教会の有り様が、大袈裟に語られた風説などではなかったことに困惑していた。
「……いい子ね」
過ぎった暗い考えを振り払うようにして、母はネルケに微笑んで見せた。
「さあ、そろそろお夕食の支度をしなくちゃ」
「お母様、今日はなぁに?」
「あなたの好きなキノコのクリームスープにするわ。手伝って頂戴」
「やったあ! じゃあ、これ置いたらすぐ行くね!」
返事を待たずに部屋へと駆けていく元気な後ろ姿を微笑ましく見送ると、母も台所へと向かっていった。