龍の少女
1
明るい林の中から飛び立った駒鳥は、薄灰色の腹をひらめかせ、しばらく心地よげにはばたいていた。
初夏の日差しはまぶしく、薄衣のような雲が風に流れた。
重なりあう山々は鮮やかな緑色。それは西に向かってしだいに高くなり、最後に、斑に雪を残した武塔山脈の連なりが、ひときわ険しく空に挑んでいる。
駒鳥は、その武塔山脈めざしてまっすぐに飛びさるかに見えたが、やがてためらうように方向を変え、もとの林に舞い戻った。ブナの木の梢に止まり、小さな首を傾けて地面を見下ろした。
木の根を枕にして、少女がひとり横たわっている。
高い枝葉の間から、林の中の下生えに幾条もの木漏れ日がふりそそいでいた。光と影が作る緑の濃淡の中で、少女は胸元で両手を組み合わせ、呼吸すら感じさせないほど静かに目を閉じていた。
年の頃は十五六。質素な草木染めの上衣と茜色の裳を身につけ、長い黒髪を二つに分けて結い上げている。色白の顔は端正で、形のいい唇がかすかに引き上がり、不思議な微笑を浮かべているようだった。
駒鳥と少女が同時にまばたきをした。
少女が深く息をはきだすと、駒鳥は我にかえったように一声鳴いて、もう一度空高く飛び立った。
横たわったまま、白久は目を見ひらいた。大きな夢見るような瞳が、まぶしげに細められた。
木の葉の間から見える狭い空に両手を伸ばす。
けれど自分の肉体では飛べるはずもなく、白久は軽いため息をついた。
たった今まで身体を借りていた駒鳥は、もう遠くへ飛び去ってしまっている。
本当の鳥ならば。
と、白久は考えた。
自由に武塔山脈の向こうまでも飛んで行けるものを。
だが、白久の霊は、いつもそこでためらってしまうのだ。
白久はしかたなく身を起こした。足元の布包みに目を向ける。父への届けものだった。
ぐずぐずしていては夕方まで村に帰れないだろう。父に会うのが嫌さに、つい駒鳥の中に入りこんで空の散歩を楽しんでしまったけれど。
白久は包みを取り、裳の裾を払いながら立ち上がった。
父の住処はこの林を抜けて、さらに山深く入った場所にある。
これまでにも幾度も往復している山道を、慣れた足取りで白久は歩いた。木々の幹の間から、時おり駆け去っていく小動物の茶色い姿が見えた。頭上では、かしましいほど鳥たちが鳴いている。
やがて木立ちがとぎれ、目の前がゆるい下りの斜面になった。斜面の下は、じめつく沢だ。
沢の向こう斜面の上に、切り立った褐色の崖がある。
白久は、ぬかるみに足をとられないように用心しながら沢の斜面を下りて行った。
近くに高い木がないために、今の時刻、崖にはさかんに日があたっていた。だから一ヶ所だけそこにある裂け目のような穴は、黒々とした深い傷のようだった。
白久はその前に立ってそっと中をのぞきこんだ。白久の父、久伊はこの洞に住んでいるのだ。
2
いつもながら、近寄りがたい場所だった。来るたびに白久は、世界中のすべてに背を向けているような、寒々とした父の意志を感じてしまう。
父が村を去ったのは十五年前、つまり白久の母が死んだ年だということだ。以来、父はこの場所でただ独り暮らしている。時おり訪れる白久を例外に、他の何者も寄せつけることなく。
陽の光が届かない暗がりの中に、細い火が燃えていた。その灯火を背に人影がうずくまっていた。
「父さん」
白久は声をかけた。
もちろん、答えは期待していない。そのまま洞の中に入ると、外の光に慣れた目はちょっとの間なにも見えなくなった。
白久は目をこすって父の側に座り込んだ。ぼんやりと見えてきた父の表情は、白久が来てもいささかも変化しなかった。ちらと娘を見たが、にこりともしない。
めったに陽に当たらない顔は蒼白で、目の下には濃い隈が出来ていた。両頬は、病的なほどこけている。
実際、久伊は病んでいた。悲しいことに、その心が。
妻が死んで以来、彼は誰とも話そうとはしなかった。
父に会うたびに感じる胸の痛みを打ち消すように、白久は快活に言った。
「今日は新しい夏衣を持って来たの。わたしが縫ったのよ。叔母さんにも手伝ってもらったけど。ここに置いておきますね」
後の壁の窪みにのせた灯皿の油が切れかかってるのに気づき、白久はかいがいしく油をつぎ足した。
燃える灯芯を直しながら、無造作に置かれている琵琶に目を止める。
あるものといえば必用最小限の品ばかり、すべてが暗く沈んだ洞の中で、その琵琶だけは異様なほど生気あふれて見えた。
全体がつややかな漆黒で、棹から表板にかけて、ぐるりと巻きつくように銀箔の龍がほどこされている。
龍の双の目に埋め込まれているのは、鮮やかな輝きの紫水晶だ。今にも頭をもたげて咆哮しそうな、みごとな細工の龍だった。
一門を捨て、白久を捨てながらも父が捨てきれずにいる唯一のもの。
父は、龍の一門の琵琶弾きだった。
これは、千年も昔から〈龍〉の琵琶弾きに伝えられている琵琶。〈龍〉がまだ武塔山脈を越えず、西の方の大那で絢蘭たる支配者であった時代の遺物なのだ。
一門の儀式に琵琶は欠かせない。その曲には〈龍〉の歴史がつづられているからだ。
父がこうなってからは、遠縁の青年が別の琵琶を弾いていた。いずれ父が死ねば、この琵琶も譲り渡され、彼が正式な〈龍〉の琵琶弾きになることだろう。
白久は父の琵琶を聞いたことがなかった。おそらく父は、たったひとりで、死んだ母のためにだけ琵琶を弾いているのだと白久は思う。死者の霊鎮めのためにも、琵琶は弾かれるのだから。
何をするでもなく父の側に座っているうち、陽が傾いて来た。
「じゃあ父さん、また来るから」
白久が言っても、久伊は娘を見もしなかった。
白久は、来た時と同様のむなしさを感じたまま洞を出た。
村に帰るころには、陽は沈みかかっていた。白久は空を振りあおいだ。
夕陽に映えた武塔山脈は美しかった。山頂の雪が真紅に燃えている。
背後の雲は、朱や橙色や金色や、あらゆるきらびやかな色に染まってたなびいていた。
こんな時、白久はいつも、もの悲しい思いにつつまれるのだった。
武塔山脈の向こう、大那へのつきないあこがれと、決して帰れないとわかっている諦めと。
おそらくこれは、〈龍〉の誰もが味わっているに違いない感情だった。
もう大那に龍は飛ばない。
龍が生きるためには、大量の地霊が必用なのだ。
龍は、生命そのものが呪力に等しい生きものだし、呪力をもたらすものが地霊だから。 大那の地霊は老い衰えたのだという。龍はいつしか大那を去り、まだ若い未開の地、この大隅へと移り住んだ。
龍の一門もまた、守霊の龍と同じ運命をたどらなければならなかった。龍の名に恥じぬすぐれた呪力者であった一門も、地霊の衰えの前には無力だったのだ。一門の呪力は徐々に失われ、やがては一人の子供すら生まれなくなった。
大那で死ぬことを望んだ一部の者たちを除き、一門は龍を追って大隅に移住した。
今から二百年も前のこと。
その龍の村は、白久の立つ坂の下、細長い谷間にひっそりと眠るようにしてあった。
全部で二十戸あまりの草葺の家々と、村の中央に建つ二つの高床の建物だけのささやかな集落だ。
いくらか広くなった東の扇状地に共同の田畑が開墾されており、その向こうはまた、原生林の山野が続く。
これが〈龍〉の世界のすべて。
坂道に立って村を見下ろすたび、白久はいつも思ってしまう。
ここから手を伸ばせば、一度ですくってしまえそうなほどの小さな世界だ。
かつて大那の広大な全土を支配していた〈龍〉たちは、自分の一門のこんな行く末を想像していたかどうか。
白久はふっと苦笑いし、坂を下りて行った。目の前に人影が現れたのはその時だった。気配もなく、空から生みだされたもののように忽然と。
白久はびくりとしたが、すぐに軽く眉をひそめた。
「驚かせないで、都津」
3
都津はそこに立ったまま、両手を腰にあてがい、白久ににっこりと笑いかけた。
お得意の表情というわけね。白久は皮肉たっぷりに考えた。
彼は白久より二つ年上だ。よく手入れしてある長い髪を後で一つに束ね、柿色の細身の袴と同じ色の上衣に赤い腰帯をきゅっと締めたいでたち。
そのすらりとした肢体と非の打ちどころのない美貌は、彼自身よくご存知らしい。いつもながら効果的な現れ方だった。
それにしても、これみよがしに呪力を使う必要もないのに。
白久はなおも苦笑しそうになった。せいぜい、十歩かそこらしかできない空間移動なのだ。
だが、わずかでも呪力を持っていることは、その容姿同様、彼にとっては誇らしくてしかたがないことなのだ。今でさえ、ほんの数人しか呪力者のいない〈龍〉の村の中では。
「久伊の所へ行って来たのかい、白久」
都津は言った。
「ええ、そうよ」
「わたしは、罠を見てきたところだ。ほら」
と、片手に下げていた大きな雉子を見せ、
「みごとだろう。帰ったら半分わけてあげるよ」
「ありがとう」
白久はさらりと言った。
「でもいいわ。わたしも叔母さんも、肉はあまり好きじゃないの」
「ああ、そうだったね」
都津は白久と並んで歩きながら、なにげなく彼女の肩に腕をまわそうとした。
白久もまた、なにげなくその手をすりぬけた。
都津は、ちょっとばつが悪そうに話題を変えた。
「いつも、久伊のところに行って何を話してくるんだい、白久」
「なにも。父さんは誰とも話さないの」
「じゃあ、琵琶は?」
「わたしは、父さんの琵琶を一度も聞いたことがないわ」
「そうなのか。わたしは両親が話しているのを聞いたことがあるよ。久伊の琵琶は、そりゃあみごとなものだったって」
「母さんが生きている時ね」
顔を曇らせた白久には気づかず、都津は優雅な身ぶりで話しつづけた。
「久伊はみんなの前で幻曲を弾いたそうだよ。冬至祭りか何かの時だったかな。久伊が琵琶をかき鳴らしただけで、龍の幻が現れた。琵琶の音が作る幻とは分かっていたけど、それはまったく本物のようだったって。すると、本当に龍が現れたんだ。久伊がつくった幻を仲間だと思ってね」
父以外の者の口から、何度も聞かされてきた話だった。
大那にいた時から、〈龍〉の琵琶弾きは代々幻曲師だったのだ。
琵琶を弾き、その曲で幻をつむぎだすのが幻曲師。琵琶を弾いただけで人々の目に幻を見せることができる呪力者だ。
大隅に移住しても、白久の家は途切れることなく幻曲師を出し続けた。父の代までは。
「考えてみれば、すごいことだと思うよ。〈龍〉が大那を後にした時には、呪力者はいなかった。ここに住みはじめてからも、はじめは一人も呪力者が生まれなかったという。きみの家以外はね」
「幻曲師は、ほんとの呪力者じゃないわ」
白久は言った。
「琵琶があればこそですもの。芸が高まれば呪力にもなるって叔母さんが言ってた。それって生まれつきのものではないと思う」
「でも、きみはりっぱな呪力者だ。まあ、きみの力はお母さん譲りかもしれないが」
「かもね」
白久はため息を押し殺し、あいそ程度にうなずいた。
「わたしの家は祖父と父とわたしだけだ。でも三代続いているからこれからが楽しみだってみんな言ってくれる。わたしの配偶者しだいだって」
白久は心の中で肩をすくめた。
「あなたは本当の龍を見たことがある?」
突然の質問に、都津はきょとんとして白久を見つめた。
首を振って、
「ないよ。龍が棲むのは大隅のもっと奥の方だ。ここまではめったに翔んでこないさ」
「そうね」
龍の一門が、守霊を見たこともないなんてね。
言いかけて白久はやめた。自分に対する皮肉でもあったから。
かわりに白久は足を速めた。
もうすぐ村。
やれやれと思う。都津が悪い人間でないことはわかっている。ただ好きになれないだけなのだ。
ぼおっとした黄昏が村をつつみはじめていた。
人影はなく、それぞれの家の竃から煙が立ち昇っているほかはひっそりとしたものだ。 都津の家は村の入り口近くににあるし、白久の家は高床のある広場を横切った向こう側だった。そそくさと都津に別れを告げようとした時、冷たい視線に気づいてはっと振り返った。
都津の家の隣から出てきた少女が、戸口の前に立ちつくしてこちらを見つめている。
小柄な、いくぶんとげとげしい顔立ちをした少女だった。右手のこぶしを胸元に引きよせ、かすかに唇をかんでいた。
「やあ、由良」
都津は彼女の様子に気づいたふうもなく、例の微笑みをうかべて言った。
由良はちょっと笑いかえし、もう一度白久をにらみつけると、裳裾をひるがえして家の中に消えてしまった。
由良は、白久と同い年。幼いころはよく遊んだし、ずっといい友達でいたいと思っていたものだ。今はもう無理とあきらめてはいるけれど。
「どうしたのかな」
都津は首をかしげて言った。
「さあね」
白久は深々とため息をついた。
「その雉子の半分は、由良のところにあげたらいいわ。じゃあ、さよなら」
白久は都津を残して小走りに広場を横切った。
4
家の中はもう暗かった。
「おかえりなさい、白久」
竃のところに立っていた叔母の亜鳥が振り返った。
うす暗がりの中に、ぽっと白い花が咲いたような微笑みが浮かぶ。
白久はそれで、たった今の嫌な思いから救われたような気がした。
叔母とはいえ、白久の母とは年の離れた姉妹だったから、白久とは、年が十しか違わない。母が死に、父がああいったありさまになった後、白久はこの姉のような亜鳥に育てられたのだ。
はっと胸をつかれるような美しさが亜鳥にはあった。都津など足元にもおよばない。きめこまかな透けるような白い肌に、眉と唇の色がにじむようである。つややかな漆黒の髪を、ばっさりと肩の下で切り落としていた。
髪を切ったのは、結婚しないしるし。
白久は痛々しい思いで考える。
亜鳥のまぶたは、かすかに青いかげりを帯び、ぴったりと閉ざされたままだった。少女時代の病で、盲いてしまったと聞いていた。
もっとも盲目とはいえ、亜鳥は生活にどんな支障もきたしてはいない。炊事は言うにおよばず、機織りや縫いものでさえ、白久よりも巧みに家事をこなせた。結婚もできないはずはないのに、彼女は早々と髪を切り、独身を宣言してしまったのだ。
「どうかしたの?」
いまもまるで白久の表情が見えるかのように亜鳥は言った。
亜鳥は否定しているが、白久は彼女が呪力者ではないかと思っている。呪力なしで、どうしてこんなにもすばらしい勘が持てるのだろう。
「たいしたことじゃないの」
白久は笑って首を振った。竃の脇に置いた水瓶の水を汲みあげて手を洗いながら、
「途中で都津に会ったの。いっしょに歩いていたら由良ににらまれちゃった」
「そう」
亜鳥は、白久の心をさっしたように頷いた。しかし、それ以上多くは言わず、
「ごはんにしましょう、白久。もう用意はできているわ」
白久は土間から板の間に上がって、灯皿に明かりをともした。
炉が切ってある板間の隅には衣類が入った長持ちが二つと機、あとはきちんとたたまれた二人分の布団。あるものといえばそれだけの、ささやかな住まいである。
他の人々の家も大なり小なり変わらない。大隅に移住した〈龍〉は、まったくの未開の土地を切り開いていかなければならなかったのだ。大那にいたころの王者の暮らしはもはや不可能だったし、初期の移住者たちはそれを望みもしなかっただろう。
過去を捨てて新たな生活をめざそうとしていたはずだから。
いつのころからそれが変わってしまったのか。
大那では得られなかった呪力者が、わずかでも生まれはじめたころから?
呪力者の出現は、一門の誇りを刺激したらしい。かつて大那にいたころの〈龍〉のように、一門のすべてが呪力者となる時が来るかもしれないと思いはじめたのだ。しかも、すぐれた呪力者のあかしである紫色の瞳を持って。
過去を振り返った時、一門は開拓者ではなくなった。〈龍〉の華々しい記憶に結びつく、唯一のものにとりつかれた。つまり、紫色の瞳の呪力者を生み出すこと。
今では呪力者同士の結婚しか認められないほどになっている。
白久と同じ年代の者は一門の中に数人いるが、呪力者は三人だけ。それが(やっかいなことに)白久と都津と由良だった。
忘れようとしていたさっきのことを思い出し、白久はまたむしゃくしゃしてきた。都津はまるで許婚のような顔をして寄ってくるし、由良は敵意をむきだしにするし。
自分のことは放っておいて、二人が結婚してくれればこんなに嬉しいことはないのに。
白久はため息をつきそうになり、苦笑した。ため息だらけの一生なんて、ごめんだと思う。
でも、どうすればいいのだろう。
過去だけが澱のように淀んだこの村で。
5
空がさわやかに晴れた、いい日だった。
ほどよい風を頬に受けながら、白久は独り雑木林を歩いていた。父のこもる山だったが、今日は父に会うつもりはなかった。あの沢のところを遠まわりし、あてもなくぶらぶらと歩く。
日だまりに、山百合が一群れ咲いているのを見つけて側に近づいた。
強い芳香が鼻をつき、白久はにおいに邪魔されない風上に立ってぼんやりと花を眺めた。大きな花片が重たげに風にゆれるたび、ちらちらと黄色の花粉がふりまかれた。
白久はひとつ、あくびをかみころした。
今日は倉の虫干しの日で、白久はだいぶ前から出るのをやめようと決めていた。
年に一度、高床の倉庫が開けられ、一門の長である〈老〉を中心に、おそろしく儀式ばったやりかたで〈龍〉の宝物が外に出る。
大那の記念として大隅に持ち込まれたそれらは、たいした数ではなかったが、一門の目に触れるのはその時ばかりだった。
しかし、参加する者は呪力者のみ。呪力を持たない者は、それを遠まきにして眺めるだけだ。一門の中では呪力のない者は呪力者よりもはるかに多いのに、彼らはいつも呪力者よりも一歩下がった位置にいて、自分たちを卑下しているように見える。
そんな人々のものほしげな顔を見るのは嫌だったし、都津のような呪力をひけらかしてばかりいる連中と一日中いっしょにいるのはもっと嫌だった。
〈老〉は怒るだろうが、嫌な思いの一日よりも小半刻ばかりの〈老〉の小言の方がまだ堪えられそうな気がする。
白久は、思いをふっきるように首を振った。大きく伸びをして、再び歩き出す。
けもの道を登ったり下りたり、だいぶたってから一息ついた。
強くなってきた陽の光を、木々の青葉がさかんに弾きかえしていた。
のどかな鳥の声があちらこちらで聞こえ、潅木の茂みの上を小さな羽虫が渦のような群れをつくって飛びまわっている。
ぐるりとあたりを見まわして、まだ一度も入り込んだことのない場所だと気がついた。春の薬草摘みの時分にも、村からこんなに離れたところには来はしない。
白久は額にかかる前髪をはらいのけながら顔を上げた。
ざわめく木々の梢を透かし、武塔山脈の青白い姿が見えた。村で見上げるよりずっと近くなったように感じられた。
このまま西に歩いて行けば、いずれ武塔山脈に行きつけるだろう。その向こうに大那がある。
いっそ・・。
歩みかけて、白久は地面に目を落とした。
〈龍〉が去った後の大那がどうなっているかは誰も知らない。
支配者を失った大那は乱れに乱れ、現在もそれぞれの一門がしのぎを削る戦世が続いていると言う者もあれば、大那の地霊はとうに枯れ果て、草木一本生えない不毛の地と化していると言う者もいる。
どんなに想い焦がれたところで、大那は〈龍〉の生きる場所ではなかった。
大那に行くことは死を意味しており、白久はまだ、死が恐ろしかった。
白久は深々とため息をついた。いつも同じ想いの繰り返し。
そして行きつくところは、うつうつとした日々の続きなのだ。
虫干しはまだ終わらないだろう。どうせ待っているのは〈老〉の小言ばかりなのだから、遅く帰るにこしたことはない。もう少しこのあたりで時間を潰すことにした白久は、急に喉の渇きをおぼえた。
近くの木から、ちょうど一羽の黒つぐみが飛び立った。白久は、すばやくつぐみの内に霊をすべりこませ、雑然とした記憶をまさぐった。
近くに湧き水があるようだ。
白久は黒つぐみの記憶に導かれるまま歩き出した。
木立ちを抜けるといくらか広い草地があって、また林が続いている。林の向こうに、淡い紫色の花をたくさんつけた百日紅の木が見えた。
それが黒つぐみの目印だった。白久は風に揺れる淡紫の花をめざして林を横切った。
視界が開けたところで、白久ははっと立ち止まった。
先客がいたのだ。
百日紅は岩肌をむきだしにした急な斜面の下に生えていて、水はその岩肌の割れ目から流れ落ちている。
百日紅の根元には澄んだ水溜りができ、地面の低い方に向かってちょっとした流れを作っていた。
彼は水溜りの前に片膝をついて、両手で水を掬い上げていた。
白久の気配に気がつくと、驚いたようにこちらに顔を向けた。
6
水が彼の骨ばった指の間からこぼれ落ちた。百日紅の花が映った水面が、揺れて光にきらめいた。
若い青年だった。
赤みを帯びた長い髪は、ひとつに束ねてはいるものの、癖がひどくてあちこちに飛びはねている。眉は鮮やかで、一重の目は黒々とよく光っている。いくぶん大きめの鼻と口とが、子供っぽい愛敬をとどめていた。白久より、二つか三つ年上だろう。
でも、〈龍〉にこんな人はいない。
夷人?
白久はあやうく声をあげそうになった。
大隅には、〈龍〉の他にも先住民がいるのだ。
米を作ることを知らず、獣の皮をまとって洞穴の中で生活しているという夷人。彼らは〈龍〉を恐れて近づかないので、白久はその姿を一度も見たことはないけれど。
しかし、青年のなりは聞いている夷人とはまるで違っていた。
だいぶ汚れてはいたが、若草色の上衣は白久の衣などよりもずっと上質なものだったし、光沢のある灰色の腰帯にも手のこんだ織り模様が浮きあがっている。
夷人でも〈龍〉でもないとしたら。白久は混乱して立ちつくした。
いったい、何者?
彼もまた、まじまじと白久を見つめていた。濡れた両手で顔をこすり、首をかしげてつぶやいた。
「夷人?」
「ちがうわ!」
白久は思わず叫んだ。
こともあろうに夷人などと間違えられてはたまらない。
「わたしは〈龍〉よ」
「龍?」
彼は、ゆっくりと立ち上がりながら繰り返した。
長身で、身体つきは精悍だ。近づいて来たので、白久は一歩退いた。
「龍というのは、もしかして龍の一門のことだろうか」
「あたりまえじゃない」
「これは驚いた」
彼は、はねた髪をかきむしって、心底驚いた声を出した。
「大隅に移り住んだという〈龍〉の話は本当だったのか」
白久はただならぬ予感に襲われ、声をふりしぼった。
「あなたは誰? どこから来たの」
彼は西の方、武塔山脈を指さしてあっさりと言った。
「大那だよ。もちろん」
「うそ!」
「嘘じゃないよ、困ったな」
彼は人なつっこい笑みをうかべた。
「天香からはけっこう長い道程だったが、ようやくここまで辿りついた」
「天香って・・天香の都のこと」
「そうだよ」
白久は、めまいがしそうになった。この男は間違いなく大那から来たのだ。
〈龍〉にとって、大那は過去だけに通じていた。過去に戻れないのと同じように、どんなに憧れても決して行くことができない幻の地。
その大那から来たのだと彼は言う。実にこともなげに、涼しい顔をして。
白久のただならぬ様子に、彼は驚いたようだった。
ささえるように白久の腕をとったので、白久はびくりと身をすくめた。
「わるかった」
あわてて彼は言った。
「座って話そう。水を汲んであげようか」
「いらない」
白久は首を振りながら、彼に導かれるまま百日紅の木影に腰をおろした。
小さな泉のような水溜りのまわりには、きれいな緑色の苔が生えている。それを見るともなしに見て、
「いま、大那はどうなっているの?」
白久は言った。自分のものとは思えない、うつろな声だった。
「みんなどんな暮らしをしているの? 地霊は衰えているはずじゃないの?」
「衰えてはいると思うよ。ほんの少しづつではあるが」
彼はちょっと考え込んでから答えた。
「だが、〈龍〉ほど地霊に敏感な一門はいない。わたしたちが生きていくぶんには何の変わりもないな」
「大那の大王は〈龍〉だったわ。大王がいなければ、諸国は乱れるばかりじゃないの」
「確かにね。龍の一門が大那から消えて百年ばかり、大空位時代があって、ひどい争いが続いていたようだ。結局大王位を手にしたのは獅子の一門で、今も〈獅子〉の治世は続いている」
「平穏に?」
彼はうなずいた。
「まだまだ〈獅子〉の時代は続きそうだ」
「じゃあ、〈龍〉がいなくとも、大那は何も変わらないのね」
白久はつぶやき、急におかしくなった。〈龍〉無き後も、大那は変わらず歴史をつくりつづけてきたのだ。
今も武塔山脈の向こうで人々は生活し、たぶん〈龍〉のことなど伝説の片隅に押しやられてしまっているのだろう。
この大隅でちっぽけな村に引きこもり、過去ばかり夢みている〈龍〉がたまらなく滑稽に思えてくる。
白久は声をころして笑いだした。
どうしたわけか涙がとまらなくなったので、顔を上げることができなかった。
「だいじょうぶかい?」
彼は遠慮がちに言った。
「平気よ」
「こんどは、わたしが聞いていいかな」
白久はすばやく袖で目をこすった。
「なに?」
「もちろん、きみの他にも〈龍〉はいるんだね」
「ええ」
「きみの仲間のところに連れて行ってくれないか」
「だめよ!」
「なぜ?」
彼は無邪気に尋ねた。
白久は返事につまった。
彼の存在を一門の者に知らせてはいけないという気がした。〈老〉たちはどんな反応を示すだろう?
「あなたはどうして大隅に来たの?」
白久は彼をにらみ、きつい口調で言った。
「その昔の大那の覇者が、どんなふうに落ちぶれているかを見とどけるため?」
「とんでもない」
彼は驚いたように首を振った。
「〈龍〉に会えるなんて予想外だったよ。わたしは、本当の龍を捜しに来たんだ」
「龍?」
「大隅に龍は棲んでいるんだろ」
「ええ」
「きみは、見たことがある?」
白久は、口ごもった。
「いえ」
「龍の一門でも、龍を見たことがないわけか」
自分で思うのと、人に言われることは別だ。白久はむっとした。
「龍は大隅のずっと奥に棲んでいるのよ。ここまで翔んでくることなんて、めったにないの」
白久の刺のある口調には頓着せず、彼は目を輝かせた。
「じゃあ、翔んで来た時もあったんだね」
「ずいぶん前よ。わたしが生まれる前のことだわ」
「龍の寿命は、とてつもなく長いと聞くよ。ずいぶん前と言っても、龍にとっては一瞬のことなのかもしれない。今すぐにでも、また翔んでくるかもしれない」
彼は、大きく空を振り仰いだ。
「この大隅に、龍がいるのは確かだ」
「龍を捜してどうするつもり?」
「見るのさ」
「見る?」
「ああ。龍はこの世で一番巨大で、一番美しい生きものだっていうだろう。一度でいいから見てみたいんだ」
「それだけ?」
白久は肩を怒らせた。
「それだけのために、あなたはわざわざ大隅に来たの?」
「もちろん。充分に価値ある旅だろ」
「おかしな人ね」
「そうかな」
彼はきょとんと首をかしげた。白久は彼を見つめ、ため息をついた。
腹だたしさと当惑が、交互にわきあがってくる。
龍を見るためにだけ、一門の前にそびえたつ武塔山脈を軽々と越えてきた男。この大那から来た男を、どうすればいいのだろう。
「きみに会えてほんとにうれしいよ。龍の一門に会えるなんて」
彼は身を乗り出し、底ぬけに明るい声で言った。
「なんというか、歴史に出会えたって感じだな。きみたちの存在はひどく神秘的だった。大那には残っていない〈龍〉の昔語りもあるはずだよ。わたしはぜひきみの一門に会ってみたい」
白久の手にはおえなかった。亜鳥と相談した方がよさそうだ。
「お願い」
白久は、彼にすがりつくようにして言った。
「わたし、明日またきっと来るわ。だからここにいて。この場所を動かないで」
彼は白久を見つめて、首をかしげた。
「わたしがきみの一門に会ってはいけない理由でもあるようだな」
「とにかく、お願い」
白久は立ち上がった。
「わたしの言う通りにして」
彼は不思議そうな表情のまま白久を見上げた。そして、ひとつにっこりと笑ってうなずいた。
「わかった」
彼の笑顔は、白久をどきりとさせた。白久は彼から目をそらした。
ひどく落ち着かない気分だった。
この青年の持つ雰囲気は、いままで白久が出会ったことのないものだ。
彼には、一門の者たちとは違う何かがあった。
〈龍〉に足りない何かが?。
「行くわ」
白久は立ち上がった。
「待ってるよ」
自分を見送る彼の視線を感じながら、白久は逃げるようにその場を離れた。
なぜ、彼を隠そうとしているのだろう。一門に引き渡せばいいことなのに。
〈老〉が、彼をどうするかを決めるだろうに。
だが、〈龍〉たちの混乱は目に見えていた。この出会いは、彼にとっても〈龍〉にとっても愉快なものでないことは確かなのだ。
7
坂道の下に村が見え、白久は大きく息をついた。
村に帰るまでのことは、よく憶えていない。大那と、たったいま会った青年のことをぐるぐると思いめぐらしながら、夢中で歩きつづけたのだ。
一刻もはやく亜鳥に会って、この大きすぎる秘密を分かち合いたかった。
日はだいぶ傾いている。
高床のまわりに人気はなかった。虫干しはどうやら終わったようだ。
早く家へ、と思ったやさき、白久の心をつつくものがあった。白久はぎくりとして身がまえた。
〈老〉が白久に呼びかけている。このまま精神を読まれてはたまらない。
〈老〉の呼びかけは執拗だった。振り切ってはかえって心の中に喰い込まれてしまう。
白久はあきらめて〈老〉のところに行くことにした。
白久はせいいっぱい心の奥の扉を閉めた。〈老〉と会う時はいつもすることなので怪しまれることはないだろう。
一門の長である〈老〉は、最も力ある呪力者だった。他人の心を読める力を持っているのも〈老〉ひとりだ。
自分の心を守る術は、呪力者はもちろん呪力を持たない者も大なり小なり持ってはいるが、〈老〉のような存在にはどうしても威圧されてしまうのだ。
白久は村に下り、〈老〉の住まいである高床の建物のひとつに歩んで行った。
入り口に垂れた厚手の織物の向こうで〈老〉のひっそりとした息づかいが感じられた。
(入るがいい)
〈老〉は、白久の心に語りかけた。
白久は思いきって内に入った。
敷かれたままの布団の上に、小さな影がうずくまっていた。
〈老〉に会うたび、白久はぞっとする。衣に半ば埋まるようにしてつつまれている枯れ枝のような身体。
その背丈は、五六才の子供ほどしかなかった。まばらに生えた灰色の髪、黄ばんだ皺だらけの顔は、正真正銘百才を過ぎた老人のものだというのに。
持って生まれた強い呪力とひきかえに、〈老〉の肉体はいびつな成長しかできなかったのだ。
それでも呪力者であることに満足しているのだろうか。
白久には、わからなかった。
(そこに座りなさい)
〈老〉ほどの年では、口を使って話すより、精神で語った方が楽なのだ。
白久は〈老〉の向かい側に座り込んだ。
(今日は、何の日か分かっていたな)
「はい、〈老〉」
白久は、うなだれたまま答えた。
(なぜ、来なかったのだ)
「なにもしたくない日だってあります」
(そうかな。おまえは、どうも皆となじめぬ。亜鳥に育てさせたのが悪かったのかもしれんが)
白久はきっと顔を上げた。
「叔母は、なにも関係ありません」
(血のせいであることは確からしい。おまえは母親の若い時によく似ておる)
「・・」
母さんも〈龍〉が好きではなかったのだろう。
ちらと白久は母を思った。
時おり亜鳥がしてくれる話からもそれは感じられた。
顔もよく憶えていない母が、たまらなく恋しくなる。
亜鳥にはなんの不満もないけれど、母が生きてさえいてくれたら自分の暮らしはもっと違ったものになっているはずなのに。
(だが、水也は久伊と結婚したぞ)
〈老〉の話は続いていた。
(おまえも、そろそろ考えなければ)
「・・」
(都津がおまえを欲しがっているようだ)
白久は即座に叫んだ。
「都津には由良がいます」
(由良の呪力はさほど強いものではない。おまえの方がすぐれた呪力者が生まれるだろう)
白久はきっとした。それだけで伴侶を決められてはかなわない。
「わたしは、都津が好きじゃありません」
(では、誰を夫にするつもりだ。やもめの呪力者はいるが、おまえの父親よりも年上だ。それとも、おまえよりも年若い者が成長するのを待つつもりか)
「わたしは誰とも結婚しません」
白久はきっぱりと言った。
「叔母のように髪をおろします」
(そうはいくまい。おまえは亜鳥のように盲目でも、呪力を持たぬ者でもない)
〈老〉の思念は執拗だった。
ねっとりとねばりつくように白久の内に入り込んでくる。振り払えるものなら払ってしまいたい。
白久は裳のひだを握りしめ、ようやくこらえた。
(考えてみるがいい)
〈老〉は続けた。
(おまえの呪力は、わし以上に強いものになるかもしれぬ。他のものの霊に入り込める力だ。おまえがその気になりさえすれば、他の人間を意のまま支配することもできるだろう)
他の人間?
白久はぞっとした。
いままで、一度も考えたことはなかった。小さな生きものの霊に入り込むことだけで満足してきた。ちょっとの間、その身体を借りることだけで。
けれど、相手が意志ある人間だとしたら?
自分の霊の内に、他の誰かが入って来ることを想像する。
〈老〉の読心どころではなかった。扉の奥深くにずかずかと踏み込まれ、自分のすべてを曝し、明け渡してしまうのだ。
そんなことをされるなら、死んだほうがましだった。もちろん、誰にもそんなことはしたくない。
白久は、急に自分の力が禍々しいものに思えてきた。
(おまえの力は母親ゆずりだ)
〈老〉は身動きもせずに白久に語りかけている。
(わしは、わし亡き後、水也に〈龍〉を継がせたかった。あのようなことにならなければ)
白久は、はっと顔を上げた。
はじめて聞くことだった。亜鳥も話してくれたことはない。
母のことを思うと、いつも浮かぶ映像がある。
緑の水をたたえる沼のほとりで、眠るように目を閉じて横たわる母の姿。
顔はさだかではなかったが、その唇には微笑みさえ浮かび、白い頬にかかるほつれ毛がかすかに風に揺れている。
なぜ母が死んだのか、亜鳥すらはっきりとわからなかった。ある日ふらりと村からいなくなり、四日後にそんなふうにして息たえている母を父がみつけたのだという。村からはだいぶ離れた大隅の奥地で。
母も〈龍〉の長になどなりたくなかったにちがいない。大隅に来て二百年、過去の栄華だけを煮つめて、にごりににごった〈龍〉などの。
選んだ道は死だったのだろうか?
母の死後、父が常人でなくなったわけも、おぼろげながら理解できるような気がした。
父は母を繋ぎ止めておくことができなかったのだ。そして、〈龍〉全体に憎しみをもって背を向けた。
(おまえは、わしの期待にこたえてもらいたい)
〈老〉は、身動きもせず語っている。
(わかるな、白久)
わかるもんですか。
白久は〈老〉に気どられない心の奥底でつぶやいた。
母を死に追いやったのは、この〈老〉の執拗さだったかもしれないのだ。
(都津とおまえならば、目に紫を持つ子が生み出せるかもしれん。わしのような身体ではない、完璧な呪力者が。〈龍〉の中の〈龍〉を見れば、わしも安心して地霊に還れるというものだ)
紫色の目の子供が生まれたところで、どうなるというのだろう。大那に帰れるわけでもないのに。
あの大那から来た青年のことを〈老〉が知ったとしたら・・。
白久はちらと意地悪い気持ちで考えた。
こんなにも狂おしく、大那にいたころの〈龍〉を模倣しようとしている〈老〉。
大那は〈龍〉など必用としていないことを思い知ればいいのだ。いま大隅にいるのは過去に未練がましくしがみついた醜い〈龍〉の形骸だと。
そして、はっきりと白久は悟った。
〈老〉たちは、彼を許さないだろう。
彼は〈龍〉が望んでも決して手にとどかない大那の化身なのだ。これみよがしに姿を見せられては、憎しみはつのるばかりにちがいない。
彼を一門に会わせてはいけないのだと、あらためて白久は思った。一日も早く大隅から立ち退かせ、〈龍〉のことなど忘れてもらわねば。
〈老〉は目を閉じ、沈黙していた。白久の答えなど求めていない。
彼の中では、すでに白久と都津のことが決められているようだ。
屋根に開いた高窓から、夕暮れのぼやけた光が〈老〉の白髪をかすめて差し込んでいた。その姿は、小さな皺だらけの化けものだった。
どうやら、眠ってしまったらしい。
〈老〉は、一日の大半を眠って過ごしている。これほどの歳で呪力を持ちこたえるには、死のような熟睡が必要なのだろう。
白久は形ばかり一礼して、そそくさと〈老〉の家を出た。
われながら、よく心の奥を隠し通せたと思う。
しかし、〈老〉はどうあっても白久と都津を結婚させる気らしい。もちろん、そんなことはごめんだった。いったい、どうすればいいのだろう。
白久は夕陽に染まる武塔山脈を振り仰いだ。再びあの青年のことを考える。
彼にあって〈龍〉にないものが、はっきりとわかった。
自由と若さだ。
すると、たまらなく彼のことがねたましくなってきた。
ついさっきまで〈老〉たちから守ってやろうと心に決めていたはずなのに。
このまま〈老〉のところに引き返し、彼のことを話してしまったらどうだろうと思う。
突然現れた大那の人間のことで、〈老〉も白久などかまっていられなくなるだろう。その隙に村を逃げ出したら?
大隅のもっともっと奥地に入るのだ。夷人たちといっしょに暮らしてもかまわない。こんな一門の中で一生を終えるよりどんなにいいか。
白久がなかば決心しかけて立ち止まった時、彼の人なつっこい笑顔が鮮やかに甦った。
白久の裏切りなど、考えてもいない、初夏の空のように澄みきった笑顔だった。
白久は軽く首を振り、家に向かって早足で歩き出した。
8
「白久」
家に入ると、亜鳥がほっとしたように微笑んだ。
「虫干しに行かなかったんですって。どうしたのかと思ったわ」
「ごめんなさい。心配をかけてしまって」
白久は土間から上がり、亜鳥の脇にぺたんと座り込んだ。
そのほっそりとした手を取ると、急に疲れが襲ってきて、白久は額を亜鳥の肩にこすりつけた。
「何があったの? 白久」
亜鳥は白久の背中を撫でながら優しく言った。
「ここに帰る前に〈老〉に呼ばれたの」
「お小言をもらったのね」
「いいえ、それより悪いこと」
白久は顔を上げた。
「母さんは父さんが好きだったのかしら」
亜鳥は、かすかに眉を寄せた。
「あなたが生まれたころは、幸せそうだったわ」
「二人の結婚を決めたのは〈老〉なんでしょう?」
「ええ」
「母さんの幸せは、見せかけだったんじゃないのかしら。父さんがいても、わたしが生まれてもだめだったのよ。母さんは、何より〈龍〉から自由になりたかった。だからあんなふうに死んでしまったのよ」
「白久」
亜鳥は穏やかに首を振った。
「姉さんが死んだ理由は誰もわからないの。決めつけてはいけないわ」
「だって・・」
「何があったの?」
亜鳥はもう一度、辛抱強く尋ねた。白久は吐き出すように言った。
「〈老〉はわたしと都津を結婚させるつもりなのよ」
「そう」
亜鳥は、ため息をついた。
「だろうとは思っていたわ」
「そして、わたしを〈龍〉の長にしたいと言うの。母さんで失敗したから。わたしは絶対にいや。母さんのようにはなりたくない」
「・・」
「それからね、叔母さん」
白久は座り直し、一気に言った。
「大那から来た人がいるの」
「大那から?」
「今日会ったの。大那では〈獅子〉が大王になっているそうよ。地霊が衰えて不毛になったわけでも、〈龍〉がいなくて乱世が続いているわけでもないの」
白久は、続けて彼のことを物語った。話すにつれて、昼間以上の興奮が高まってきた。
亜鳥は白久を落ち着かせるように、軽く彼女の肩をたたいている。
「大那は〈龍〉のものでなかったもの」
白久が一息つくと、ゆっくりと亜鳥は言った。
「〈龍〉が大那の一部にすぎなかったのよ。わたしは時々思うの。大那が〈龍〉を拒んだのではないかって。〈龍〉のような呪力者はいたずらに地霊を消費するばかりで大那にとっては邪魔だった。大那の地霊の衰えを早めていたのは〈龍〉なのだから、〈龍〉がいなくなった後に他の人たちが生きているのは当然なのよ」
「だけど」
白久はようやく言った。
「〈老〉たちはそう思わないわ。あの人のことを知ったらどうなるか」
「混乱するでしょうね、確かに」
「わたしは、どうすればいいのかしら」
白久は、なかばすすりあげるようにして言った。
「今日はとんでもない日だった」
「その大那から来た人は、あなたを待っているのね」
「だと思う」
「じゃあ、白久。もう一度その人のところに行って」
亜鳥は考え深げに言った。
「〈龍〉のことをありのままに話すしかないわね」
「ありのまま?」
「大隅にたった一人で来たような人ですもの。〈龍〉のことを知った後、どうするかは自分で決めるでしょう」
「でも、いまの〈龍〉のありさまを話すなんて」
亜鳥はいたわるような笑みを浮かべた。
「みじめ?」
白久はこくりとうなずき、唇を噛んだ。
この未開の地で、過去の夢にばかり溺れている一門がみじめなのではなかった。その中で生きなければならない自分がみじめだったのだ。
龍を見たいという理由だけで、ふらりと大隅にやって来た青年とは、なんて違いがあるのだろう。
夜、枕を並べた亜鳥は白久の頭をやさしく抱え込んだ。
「今夜一晩、何も考えないでお休みなさい、白久。その人のことも〈老〉のこともね。明日には何かいい思いつきが生まれるかもしれないわ」
「無理よ」
「やってみるの」
白久は亜鳥の腕の中で、目を閉じた。
彼女の洗いたての髪のかすかな香りを感じていると、しだいに母親に抱かれた子供のような、穏やかな気持ちになってくる。
いつのまにか、白久は眠りに落ちていた。
9
自分でも驚くほどぐっすりと眠ったためか、翌朝の目覚めは、決して悪いものではなかった。
亜鳥が用意してくれた朝食をかみしめながら、白久は昨日のことを思い返した。
〈老〉の話は、思い出すだけで嫌だった。反対に、あの青年の晴れやかな笑顔ばかりが目に浮かんできた。
もう一度、彼に会いたい。
むしょうに白久は思った。
まだ彼にどう話すべきか決めていなかったが、もう一度会いさえすれば、何かいい考えが生まれるかもしれない。
「行ってくるわね、叔母さん」
食事の後片付けを終えると、白久は亜鳥に言った。
亜鳥は、どこへとも訊ねず、笑みを浮かべてただうなずいた。
感じられるのは、白久への信頼だ。
この叔母のためにも、向こうみずなことは決してできないと白久は思った。
たとえば、母のようなことは。
亜鳥にも告げず村を出て、それきり生きて戻らないなどということは。
外に出ると、昨日と変わらぬいい天気だった。集落の東側の田畑には、すでに働いている者たちがいる。
扇状地を耕して作った農地は、五十人に満たない一門を養うにはまずまずの広さだ。
一門の共同のものではあるが、白久たち呪力者が耕地に入ることはめったにない。田植えの時ばかり儀式的に手を汚すだけで、あとは呪力を持たない者たちの仕事なのだ。
高床の前の広場では、小さな子供たちがひとかたまりになって遊んでいる。
白久は何人かの大人にも出会ったが、村を出る彼女を誰も怪しみはしなかった。父の所に行く彼女を、しょっちゅう目にしているから。
白久はただ、〈老〉に入り込まれないように心をかたく閉ざし、早足で坂道を登って行った。
木立ちの中で立ち止まり、白久は息をはずませた。
額の汗をぬぐうと、山道に覆い被さるような木々の青くささでむせかえるようだった。
〈老〉の呪力は、村とその周辺だけのものだ。もちろんこんな遠くにはとどかない。白久は村を出てはじめてひと休みした。
息が、なかなか整わなかった。
こんなに急がなくてもよさそうなものだったのに。
昨日の場所へはもう少しだった。だけど・・。
ふと白久は考えた。
あの百日紅のところに彼がいなかったらどうしよう。
何の理由も言わず、ただ待っていてくれだなんて虫のよすぎた話だったかもしれない。もし彼がいなかったら?
にっこりと笑って確かに彼は言った。待っているよ、と。
だが、自分は、あの笑顔に騙されただけなのではないのか。
考えると、昨日は浮かばなかった疑念が際限もなく湧き上がってきた。疲れが、白久の想いに拍車をかけた。
彼がここに来たのは、本当に龍を見るためだけなのだろうか。
はじめから龍の一門がいることを知っていてやって来たのではないか。
たとえば、〈龍〉の宝物をかすめ盗るためとか。
その時はその時。
白久はなかば捨てばちな気持ちで考えた。いくら〈龍〉が堕ちたとはいえ、盗人ぐらいは簡単に捕まえる。あとは〈老〉がどうするか決めるだろう。
自分は、やっかいごとからひとつ解放されるわけだ。
木の間から薄紫の影が見えてきて、白久はちょっと立ち止まった。
木立ちの向こうに人の気配は感じられない。失望と、しかしかすかな期待に心をゆさぶられながら、白久はゆっくり歩み出した。
湧き水のところで戯れていた数羽の鳥が、白久の影に驚いて飛び立った。
彼は、百日紅の根元に頭を向け、こちらに長々と足を伸ばして軽い寝息をたてていた。
湧き水に陽の光が反射して、彼のいかにものどかな顔にちらちらと光の綾をつくっていた。
鳥たちも警戒しないほどぐっすりと、彼は眠り込んでいたのだ。
自分をこんなに悩ませておいて!
白久は、彼の大きな鼻をおもいきりつまんでやりたくなった。
白久は足音を荒くして彼に近づいた。彼はようやく目を覚まし、横になったまま眩しそうに白久を見上げた。
「やあ」
白久は黙って彼を見おろした。彼は身を起こしてにっと笑い、
「待っていたよ」
「ぐっすり眠って?」
「退屈だったんだ。しょうがない」
白久は彼から少し離れたところに腰をおろした。
彼の顔を見て、それから、何を話していいのかわからない。
「昨日、訊き忘れたことがあったよ」
彼は胡座に座り直しながら、屈託なく言った。
「きみの名前をさ。わたしは風嵐の三狼。狼の一門だ」
「そう」
白久は彼をまじまじと見つめた。言われて見れば彼からは、野生味あふれる狼の感じが確かにする。
三狼は、うながすように白久を見た。
「わたしは、〈龍〉の白久」
「〈龍〉か」
三狼は繰り返した。
「昨日は本当に驚いたよ。龍の一門が生きているなんて、都じゃ一握りの人間も信じてはいなかった。龍も生きていないと言いはる者もいるくらいだからね」
「龍はいるわ」
白久はつぶやいた。
「もちろんだ」
三狼は、大きくうなずいた。
「彼もそう言っていたよ」
「彼?」
「ああ、昨日きみが帰った後、ちょっとこのへんを歩きまわってみた。そしたら、別の〈龍〉に会ったんだ」
「別の」
白久はかっとした。
あれほどここを動くなと言ったのに。
自分がせっかく好意で忠告してやったのに、この男は大なしにしたのだ。
「実は夕べは、その人の洞にやっかいになったんだよ」
三狼は白久の怒りにも気づかぬように言った。
白久は、ぎょっとした。
「その人って・・」
「みごとな龍の琵琶を持っていた。〈龍〉の琵琶弾きなんだって? わたしに久伊って名乗ったよ」
「久伊」
白久はうわずった声でささやいた。
「その人は、あなたに自分でそう名乗ったの?」
「もちろん」
三狼は、首をかしげて白久を見つめた。
白久は激しくなる胸の鼓動を聞きながら、ふらりと立ち上がった。
自分とも言葉をかわしたことのない父が、この男に名乗ったなんて。
「その人、他に何か話をした?」
「あまり。わたしが大那から来たと言ったら、大那の話をしてくれと言われたよ。あとは、ずっとわたしの話を聞いていた」
「どんなふうに?」
「時々、ちょっと笑っていたかな。変わった人だとは思ったけど・・いったい?」
「いっしょに来て」
白久はなかば駆け出していた。
「わたしの父親なの」
10
「きみの?」
三狼は、あわてて白久の後を追いかけた。
夢中で駆けながら、白久は考えた。
ここから父の洞窟はそう遠くない。三狼が父に会うことを考えなかった自分がうかつだったけれど、本当に父が三狼に関心を示したのだろうか。
もしそうなら、それは三狼が〈龍〉ではないためか。
きのう白久が感じたように、〈龍〉にはない三狼の魅力が、父の心を開かせたのだろうか。
心の病がそう簡単に治るとは思えない。一刻も早く自分の目で、父の様子を確かめたかった。
白久は足を取られるのもかまわず沢を渡って洞の前に来た。
奥まで見通せないほど、あいかわらず中は薄暗い。
だが、父のいる気配は確かにした。
白久は声をかけようとしてためらった。
返事がこない時の失望が嫌だったから。かわりに、わけがわからないながらも白久についてきた三狼をうながし、中に入らせた。
久伊は、洞窟の壁にもたれかかって腕組みをしていた。
眠っているように頭を垂れていたが、三狼の足音で顔を上げた。
自分の内ばかりを見つめているようなその瞳に、つかのま光がやどったことを白久は見逃さなかった。
白久には、決して見せたことのない反応だった。
「やあ、昨日はどうも」
三狼は明るく声をかけた。
信じられないことに久伊はうっすらと笑みさえ浮かべ、白久に目を向けた。
「大那のことを聞いたか? 白久」
白久は言葉を失った。
ものごころついた時から、初めて聞く父の声だった。
なのに父はあっさりと、何かの会話の続きのように話しかけてくる。
「実におもしろい話だった。一門の者にも聞かせてやりたいものよ。〈老〉はどんな顔をすることやら」
「父さん・・」
白久はかすれた声で言った。久伊は白久を見、口の端をゆがめてくっくと忍び笑いをもらした。
白久はぞくりとし、身をひるがえして洞を出た。
父の狂気はやはりぬぐえない。
それでも自分の名を呼んでくれた。自分を白久と認めてくれていたのだ。
三狼が白久を追ってきた。
「ごらんの通りよ」
白久は言った。
「あなたも昨日から気づいていたでしょ。父は正気じゃないの。でも、あなたに会う前はもっとひどかった」
「どういうことなのか・・」
三狼は当惑したように頭をかいた。
「わからないな、わたしには」
「あなたが教えてくれた大那の様子が、父は気に入ったみたいね。父は〈龍〉を憎んでいるの。あなたの話を聞いて、いくらか胸のつかえが下りたんじゃないかしら」
「大那の話で?」
「この二百年の間、〈龍〉は大那のことなんて何ひとつ知らなかったの。自分たちに都合いいような勝手な想像をしてきたんだわ」
白久はこぶしを握りしめて一気に言った。
「本当の大那の姿は、〈龍〉を打ちのめすでしょうね。〈龍〉の大那ではなかったんですもの。龍の一門は大那の一部にすぎなくて、〈龍〉がいなくても大那はちゃんとある」
三狼は白久を黙って見つめ、しばらくしてから口を開いた。
「きみも、きみの一門が好きではないようだね」
〈老〉と都津の顔が、すばやく白久の脳裏をよぎって消えた。
「大嫌いよ」
自分でも驚くほど大きな声が出た。白久ははっとして唇を噛んだ。
三狼はちょっとうなずき、ため息をついた。「わたしが来たことが、きみを困らせているならあやまるよ。なにか、きみの手助けになれることがあればいいんだが」
「・・」
「きみの父上は、わたしに会ってから変わった。そうだろう?」
「ええ」
「しばらく、ここに置いてもらえるかな」
白久は驚いて目を見張った。
「時間があれば、もう少しいい方に変わってもらえるんじゃないだろうか。わたしが、きみの父上の側にいてみるよ」
白久はあっけにとられて三狼を見つめた。 父の心が癒えるなんて、白久は一度も考えたことがなかったのだ。
「ありがたいわ。だけど」
「だけど?」
「なぜ、あなたがそんなことまでしてくれるの?」
三狼は首をかしげ、困ったように頭を掻いた。
「性分だろうな。しかたがない」
三狼の言うように、父の心が白久の方に戻ってきたら、どんなに嬉しいだろう。
父の存在さえあれば、〈老〉に対してだって心強くなれるだろうに。
三狼は、白い歯を見せてにっと笑った。
不思議な人だ、と白久は思った。
つい彼の微笑みに惹き込まれている自分を感じる。
美しさとはかけ離れた、〈龍〉にはない個性的な顔立ちだ。だが、都津などよりずっと魅力がある。
大那の人間は、みんな彼のようなのだろうか。
だとすれば、〈龍〉の血なんて、なんて空しいものなのか。
三狼がきょとんとして白久を見ていた。白久はあわてて首を振った。
「もう一度、父さんに会って来る」
父は、あいかわらずうす暗がりの中にうずくまっていた。
もう白久に話しかけることはなかった。再び自分の奥深くに閉じこもっている。
さっきの変化は何だったのだろう。三狼の存在は、本当に父の心を癒してくれるのだろうか。
でも、そうであるように信じたかった。
父ばかりではない。白久もまた、三狼といると心が明るくなるような気がするのだ。
日が傾き、帰らなければならない時だと気づくまで、白久は〈老〉のことなど忘れていた。
白久が沢を渡り終えるまで、三狼は洞窟の前で見送ってくれた。
「村には近づかないようにするよ」
三狼は言った。
「わたしだって、きみたちの心を乱したいとは思わない。いずれ、真実を求める人たちが現われるんじゃないのかな。いまはまだ、その心構えができていないだけで」
白久はうなずいた。
ひとまずこれで、三狼のことは安心できたわけだ。大那への〈龍〉の感情は、三狼が考えているほどなまやさしいものでないにしても。
沢岸の斜面を登って茂みの小道に入ったとたん、白久はぎょっとして立ち止まった。
目の前に、突然立ちふさがった者がいる。
「由良」
白久は、驚きを隠して言った。
「どうしたの? こんなところで」
由良は、口を歪めてふふんと笑った。
彼女の可愛らしさが、台無しになる表情だ。
「都津が、新しい罠をしかけるって聞いたから、ついて行ったのよ。でも、途中ではぐれて道に迷って。そしたら、あなたたちがいた」
「あなたたち?」
白久は口ごもった。
「あの人は何者?」
由良は、鋭く尋ねた。
「〈龍〉じゃないわ。夷人でもない」
由良は、三狼の姿を見てしまったのだ。
「〈老〉には言わないで」
白久は、とっさに叫んだ。
こうなったら、由良に本当のことを話すしかない。
「あの人は大那から来たの」
一呼吸おいて、由良はつぶやいた。
「大那・・」
「これがわかれば、村中大騒ぎでしょう」
白久は必死で言った。
「だからお願い。〈老〉やみんなには黙っていて」
「大那には、まだ人が住んでいるの?」
「ええ」
「なぜ、黙ってなくちゃいけないの」
由良は、ぴしゃりと言った。
「みんなだって知りたいはずよ。今の大那がどうなっているか。あなたは、また独り占めするつもり?」
「独り占め?」
白久は思わず聞き返した。
「そうよ。あなたはみんな自分だけのものにしなければ気がすまないのよ。〈老〉の期待も、都津のことも」
「そんなことないわ」
白久は声を荒げた。
涙が出そうになる。
なぜわかってくれないのだろう。由良が望むなら、この自分の立場をそっくりそのまま代わってもらいたいくらいなのに。
「あなただけが呪力者じゃない」
由良は、なおも言った。
白久のまわりで、突然風がどよもした。風は白久の髪の毛を乱し、細い木の枝や葉を吹きちぎって、二人の間で渦を巻いた。
由良は、空気の流れを変えることができるのだ。範囲は狭いが、だれか一人に危害を加えるには充分な力だ。その人間に、空気を送り込まなければいいのだから。
乱れた髪の毛をかきあげて、白久は由良を見つめた。
由良がその気になれば、自分を殺してしまうことだってできるだろう。そうされてもおかしくないほどの憎しみを、白久は嫌と言うほど感じとった。
「忘れないで、わたしは心話もできるのよ」
由良は、小さな笑い声をたてた。
「たったいま、〈老〉にあの男のことを話したわ」
立ちつくす白久に、勝ち誇ったように、
「すぐに、みんなが駆けつけてくるでしょうね。ここで待っていましょうよ」
11
三狼は、〈老〉の住まいに入ったままだった。
白久を安心させるようにひとつうなずいて、〈龍〉の呪力者たちに従って行ったのだ。 久伊は〈龍〉たちには目もくれず、琵琶の手入れをはじめていた。
白久は、村に戻った。
大那から来た人間のことを知らぬ者はないというのに、村の中は異様なほど静かだ。
主立った呪力者は〈老〉のもとに集まっている。
〈老〉は彼をどうするつもりなのだろう。
一度白久は、家の外にいた雀の身体を借りて、〈老〉の高床をのぞいてみた。
三狼は、〈老〉や呪力者たちにかこまれて、身振り大きく語っていた。現在の大那のことだ。
「そりゃあ、時には呪力者も生まれます」
三狼は言った。
「彼らはたいがい、神官になる。神官は一生不犯がたてまえだから、つまり呪力者の種を断っているということになるのかな」
白久は、小首をかしげながら高床の明かりとりの窓に止まっていた。
たまらなくおかしくなってくる。
なんて違いだろう。むきになって呪力者を増やそうとしている大隅の〈龍〉と、もう呪力者を必要としない大那の人々。
突然、甲高い獣のような声がしたので、白久は羽根をふるわせた。
久しく聞いていない〈老〉の肉声だ。いかにもおもしろそうに身体をゆすって、〈老〉は笑い続ける。
他の者たちは凍りついたように身動きせず、〈老〉を見つめていた。
〈老〉はなおも笑い、そっくりかえって高窓に目を止めた。
白久の雀と眼が合った。
白久は、即座に雀の身体を後にした。〈老〉に気づかれたにちがいない。
「白久」
亜鳥が、我にかえった白久に声をかけた。「あの人は、ありのままのことを話していたわ」
白久はつぶやいた。
「呪力者たちは、眼を丸くしていた。〈老〉なんて、奇声をあげたほどよ」
亜鳥は、黙ってうなずいた。
夕暮がせまってきていた。
白久に寄り添うように座っていた亜鳥が、顔を上げた。
「〈老〉は眠ったみたいね。呪力者たちが引き上げてくるわ」
たしかに、家々にかすかなざわめきが戻ってきている。
それでは、彼らは三狼をどうするか決めたのだろうか。
白久は、立ち上がった。
「都津のところに行ってくる。都津の父さんも〈老〉のところに呼ばれていたから、どうなったか聞いているかもしれない」
由良に出会わないことを祈りながら、白久は夕闇にまぎれて都津の家に向かった。
戸口から覗き込むと、都津は目ざとく白久を見つけ、外に出てきた。
「やあ、白久。きみが来るとはめずらしい」
「お父さん、何か言っていた? あの人のこと」
「うん。きみも変なのにかかわったね」
都津は、のんびりと言った。
「あの男の言っていることは、みんなでたらめだってさ。明日にはこの村の記憶を消して大那に追い返すって話だ。今日はもう、〈老〉も疲れて呪力を使えないからね」
「でたらめですって」
息がつまりそうな気がした。
これまでに経験したことのない大きな怒りがこみあげてくる。
なんて卑怯なやり方だろう。
〈老〉は、大那の真実の姿を、すべて無視するつもりなのだ。
ただ認めたくないがために。
この大隅での腐りきった〈龍〉の生活を保っていくために。
「あなたは、どう思うの? 都津」
白久は、ようやくささやいた。
「あの人の話、信じられない?」
「ふうん」
都津は、軽く鼻を鳴らした。
「信じられないね。〈龍〉のいない大那はもっと悲惨なありさまになっているはずだよ。本当は、あの男も大那を逃げだして来たんじゃないのかな」
「わかったわ、ありがとう」
白久は、ぴしゃりと言って、都津に背を向けた。
後ろで都津が何か言っていたが、耳にも入らなかった。
三狼を、なんとかして〈老〉のところから助け出さなければ。
そればかりを考えていた。
決して〈老〉たちの思い通りにさせはしない。
広場の一角には、共同の耕作用具などを入れておく小屋があった。三狼はそこに閉じこめられ、呪力者が明朝まで交替で見張りにつくことになったらしい。
日が傾いてきた。
影の深くなった家の中で、白久はじっと考え込んでいた。
決心はついていた。
三狼を助け、この村を出てやるのだ。
だが、亜鳥に何と言おう。
結局、白久がやろうとしていることは母と同じだった。村を捨て、それきり帰るつもりはないのだから。
「白久」
顔を上げると、亜鳥のいつも通りの微笑みがあった。
まるで、白久の心を見通しているかのように、
「かまわないのよ、白久。あなたの思い通りにして」
「叔母さん・・」
白久が言いかけたその時、戸口に人の気配がした。
入って来たのは由良だった。白久をきつい目で見つめたまま、
「今晩はわたし、ここに泊めてもらうわ。あなたが妙なことをしないようにね」
「〈老〉の命令?」
「いいえ、わたしの考えよ。気がきくでしょう」
「ここにお座りなさいな、由良」
亜鳥が、自分の脇を指差して言った。
「お茶でも入れましょうか」
「いらないわ」
由良は白久を睨んだまま、亜鳥の隣に座り込んだ。
「霊を飛ばしたりしたら、残ったあなたの身体がどうなるか保障はしないわよ。わたしに何かしようとしても、その前に大声を上げてやるから」
「あなたの声を聞くのは、久しぶりだわ」
穏やかに亜鳥は言った。
「小さいころは、この家にもよく来てくれたのにね」
由良は答えず、顔をそむけた。
「いつから、こうなってしまったのかしら」
亜鳥は、優しく由良の頬に手を触れた。由良は驚いたように亜鳥を見、されるがままになっていた。
亜鳥は、両手で由良を抱き寄せた。
由良は、ぐったりと目を閉じた。
白久は、亜鳥を見つめた。
「何をしたの?」
「眠ってもらったの。明日の朝まで」
「呪力を使ったのね」
白久は、ささやいた。
「伯母さんも呪力者なのでしょう」
亜鳥は由良の身体を横たえ、顔を上げた。そして、静かに眼を開いた。
白久は、息を呑んだ。
白久を、まっすぐに見つめている亜鳥の瞳。
それは、黒よりも明るい色だった。夜明け前の空の色。底に澄んだ光をたたえた、深い深い紫の色・・。
往古の〈龍〉の呪力者の証。
一門が、狂わんばかりにして待ち望んでいた紫色の瞳だったのだ。
「誰にも知られたくなかったの。姉さんを見ていたから」
亜鳥は悲しげに言った。
「卑怯者ね、わたしは。あなただけを苦しめてきたわ」
「ずっと前から、知っていたような気がする。叔母さんが呪力者だってことは・・」
「わたしの呪力が目覚めたのは、少女時代なの。姉さんが死んだころ・・。眼の色もそのころから変化して・・だから、隠し通すことができた」
亜鳥は眼を伏せた。
「あなたの呪力も、封じこめようとしてみたわ。でも、できなかった。あなたの呪力は大きすぎて、わたしには制御できないの。ごめんなさい、白久」
「あやまることはないわ」
白久は、くりかえし首を振った。
亜鳥を、どうして責めることができるだろう。
亜鳥は、白久に精一杯のことをしてくれた。村を出ることだって考えたに違いないのに、白久や父のためにそうはしなかった。死んだ母のかわりに、ずっと白久を支えてくれたのだ。
「わたしが叔母さんでも、呪力を隠したと思う。〈龍〉に振り回されるのは、まっぴらだもの。わたしたちは、〈龍〉のために生まれてきたわけじゃない」
「そうね」
亜鳥は、そっと白久の手を取った。
「だから、後はわたしに任せて、白久。〈老〉に本当のことを話すわ。あなたへの〈老〉の考えも変わるかもしれない」
「こんどは伯母さんが重荷を背負うことになるのよ」
「これまでのあなたの思いと比べたら、重荷とは言えないわ」
「でも・・」
「もう心配しないで。あなたの決めた通りになさい。あの人を救けるつもりでしょう」
「ええ」
「村を出るのね」
「伯母さんも、いっしょに」
白久は叫けび、あわてて声を押し殺した。
「いっしょに行きましょう。こんな所にいても苦しむだけ。どこか、新しい土地を見つけて暮らすのよ。そうよ、父さんも連れて行けば・・」
亜鳥は、静かに首を振った。
「あなたのお父さんは、〈龍〉の琵琶弾きよ。一門の伝説や歴史に、誰よりも深く結びついているの。〈龍〉からは離れられない。義兄さんが本当に憎んでいるのは、龍の一門ではなくて、そんな自分自身じゃないかと思える時がある」
「父さんにとっては、母さんよりも〈龍〉の方が大切だったというわけ?」
「そうね。その後悔もあるかもしれない。義兄さんさえその気になれば、あなたと姉さんと三人、どこかこことは違った場所で暮らすこともできたはずだから」
白久はうつむいた。
〈龍〉を捨てたかった母、捨てきれない父。父の葛藤は、母を失ったことで狂気へと変わったのだ。
「わたしは、残るわ」
亜鳥は言った。
「せめてもの償いよ、白久。このままでは、あなたや姉さんのような人が増えるばかり」「だって・・」
「わたしは、ずっと隠し通して来た。本当は、この目でしかできないことがあるはずだったのに」
白久は、はっとして亜鳥を見た。
「〈龍〉は、変わらなければいけないわ。今からでも遅くない。〈老〉だって永遠に生きているわけじゃないでしょう。時間はかかるかもしれないけど、一門に分かってもらえる時がきっと来る。呪力だけが〈龍〉のすべてではないってことが」
亜鳥の口調には、静かな決心がこめられていた。
「そうでなければ、大那から来た人にも恥ずかしいわね」
「ええ・・」
「あとのことは、わたしにまかせて、白久。〈龍〉から自由になるいい機会だわ。あなたは一度、〈龍〉から離れた方がいい。新鮮な空気の中で、自分のことや、これからのことをゆっくり考えるの」
白久は黙って亜鳥を見つめた。
亜鳥は、微笑んだ。
「その後で、いつでも帰ってきてかまわないのよ。わたしは待っているから」
12
高く昇った月は、満月に近い。
淡い光が、静かに村を浸していた。
今なら、〈老〉の呪力を怖れずにすむ。〈老〉の眠りは、死そのもののように深いのだから。
三狼のいる耕作小屋の前の見張りは二人。二人とも、篝火を焚いたまま、その場にうずくまって深い寝息をたてている。亜鳥が呪力で眠らせたのだ。
白久は、小屋の引き戸をそっと開いた。窓のない小屋の中は真っ暗だったが、戸口からの明かりで、三狼が長々と横たわっているのが見てとれた。いびきまでかいて、ぐっすりと眠っている。
こんな時に、よくものんびりと。白久は肩をすくめ、三狼の肩に手をかけた。
三狼は、一声うなって眼をこすった。きょとんと白久を見つめ、
「やあ、おはよう」
「まだ夜中」
白久は、早口でささやいた。
「あなたは、監禁されていたのよ。よく眠っていられたわね」
「眠れる時には寝ておく主義なんだ」
「昼間、〈老〉になんて言われた?」
「明日、大那に帰れって言ってたな」
三狼は頭をかいた。ようやく、はっきり眼が醒めたようだ。
「帰っても、〈龍〉のことは黙っているようにとも」
「あなたは、同意したの?」
「一応」
三狼は、こくんとうなずいた。
「穏便におさめるためにね。帰ったふりして、また龍探ししようと思っていた」
「そう甘くはいかないわ。〈老〉はあなたの記憶を消すつもりなの」
「記憶を?」
「あなたが大隅で見たことすべてね」
「そりゃあ、困る」
「記憶だけ消えればまだいい方よ。〈老〉の呪力は、あなたの精神を壊してしまうかもしれない」
「もっと困る!」
「だから、わたしと逃げるの。早く」
白久は三狼の手をとって、すべるように耕作小屋を抜け出した。
暗い山道をどのくらい歩いただろう。白久と三狼は、ようやく一息ついた。
谷間の村を小さく見下ろす峠にさしかかっていた。
ここまでなら、何度か白久は来たことがある。ここにたたずむたび、考えたものだ。西に下る坂道は、大那へと向かう道・・。
「ここを行けば、大那に戻れるわ」
白久は、三狼を見上げて言った。
「あなた、帰るつもりはないの?」
「あたりまえだろ、せっかくここまで来たんだ。龍を見ないことには、話にならない」
三狼は肩をそびやかし、そして気づかわしげに白久を見つめた。
「きみこそ、どうするつもりなんだい。わたしのために・・」
「ちがうわ」
白久はきっぱりと首を振った。
「自分のためよ」
熊笹や潅木の枝でついた手足のひっかき傷の痛みが、今頃になってじんわりと感じられる。
もう、後戻りはできないのだと白久は思った。
亜鳥と父とに別れた悲しみがひっそりと淀んでいるだけで、意外にも、心の中は平静だった。
村を出ることに、何の後悔もない。
そう、しばらく一門と別れて、頭を冷やそう。そして、再び帰った時に、亜鳥の手伝いができるなら・・。
東の空がほんのりと明るくなり、連なる山々の稜線をくっきりと浮かび上がらせた。
白久は、深々と息を吸い込んだ。
「わたしも、あなたと行かせて。三狼さん。わたしも龍が見てみたいの」
二人は、月の光を頼りに、夜通し歩き続けた。
亜鳥がその瞳の色を明かせば、村中が大騒ぎになるに決まっているが、大那の人間が逃げたこととは話が別だ。亜鳥のとりなしがあっても、三狼を追い掛けようとするだろうし、白久も連れ戻されてしまうだろう。
陽が昇り、東の方角をあらためて確かめたところで、三狼は白久を引き止めた。
「このへんで少し休んだ方がいいな」
「わたしなら、まだ大丈夫よ」
「無我夢中の時はそう思うものなんだ。でも、無理すると先が続かない」
三狼は真顔で言った。
「大隅の山は広大だ。追っ手が来ると言っても、容易には見つからないはずだよ」
白久は、しぶしぶ三狼に従った。
太い木の根元にうずくまる。
残して来た父のこと、亜鳥のこと。
考えることは多すぎるほどあったが、疲れの方がまさっていた。
身体を丸くして、いつのまにか白久は眠り込んでいた。
はっと目を醒ますと、太陽は真上に昇っていた。
側にいるはずの三狼はおらず、白久はあわてて立ち上がった。
しかし、三狼はすぐに戻ってきた。
水を汲んで来たらしく、竹筒を手にしている。
「この先に、きれいな沼があったよ。行ってみるかい?」
「沼?」
白久は、はっとした。母が息を引き取っていたのは、村から離れた沼のほとりだったという。
三狼の後について行くと、木立が開けて、緑色の大きな沼が姿を現した。
水鳥が水面に波紋をひろげ、岸辺の葦が風にそよいでいた。
白久は、沼辺をそぞろ歩いた。この場所まで、確かに母は来たのだ。そして、さらに大隅に入り込むこともなく、村に戻ることもなく、死んでしまった。
父のことを思うと胸が痛んだ。結局、自分も母と同じことをしたのだ。〈龍〉と父に背を向けている。
父は、自分が村を出たことを知ったろうか。それとも、知ろうともせず相変わらず心の殻に閉じこもっているのか・・。
白久はため息をつき、ついで思いをふっきるように首を振った。
せめてここからは、母にはできなかったことをしてみせよう。
わたしは、こんなところにとどまらない。もっと先に進むのだ。どこであろうと、自分が自分らしく生きれる場所へ。
そうしなければ、送り出してくれた亜鳥にも申し訳がない。
「そろそろ、行きましょう。三狼さん」
白久は言った。
「このあたりは、一門のみんなも知っている場所なの。まだ安全とは言えないわ」
13
初夏の山中には、木の実やら、恐いもの知らずの小動物やらの食糧がふんだんにあって、三狼や白久の持つ必要最小限の旅支度でも、この先なんとかやっていけそうだった。
白久は、三狼との旅を、精一杯楽しむことにした。
実際、三狼は、側にいるだけで白久の暗い気持ちを吹き払ってくれる。
三狼の眼は、いつも新しい発見を求めて輝いているようだった。
彼を見ていると、今まであたりまえと思っていたことが、突然新鮮なものに変わってしまうのだ。
たとえば、風の流れで変化する雲の形の奇妙さや、名も知らない野花の可憐な香り。
子供のように歓声を上げる三狼の側で、白久もいつのまにか微笑みを浮かべていた。
陽が傾きはじめたころ、先に立って歩いていた三狼が、ぴたりと立ち止まった。
「どうしたの?」
「早く、来てごらんよ」
白久は坂を登りつめていた三狼に追いつき、息をのんだ。
目の前は、空を削ぎ取るような深い谷間になっていた。そして、谷の両斜面いっぱいに藤の花が咲き誇っているのだ。
谷全体が、藤の濃い紫色に染まっていた。谷底になだれ落ちていくかのような花房は、重たげに風に揺れていた。
「すばらしい眺めだなあ」
三狼は、感きわまったように言った。
「大那では、とうていお目にかかれない景色だよ」
「わたしも」
足下の光景に眼をうばわれたまま、白久は、うなずいた。
「こんなにたくさんの藤を見たのは初めてだわ」
「もうじき龍と会えそうな気がしてきたな。紫は、きみの一門の色だろう」
「そうね・・」
紫は、呪力を持った〈龍〉の眼の色、亜鳥の眼の色だ。空を翔ける龍もまた、紫色の瞳をしているという。
二人は、藤の谷を下って行った。谷間の空気までもが、紫にもやがかっているように見えてくる。
それは、空気がしだいに湿り気を帯びてきたためでもあった。いつのまにか、空にはどんよりとした曇がたちこめ、二人が谷の下までたどりついた時には、霧のような雨が降りはじめた。
谷底は、深みのある川だった。こぼれおちた紫色の花びらが、泡立つ水の中を踊るように流れていった。
「雨の風情もなかなかいいもんだよな」
三狼は谷を見上げて言い、ぶるっと身体を震わせた。
「自分が濡れなかったら、の話かもしれないが」
雨のせいか、風も冷やっこいものになっていた。
白久はくすりと笑い、
「河原より、林の中の方が濡れないわ。雨宿りするところもあるかもしれない」
二人は、藤蔦の下をくぐり抜けながら、林の中に入りこんだ。
木々の間を縫って、けもの道が続いている。枝を伸ばした潅木が、ともすれば前方をふさいでいた。
三狼は、白久の前に立って、茂みを掻き分けながら進んだ。
突然、何かが空気を切る鋭い音がした。
白久は、はっと立ちすくんだ。
三狼が、小さく呻いて膝をつく。
彼は右腕を押さえていた。
肘の上あたりに、一本の矢が突きささっていた。
「三狼さん!」
白久が叫んで三狼にかけよると同時に、茂みの中から、一人の少年が雄叫びを上げて飛び出して来た。
荒い布でできた短い貫頭衣に、縄の腰帯。長髪で、革紐を通した大きな首飾りをぶらさげている。
まだ十二三才だろうか。白久と三狼の姿を見ると、弓を手にしたまま、凍りついたように立ち止まった。大きく目を見開き、じりじりと後ずさった。
声を出しかけた白久に、三狼が首を振ってささやいた。
「怯えている。脅かしちゃだめだ」
三狼は、腕の矢を引き抜いた。
白久の腕半分ほどの長さしかない小さな矢だ。しかし、黒曜石の矢尻からは、三狼の血が生々しくしたたっている。
三狼は自分の衣で矢尻の血をぬぐい、にっと笑って少年に矢を差し出した。
「大丈夫だ。たいした怪我じゃないよ」
顔を強ばらせたままの少年は、矢と三狼の顔に代わる代わる視線を泳がした。三狼は、もう一度笑い、優しくうなずいた。
少年は、恐る恐る手を伸ばして、三狼に近づいた。
矢が手に触れるや否や、ひったくるように取り返し、三狼をまじまじと見つめた。
ついで身をひるがえし、一目散に逃げ出した。
あっけにとられたものの、白久はすぐに三狼の傷を調べてみた。幸いなことに矢はそれほど深く刺さったわけではなく、血もすぐに止まりそうだった。
「今の、夷人だったわ」
「ああ」
三狼はうなずいた。
「たぶん、わたしたちの気配を獣と間違えたんだ。驚かして、すまないことをしたよ」
「驚いたのはお互いさまよ。おまけに、あなたは怪我までした」
「たいしたことはない。傷薬をつけておけば治るさ」
このあたりには夷人が住んでいるらしい。
白久は思った。今のは子供だったが、他の夷人が自分たちのことを知ったらどうするだろう。
夷人たちは、〈龍〉を恐れて一門の村には近づかなかったけれど、今は白久たちが夷人の領域に入り込んでいる。
白久は三狼の旅嚢から傷薬と清潔な布を見つけだし、手早く手当てした。
霧雨が、なおもじっとりと二人の身体を濡らしていた。
「濡れたままじゃ傷に悪いわ。雨宿りの場所を見つけましょう」
三狼も、白久に同意して立ち上がった。しかし、ふらりとよろめき、その場にうずくまった。
「まずいな、身体に力が入らない」
「どうして・・?」
白久は、ぎくりとして三狼の顔をのぞきこんだ。
「毒?」
「そうかもしれない。あんな華奢な矢じゃ大きな獣は仕留められない・・。考えたものだな」
「関心している場合じゃないでしょう」
白久は叫ぶように言った。
「どんな毒かもわからないのよ」
三狼の息遣いが荒くなってきた。
白久は、なすすべなく彼の側にかがみこんだ。
14
どうすればいいだろう。
獣の身体を一時的に動かなくするだけの毒ならば、時間とともに治るだろうが、それが致死的なものだったら?
白久は、ぞくりとした。
こんなところで、三狼を死なせるわけにはいかない。
彼が命を失うのは、まだまだ早すぎる。
あの少年を追い掛けるしかない、と白久は思った。霊を飛ばし、少年の内に入り込むことができれば、どんな毒なのかも分かる。毒を使うなら、解毒剤も持っているかもしれないし。
「少し、待っていて、三狼さん」
白久は目を閉じ、霊を飛ばそうとした。
その時、切羽つまったような人声が聞こえた。
白久には理解できない言葉。しかし、何かを必死でかき口説いているようだった。
茂みの間から、先程の少年が顔をのぞかせた。
もう一人、少年は大柄な男の手を引いていた。少年とほぼ同じ身なり。弓矢を肩に背負い、大きな山刀を腰縄に差している。顎髭をたくわえてはいたが、その顔立ちは少年とよく似ていた。
親子か兄弟?
白久は身構えるように立ち上がり、彼らをにらんだ。
三狼が少年に目を向け、弱々しく微笑んだ。少年は、気弱げに身をすくめて、もう一度男に話しかけた。
男は、無言で白久と三狼をねめまわしていた。
やがて少年に二言三言、命じるような口調で言い、自分の弓矢を肩から下ろした。
男は三狼に歩み寄り、かがみ込むと山刀を引き抜いた。
薄い石刃の刀だった。
「なにをするの!」
白久は、思わず叫んで彼に飛びかかろうした。
それよりも早く、少年が白久の両腕を掴んだ。
意外に強い力だ。白久が息を呑んで見つめるうちに、男は三狼の腰帯を解いて二つに切った。一方で三狼に目隠しし、もう一本を少年に渡した。
少年は、白久にも目隠ししようとした。白久はあがらった。
「彼らの言うことを聞こう」
三狼がささやいた。
「敵意は持っていないようだよ」
白久はしかたなく、おとなしくすることにした。
少年に目隠しされる直前に、男が三狼を軽々と背負うのが見えた。
少年は、白久の手を取って早足で歩き出した。足場を選んでくれているようで、目が見えなくとも、木の根や石で転ぶことはなかった。
あいかわらずの霧雨の中、山道を何度上り下りしたことだろう。
突然少年と男が言葉を交わし、それに続いて何人かの人声も聞こえてきた。
地面は平らになり、さらにたくさんの人の気配。驚き、叫び交わしているような声、声、声。
白久は、一段低い場所に引っ張り込まれた。と同時に、まとわりつく雨がなくなった。ここは?
少年は、白久の目隠しを取った。
白久は、あたりを見回した。
薄暗い土間。
掘り下げた地面に柱を建て、屋根を乗せただけの粗末な小屋だ。
部屋の角には大小の土器が並べられ、天井の梁からは干した魚や肉らしきものがぶらさがっていた。
土間の真ん中の炉には、小さな火が燃えている。三狼は、炉の前にしいた毛皮の上に横たわっていた。
「三狼さん」
白久は、そっと声をかけた。
三狼は、うなずいた。
しかし、彼の顔色は、はっきりわかるほど青ざめていた。
「夷人の家らしいな、ここは」
「ええ」
少年は、入り口につっ立ったまま、心配そうに三狼を見守っていた。
三狼は、大丈夫だよ、といったふうに笑ってみせた。
間もなく、先程の男が、痩せた中年の女といっしょに入ってきた。
白髪まじりの髪の毛をひとつに束ねていることをのぞけば、彼女も男たちと変わらぬ格好だ。両手に、小さな壷を抱えている。
女は、三狼の前にどっかりと座った。
白久は、女の壷を見て目を見張った。土を焼いただけとは思えないほど手の込んだ作りのものだった。
口の部分には、雲を象ったような曲線がいくつも重なりあっていた。両側についた把手は、どう見ても咆哮する龍の首。
二匹の龍が雲を突き抜けて、それぞれ壷を一巻きしているような装飾だ。壷の表面全体についている模様も、龍の鱗を表したものだろう。
夷人たちは、龍を見ている。
白久は確信した。
こんなにも生き生きと形づくれるほどに。造り手は、すぐ間近で見、目に焼き付けたのだ。
女は、三狼の腕の傷を調べていた。男は、一掴みの草を彼女に差し出した。
女は、歌のような、呪文のような言葉をつぶやきながら、草を両手でもみはじめた。その手が緑色に染まるまで草を揉み潰すと、三狼の傷になすりつけた。ついで、壷に手を伸ばし、三狼の口に茶色い液体を注ぎ込んだ。 三狼は顔をしかめ、しかし、液体を飲み込んだ。
吐き出したいのを堪えているのは、顔を見ただけで明らかだった。
女は鼻をならし、さっさと家を出ていった。男も、少年に何かを言い残して、後に続いた。
「だいじょうぶ? 三狼さん」
白久は、ささやいた。
「おもいっきり、まずかった」
三狼は、笑いを押し殺したような声で言った。
「でも、まちがいなく解毒薬だ」
「救けてくれたのね」
「あの子のおかげだよ。ありがたい」
白久は、小屋の入り口の前にうずくまっている少年に目を向けた。
彼は、二人を眺めながら、居心地悪そうに首飾りをまさぐっていた。その首飾りも、土を焼いたものだった。形も大きさも卵ぐらいで、中は空洞らしく、いくつか穴が開けられていた。
この子は、三狼を殺して寝覚めの悪い思いをしたくなかったにちがいない。
「夷人なのに・・」
「夷人だって、人間だよ」
三狼が、さらりと言った。白久は、はっとした。
確かにそうだ。少年は三狼を見過ごせずに男を呼び、男もまた薬師のもとに連れてきてくれた。
正体不明の余所者を村に入れるという危険を侵してまで。
〈龍〉よりも人間らしかった。〈龍〉ならば、そのまま三狼を打ち捨てておいたにちがいない。
それなのに、自分は少年の中に入り込もうとしたのだ。鳥や獣の中に入り込むのと同じように、何のためらいもなく。
白久は、少年にすまなく思った。
〈龍〉の傲慢さは、自分にもある。
三狼が、横たわったまま少年を手招きした。少年は、少しためらったが、やがてのろのろと近づいて来た。
「助かったよ、ありがとう」
三狼は、少年の手を優しく握って頭を下げた。
少年は三狼を見つめ、ようやく初めて笑顔を見せた。
白久は家の入り口から、外を眺めて見ようとしたが、たちまち少年に止められた。
目隠しをし、空き家に連れてきたのは、この村のことを極力知られたくないためなのだ。白久はおとなしく少年に従うことにした。 しかし、壁のわずかな隙間から、村の様子はなんとなく分かった。
ここと同じような家が、十数軒はあるようだ。時折、行き交う男や女が見えた。みんな大柄で、骨格ががっしりとしていた。
赤ん坊の泣き声や、外を走り回っている子供の歓声があちこちで聞こえる。村の規模は龍の一門のものよりも小さいかもしれないが、子供の数はずっと多そうだ。
物見高い子供たちの何人かが、入り口まで来て家の中を覗き込んだ。
少年が睨むと、きゃっと笑いながら逃げだした。
みんな、少年と同じような首飾りを下げている。大人たちは着けていないから、子供のお守りのようなものなのか。
やがて男が戻って来た。
この小屋に住んでいるのは、少年と男だけらしかった。
少年は、炉の火を大きくした。
男は水の入った瓶を持ってきて火にかけた。野菜と干し肉を放り込む。煮えたところで椀に盛り、白久にも分けてくれた。三狼はさすがに食欲がないらしく、首を振った。
雨は止んだらしい。
夕暮の赤っぽい光が、小屋の中にも射し込んできた。
子供たちの声も間遠になり、夷人の村は穏やかな日没を迎えている。
どこからか、不思議な音が聞こえてきた。 低い、深みのある音。
梟の鳴声? いや、それよりももっと澄んでいる。
白久は首をかしげた。
音は長く、途切れたかと思うとまた別の場所から聞こえ出した。三狼も、きょとんとして耳をすましていた。
「何だろう?」
少年は三狼を見、にこりと笑って首飾りを手に取った。
穴の一つに口をつけた。聞こえたのは、外と同じ音だった。
「土笛だったのね」
「うん」
三狼は、うなずいた。
「たぶん、夜の魔除けなんだ。でも、いい音だな」
少年は笛を吹き続けた。
ゆったりとした優しい音色が二人の耳を満たした。
何の飾り気もない単調な調べ。
音楽というには素朴すぎた。
が、それだからこそ、直接心に響くのかもしれない。聞く者を素直に穏やかな気持ちにさせてくれる。
少年の笛も外の笛も、夜気に静かに染みわたった。
白久と三狼は、しばしその音に聞き惚れていた。
15
夜が明けた。
目覚めた三狼は、すっかり元気になっていた。
右腕はまだ痛むようだが、それは矢傷が癒えるまでの辛抱だろう。白久はほっとした。毒は消えたのだ。
男は、白久と三狼に再び目隠しした。
来た時と同じように、白久は少年に手を引かれて小屋を出た。
男に腕を取られた三狼は、こんどは自分の足でしっかりと歩いていた。
方向がまるで分からないまま、しばらくの間歩きまわり、目隠しを取られたのはどこかの茂みの中だった。
山々の形からすると、たぶん昨日少年と出会ったあたり。
男は、二人をその場に押し止める身振りをした。
後を追って来るなというのだろう。
三狼は、わかったよと言うふうに大きくうなずき、男に深々と頭を下げた。
そして、少年に向き直り、
「ほんとにありがとう。何か礼ができればいいんだが」
三狼は、自分の懐に手を入れてごそごそさせた。左手で引っ張りだしたのは、小さな布袋だった。
「開けてごらん」
少年は、三狼から渡された袋の中をおそるおそる覗き込み、手のひらの上で逆さにした。桜色の玻璃のような薄いかけらが数枚、しゃらりと音をたててこぼれおちた。
「貝だよ」
三狼は、目を丸くしている少年に言った。白久も、思わずうなずいた。〈龍〉の宝物の中には、貝細工をほどこされたものが幾つかある。貝の形をあしらったものもある。しかし、貝そのものの実物を見るのはこれがはじめてだった。
「わたしの故郷は島なんで、こんな貝が沢山あるんだ。中でも綺麗なのを姉が拾って、お守りにしてくれた」
珍しくてしかたがないらしい。少年は、手の中で貝を動かしたり、陽の光に透かしてみたりしていた。
「きみに、あげるよ」
少年は三狼を見、彼の言うことを理解したようだ。
貝殻を自分の胸に押しつけて、目を輝かせた。
三狼は、にっと笑ってうなずいた。
少年は、こぼれるような笑顔を見せてぺこんとお辞儀した。
それから、ちょっと考え込むようにし、首の土笛をおもむろにはずして三狼に差し出した。
こんどは、三狼が驚いた。
「くれるのかい? わたしに」
少年はうなずいた。三狼は丁寧にそれを受け取った。
「うれしいな。大事にするよ」
三狼は、少年の魔除けの笛を自分の首にかけた。少年は、貝を小袋にしまい、大事そうに手に持った。
二人は、満足そうに微笑み合った。
先に行っていた男が、少年に短い声をかけた。
少年はぴょんと飛び上がり、そちらに駆け出した。
茂みの中に隠れる瞬間、少年はもう一度こちらを見て片手を上げた。三狼も手を振り返した。
「お守りの取り代えっこになってしまったな」
三狼は、白久に言った。
「なんだか、あの子に悪いみたいだ。大事なものだったろうに」
「あなたのお守りも大事なものだったんでしょう」
「うん。でも、充分にお守りの役目を果たしてくれたよ。あの子に命を救けられたんだから」
「夷人・・」
白久はつぶやいた。
「もっと野蛮な人たちなのかと思っていた。洞窟に住んで、狩りをするだけだって聞いていたわ。だけど、ちゃんとした家を作っていた。村のまとまりもあるみたい」
「きみたち〈龍〉が大隅に来た時にはそうだったとしても」
三狼は言った。
「もう何百年もたっているんだ。暮らしだって進歩する。彼らは、若い種族なんだと思うよ。驚くほど豊かな心も持っている。この笛だって。それから、あの土器を見ただろう」「龍のね」
「大那の工人に見せたいくらい、みごとなものだったよ」
白久はうなずき、皮肉な気持ちで考えた。〈老〉があれを見たら、激怒することだろう。守霊である龍を、夷人が壷模様などに使っている、と。
だがとっくに、龍は一門を見捨てているのではないか。立ち止まって過去を眺めるばかりの一門よりも、若々しい夷人の方が龍にははるかにふさわしい。
「龍が、このあたりに現われているのは確かね」
「そうだ」
三狼は空を振り仰おぎ、晴れやかな声で言った。
「わくわくしてくるよ」
16
二人は、さらに東に進んだ。
出会うのは、大小の獣ばかりだ。夷人の村がどのあたりにあったのか、もう見当もつかなくなっていた。
山道は下り坂が多くなり、一つの峠を越えたところで、突然、視界が広がった。
二人は立ち止まった。眼下に横たわる原野があった。
緑の平原の広大さに、白久は目を見張った。谷間の村で育った身にとって、はるか遠くまで見渡せる地平は驚きだった。
空の雲が落とす斑の影が、ゆっくりと流れていた。
地平の向こうには稜線の険しい山脈があり、その下に細長いきらめきが見て取れた。
「川か、湖だ」
目を細めて三狼が言った。
「龍は水を好むよね」
白久はうなずいた。
「行ってみましょう」
二人は、原野の中に足を踏み入れた。
人の背丈ほどの潅木が枝葉を伸ばして生い茂り、視界を閉ざしていた。
どこまで行っても、まわりは覆いかぶさる緑の薮だ。
水辺をめざそうとはするものの、自分たちの進む方向すらあやしくなってくる。
白久は何度か立ち止まり、空飛ぶ鳥に入り込んでは水の位置を確かめた。
「大きな川。日暮れまでには行きつけそうだわ」
まわりの木々は、しだいに丈の高い草に変わっていた。
気がつくと、あたりは一面のすすき野だった。秋になれば、さぞかしみごとな景色が広がることだろう。
風が、水気を含んだひやりとしたものになってきた。
やがて、波打つすすきの葉群の向こうに、白く輝く水面が見えた。
「きみのおかげだよ」
嬉しそうに三狼が言った。
「わたし一人だったら、まだあの薮の中で往生していたな」
白久は微笑んだ。
自分こそ、三狼のおかげでここまで来れたのだ。
三狼と会わなければ、村を出ることはなかった。
閉ざされた村の中で、こんなすばらしい未知の世界に触れることもなく、うつうつと日をおくるばかりだったろう。
すすき野を抜け出すと、目の前は広い川原だった。
どこまでも敷きつめたような白い小石が夕日を照り返していた。
川はたっぷりと水をたたえ、緩やかに流れていた。遠い対岸はもう、夕靄にかすんでいる。
「今晩はここで火を起こそう」
三狼が言った。
「朝になったら釣りをするよ。久々に魚が食えそうだ」
三狼は、焚火を起こすために手ごろな場所を探しはじめた。白久は水を汲もうと川辺に歩み寄った。
川の水は冷たく澄んでいた。
竹筒をもったままかがみこんだ白久は、ふと手を止めた。
目の端に、にぶく光るものが映ったので。
白久は、そちらに首をめぐらした。
ゆるく曲った川がすすき野の中に消えるあたり、何かが光っている。
夕日を反射している大きな石?
それにしては不思議な形だ。
白久は、引き寄せられるようにそちらに歩きだした。
白久の様子にに気づいた三狼が、声をかけた。
白久は、黙って向こうを指差した。
三狼が白久を追い掛けてきた。白久は、だんだん早足になっていった。
近づき、それの形がはっきりとしてくるにつれ、胸の動悸が高まった。
後で、三狼が声にならない声をあげた。
白久も、自分が眼にしているものが信じられなかった。
緑色を帯びた銀色の身体が、妙にうつろな感じで川原に横たわっていた。
先すぼまりの尾が、半分近く川の中に浸っている。
しかし、川原に乗り出した胴は長く、頭部はすすきの中に埋まっていた。
鱗を持った巨大な生きもの・・。
「龍・・」
三狼が、震える声でつぶやいた。
白久は、呆けたようにうなずいた。
それは動かなかった。
三狼は用心深く頭の方にまわりこみ、白久に手招きした。
白久は、すすきの茂みをかき分けて三狼に歩みよった。
大きく裂けた歯のない口があった。長い鼻ずら、虚そのものの眼窩も。
角が生えていたらしいあたりから、頭の上は二つに裂けている。裂目は、背中の終わりの方まで続いていた。
まぎれもなく龍。
龍の脱け殻だった。
17
白久は両手を広げ、龍を抱きしめるようにして頬ずりした。半透明の脱け殻は硬く、冷たかった。そっと叩くと、硬質の澄んだ音がした。
「まだ、ぜんぜん痛んでいない」
三狼が、興奮さめやらぬ口調で言った。
「ということは、脱皮した龍が、この近くにいるっていうことだよ」
「ええ」
三狼は、龍の口をこじ開けて、中を覗き込んだ。
「入ってみよう」
白久は三狼が龍の口の中に潜り込むのを眼を見開いて眺め、ついで自分も彼に倣った。
脱け殻の中は、白久が真っすぐに立って歩けるほど広く、温かかった。鱗のある厚い皮を透かし、外の景色が妙な具合に歪んで見えた。
興奮を押さえきれず、脱け殻の中を行ったり来たりしていた三狼は、とうとうごろんと横になった。
「今夜は、ここに泊まろうよ、白久さん。龍の脱け殻なんて、これ以上豪勢な宿はありゃしない」
白久も笑って座り込んだ。皮に頭を押しつけると、鱗にあたる風が不思議な音をたてていた。
高鳴る胸の鼓動が、ようやく落ち着いてきた。
こうしているだけで、温かな湯の中にとっぷりと浸かっているような、安らいだ気分になってくる。
「龍の中にいるのね」
白久はつぶやいた。
「来て良かった。本当に」
その夜、白久は夢を見た。
不思議な夢だった。
あたりは何もない漆黒の闇。
闇の中に、琵琶の音だけが響いている。高く低く、物悲しげな旋律で。
父の弾いている琵琶だということは、なぜだかはっきりとわかった。
執拗ともいえる琵琶の音は、途切れることなく続いている。
何かを訴え・・いや、呪ってでもいるかのように。
音は闇に満ちた。
さらにふくれ上がり、闇を突き破るかに思われた。
夢の中で、白久は叫び声を上げそうになった。
気がつくと、前方に倒れている白い影があった。
亜鳥だ。
亜鳥は、死んだようにぐったりと顔を伏せ、動かない。
「白久さん」
我にかえって眼を開けると、三狼の心配そうな顔があった。
まだ夜が明けたばかりで、龍の殻の中はほんのりと白い光がにじんでいた。
「どうしたんだい? ひどくうなされているようだった」
「嫌な夢を見たの、とても・・」
白久は、ぞくりとして自分の両肩をかき 抱いた。
琵琶の音は、まだ頭の中に残っていた。
父や亜鳥の夢は、これまでだって見たことはあった。
だが、あんなに生々しくて、まがまがしい予感を持ったものは初めてだ。
三狼は、白久の話を黙って聞いていた。
「この脱け殻のせいかな」
三狼は、首をかしげた。
「龍の一門のきみが、龍の身体の一部だったものと触れ合った。何かの力が高められたとも考えられる」
「何か」
白久は息をのんだ。
「叔母さんに、悪いことが起こっている! そうでなければ、あんな夢見るはずがないわ」
そして、あの琵琶の音。
父がかかわっていることは確からしい。
どうすればいいだろう。
白久は唇を噛んだ。
また鳥の身体でも借りて、村の様子をさぐってみようか。
だが、村は遠すぎた。
霊が、どのくらいの間、身体を離れていられるか、白久は試してみたこともなかった。霊が離れすぎ、肉体に戻って来れないその時は、死が待っているだけだろう。
村に帰り、自分の眼で何が起きているか確かめるしかない。
「わたし、村に戻る」
白久は、言った。
「あなたは、このまま龍を探して」
「何言っているんだい」
三狼は、叫んだ。
「わたしも、いっしょに行くよ」
「ここまで来たのよ、龍は、もうすぐそこにいるかもしれないわ」
「また探しに来るさ。今は、きみの方が大事だ」
白久は、驚いて三狼を見つめた。三狼は、あたりまえのことを言っているんだぞとばかり、肩をそびやかしていた。
「でも、〈老〉たちに見つかったら」
「それは、きみも同じだろ」
三狼は、にっと笑ってみせた。
「なんとかするさ」
白久と三狼は、最後にもう一度龍の脱け殻の前に立った。
川面には、乳白色の靄が低くたちこめていた。
脱け殻は、岸の方にも流れてきた靄に、しだいに包まれていくようだった。
「行こうか」
三狼が言った。白久はうなずき、きびすを返した。
その時、大きな水音が聞こえた。
白久は、弾かれたように川に目を向けた。
水面が泡立ち、盛り上がっていた。
水と靄とを突き抜けて、枝分かれした二本の角がしずしずと表れた。
ごわつく金色のたてがみ、びっしりと緑銀の鱗におおわれた顔。
白久は、声もなく龍を見つめた。
龍は水面から首だけを伸ばし、深い紫色の眼で白久を見返した。
いつのまにか白久は、祈るようにひざまづいてた。
三狼も、白久の側に座り込んだまま、身じろぎしない。
龍の眼は、確かな知性と、はかりしれない時をたたえている。
人間など、足元にもおよぶまい。
この世で最も偉大で、美しい生きものだ。
龍は、その息づかいがはっきりとわかるほど白久に顔を近づけた。
龍の思いとは、どんなものなのだろう。
白久はふと考えた。龍の中に入り込むことができたら。
ほんの一瞬でも、その霊を共有することができたら・・。
誘惑には勝てなかった。白久は自分の霊を、つと龍に伸ばした。
龍は、牙をむきだした。
とたんに、
頭の中に閃光が走った。
白久は、顔を覆って叫び声をあげた。
すさまじい拒絶だ。龍は、霊に触れることすら許さなかった。
「白久さん!」
三狼が、驚いて白久の肩をささえた。白久は、ようやく首を振った。
「だいじょうぶよ。わたしが、悪かったの」
そう、思い上りもいいところだ。たかだか人間の呪力が、龍に通用するわけがない。
白久は、心の中で龍に詫びた。
思いがけず、龍の深々とした思考が返ってきた。やさしく、包み込むようで、ひどく懐かしい。
(白久)
龍は、はっきりと白久の名を呼んだ。
(あなたは)
白久は、はっと立ち上がった。
龍は、ゆっくりとまばたきをした。
(白久)
(まさか・・)
(そうよ、わたしは、あなたの母親だったものよ)
18
「なぜ?」
白久は、混乱してささやいた。
「なぜ、こんなことに」
(おろかだったからよ)
龍は、鼻先にしわを寄せたように見えた。
(あなたと、お父さんを置いて、家を出たわ。帰らないつもりじゃなかった。ただ、少し考えてみたかっただけ。何のために自分はいるのか。なぜ、一門に縛られていなければならないのか。
呪力のある子供を生むためだけに生きているのではないはずなのに。
村を離れてどこまでも行って、気が付いたら龍が翔んでいた。あなたと同じようにばかなことを考えた。あの龍に入りこんだとしたら・・。
龍は、わたしを拒まなかった。
受け入れ、そして呑み込んだ。龍の霊は大きすぎたわ。わたしは、二度と身体に戻れなくなった)
(母さん)
(当然のむくいよ。あの時、わたしがあなたやお父さんを捨てて逃げたのは確かなのだから。龍になれたら、どんなにいいだろうと)
白久は、龍の鼻ずらに手を伸ばした。ざらつく鱗のひんやりとした感触が、しだいに龍の体温の温かみを伝えてくる。
言うべき言葉がみつからなかった。自分が母だったとしても、同じことをしていたのではないか。
(もう少し、お父さんのことを考えてあげるべきだった。あんなにもろい人だったなんて。かわいそうな久伊。あの人を、ああまでしてしまったのは、わたしだわ)
白久は、ぎくりとした。
母の思考に、言葉以外の不気味な心象があったので。
それは、昨夜見た夢とまったく同じものだった。
(父さんと叔母さんに、何が起きたのか知っているのね)
(亜鳥は〈老〉にすべてを話したわ。〈老〉は狂喜したけど、あなたを自由にしようとはしなかった。亜鳥の目は、〈老〉の欲求をいっそう掻き立ててしまった。もっと多くの紫色の瞳の子をとね。〈老〉にとって、あなたたちの血筋はどうしても必要だから。
あなたを、何日もかけて探させたわ。久伊は、じっとしていた。じっと、動かなかった。そうして、怒りをつのらせていったの。わたしが去り、あなたが去ったのはみんな〈龍〉のせい。彼からわたしたちを取り上げた一門に、あの人は復讐するつもり。村に戻って、琵琶を弾きながら命を断った。昨日のことよ)
白久は、絶句した。
(父さんは、死んでしまったの?)
(死よりも悪いことよ。久伊の霊は琵琶に乗り移って、まだ弾き続けている。幻曲師の呪力をすべて注ぎ込んで。恐ろしい力だわ。琵琶の音を聞いた者は、いずれ狂い死にしてしまうでしょう)
母・龍の心話は淡々としていた。まるで、他人のことでも話しているように。
龍は、そんな白久の思いに気づいたようだ。
(許してちょうだい、白久。私には、自分で思っているほど人間らしさが残っていない。今は、何が起きても、心が揺るがない)
白久は首を振り、叫ぶように言った。
「でも、わたしの所に来てくれたわ。わたしは、いったい、どうすればいいの」
(亜鳥の呪力でも、久伊の力を止めようがなかった。亜鳥に力を貸してあげて、白久。わたしには、あなたを村に送り届けることぐらいしかできないわ。龍の精神の表層には、そんなに長くとどまれないの。わたしは、この龍に寄生した霊にすぎないのだから)
龍は首をさし伸べ、顎を白久のすぐ前に置いた。
「乗れって言っているのよ」
白久は、眼を丸くしている三狼を振り返った。
「いっしょに来て、お願い」
白久は、龍の顔に足をかけ、角の所までよじのぼった。若い木の幹ほどもある角の片方にしがみつき、思ったよりもしなやかな金色のたてがみに、両足を絡ませる。
三狼も白久に倣い、もう一方の角をつかんで座り込んだ。
龍は、なめらかに身をよじらせた。首を高々と上げ、前脚で空を蹴る。
龍のくねった尾が、川面を叩いた。すさまじい水しぶきが起こり、次の瞬間、龍は上昇した。
風圧で、息もできないほどだった。
必死で角に掴まっているのが精一杯だ。
ふっと身体が楽になり、気がつくと龍は軽々と空を翔んでいた。
白久と三狼が越えてきた原野ははるか下。緑の濃淡に染まっている。
三狼が、はじめてため息まじりの声を上げた。
「わたしは、たった今、ここから落ちても本望だよ、白久さん」
確かに、すばらしい眺めだった。たちまちのうちに原野を横切り、深い山々を下に見て。
いったい、生きている人間の誰がこうやって大地を眺めることができるだろう。鳥の霊に入り込んだ時でも、白久はこんなに高く飛ばせたことはなかった。
「それで」
三狼は、真顔になって白久を見つめた。
「何が起きているんだい?」
そう、龍の飛行に心を奪われている場合ではなかった。
白久は、龍に聞いたことを三狼に語った。
三狼は、悲しげに眉をよせて、
「なんとかして、きみの父さんの霊を鎮めなければな」
「ええ」
(母さんは、自分だけ責めているけど)
白久は、母に語りかけた。
(父さんを捨てたのは、わたしもいっしょよ。わたしが、村を出なければ、こんなことにはならなかった)
(あなたが、村に残って苦しんでいても、いずれは起きたことでしょう)
龍は言った。
(きっかけにすぎなかったのよ。悪いのはすべて私。私は、久伊に一門の影しか見出せなかった。あの人は、呪力者ではない私自身を愛してくれていたというのに)
(母さんは、父さんが好きではなかったの?)
(好きになれたかもしれない。時間さえあれば)
(時間・・)
(わたしは、そんな努力すらしなかった。今となっては、もう遅いわ)
山並みが、急に近づいて来た。
龍が、ゆるやかに下降をはじめたのだ。白久にも見慣れた光景になる。
もうじき村のある谷間。
龍は、高い木々の間を巧みに縫い、久伊が住んでいた洞近くの沢にすべるように着地した。
地面が揺れ、沢水が沸き立った。
三狼に手をかりながら、白久はすばやく地面に降り立った。
(亜鳥のところに行ってあげて)
(母さん)
白久は、龍の豊かなたてがみに顔をおしつけた。
(母さんは、これでいいの。このままでいいの?)
龍は、その深い紫色の瞳で白久を見つめた。
(昔は人間だった時のことが恋しくなったりもしたけれど、今はどうしようもないし、満足もしているわ)
(・・)
(もうじきに、わたしの霊は龍と同化してしまうでしょう。本当の龍として生きていけるでしょう)
龍は、空に向かって首を振り上げた。
「翔ぶつもりよ」
白久は、三狼に言った。
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「離れていた方がいいわ」
二人は、龍から遠ざかった。
龍のまわりで、風が巻き起こったようだった。木々がどよめき、木の葉や枝が乱れ飛んだ。
三狼とささえあいながら、白久は一直線に空に昇る龍の姿を見送った。
龍は、白久たちの頭上を一度ゆるやかに旋回し、雲間に遠く消え去った。
「行かなくちゃ」
母への訣別をすまし、白久は低くつぶやいた。
「そうだな」
三狼も、我にかえったようにうなずいた。
「きみの叔母さんを探すとしよう」
19
村の谷間を見下ろす場所に、亜鳥はぐったりと倒れていた。
白久は駆け寄った。
抱え起こすと、亜鳥は苦しげにまばたきした。ついで、白久を認めて小さな声を上げた。
「白久!」
白久は、亜鳥にしっかりと抱きついた。
「大丈夫? 叔母さん」
「ごめんなさい、白久」
亜鳥はすすり上げた。
「わたしは何もできなかった。あとはまかせてなんて言いながら」
白久は首を振った。
「あやまるのは、わたしと母さんよ。わたしたちは〈龍〉を憎んだ。それは、一門の伝説を背負った父さんを拒絶するのと同じこと。父さんは、自分と〈龍〉をいっしょに壊すしかなかったのだと思う」
亜鳥は、目を見開いた。
「母さんが教えてくれたの」
白久は、自分の心をひらき、叔母にゆだねた。
「姉さん」
亜鳥はつぶやき、すすり泣くようなため息をもらした。
「知らなかったわ。そんなことになっていたなんて」
「叔母さんに手をかすようにって母さんは言ったけど」
白久はささやいた。
「わたしが父さんを止めなければ。どうすればいい?」
亜鳥は、顔を上げ、村を見下ろした。
「わたしは、ここまで逃げてくるのが精一杯だった。村は、音で満ちているの。聞いただけで、正気を失ってしまう。一門の人間が死に絶えるまで、琵琶は鳴り止むことがないでしょう」
「琵琶を壊せば?」
「それしか方法はないでしょうね。弦を断ち切って、あなたのお父さんの霊をなんとか封じ込めることができれば」
「わたし、行ってみる」
「わたしも、行くよ」
「お待ちなさい」
亜鳥は、白久と三狼を押し止めた。
「あなたたちでは、とても無理よ。死にに行くようなもの」
「でも、どうすれば」
「白久、わたしと二人ならなんとかなるかもしれない。わたしの中に入り込んで」
「叔母さんの?」
「そうよ。わたしは、持っている呪力を全部集めて音を防いでみるわ。あなたは、わたしの身体を動かして、琵琶の所に行って」
白久は、亜鳥を見つめた。
他の人間の中に入り込んだことなど、これまで一度もなかった。白久の力なら、意のままに人を操ることができるだろうと〈老〉も言っていたものだが。
そんなことをする気にはなれなかった。たとえ誰であっても、その霊の中に、ずかずかと踏み込んで行くなんて、決して許されることではないと思えたから。
「わたしなら、だいじょうぶ」
亜鳥は、微笑んだ。
「あなたがいても、わたしは自分を保っていられると思うわ。心配しないで」
「それしか、方法はないのね」
「ええ」
「やってみる」
白久はうなずき、三狼に向き直った。
「あなたは、ここに残って、三狼さん」
何か言いかけた三狼をさえぎって、
「いっしょに来てって言ったり、ここにいてって言ったり、勝手なことばかりでごめんなさい。側にいてもらえるだけで心強かったの。でも、これ以上は危険だわ」
「わたしには、呪力なんてないからな」
三狼は、残念そうにため息をついた。
「きみたちに付いていくのは、無理らしい」
「いままで、本当にありがとう。嬉しかったわ」
「まだ別れるわけじゃない」
三狼は首を振り、きっぱりと言った。
「待っているよ。きみの身体を守ってる」
亜鳥は、白久に手を差し伸べてうなずいた。
白久は、亜鳥の手をとって、目を閉じた。
そのまま、霊を伸ばし、亜鳥のもとへ。
次の瞬間、白久は亜鳥の中で、脱け殻となった自分自身をささえていた。
(叔母さん・・?)
(わたしは、大丈夫よ、白久)
しっかりした亜鳥の思考が返ってきた。
亜鳥は、その身体をすっかり白久にあけわたしたが、彼女の霊は、一歩下がったところで白久を見守っていた。
白久は、ほっとした。亜鳥の霊を踏み荒らしたわけではないのだ。
「白久さん?」
三狼が、とまどったようにこちらを見つめている。
白久はうなずいて、自分の身体をその場に横たえた。
三狼が、荷物の中から小刀を出してくれた。白久は受け取り、いくらかぎこちなく立ち上がった。
いつもは見上げるようにしていた長身の三狼が、亜鳥の目線ではさほど大きく感じられなかった。白久は、おもわず微笑んだ。
「あとは、お願いね。三狼さん」
聞き慣れた亜鳥の声で言う。三狼は、うなずき、夷人の土笛を首からはずした。
「お守りだ」
三狼は、亜鳥の首に土笛を架けてくれた。白久は指先で、それをまさぐった。
「ありがとう」
白久は、亜鳥と自分自身とにつぶやいた。
(行くわ)
20
激しい琵琶の音ばかりを想像していた白久は、村の入り口で立ち尽くした。
村は、水底のように静まりかえっていた。琵琶の音はもちろん、鳥の声も、風のそよぎすらも聞こえない。
ただ、空気は異様にはりつめていた。亜鳥の皮膚がちりちりしている。髪の毛は、そそけだつようだった。
頭上に黒い影がさした。空を振り仰いだ白久は、息を呑んだ。上空に、巨大なものがのたうっている。
一匹だけではなかった。互いにもつれあいながら、幾匹もの龍が首を振り上げ、尾をくねらせ、村を威嚇するかのように乱舞していた。
どの龍も、影そのもののように黒かった。目ばかりが、毒々しい紫色の光りを放っていた。亜鳥の、東雲のように澄んだ瞳の色とはまるでちがう、激しい憎悪をこめて。
「あれは・・」
(琵琶の見せる幻よ)
白久の中で亜鳥が答えた。
「幻曲? 音もないのに」
白久は、地面を見てはっとした。土の粒ひとつひとつが、震えるように動いている。
琵琶の調べは、とうに音域を越えているのだ。音にならない音、人の精神をじかに蝕むおぞましい凶器。
亜鳥が力をふりしぼり、呪力を集中しているのがわかった。亜鳥が守ってくれていなければ、白久も正気を保っていられないだろう。村の人々と同じように。
歩んで行くと、倒れたままりぴくりとも動かない人々の姿があった。死んでいるのか、気を失っているだけなのか。
かすかなうめき声が聞こえたので目を向けると、都津が両手で頭を抱え、うずくまっていた。側には、彼に手を差し伸べるようにして、由良がつっぷしている。
白久は、二人を助け起すこともできなかった。身体が重く、歩いているのがやっとなのだ。
耳にできない音は、ねっとりとした質量をもって、白久を押し潰そうとしていた。
亜鳥の呪力は、どこまで保つだろう。いや、その前に白久の意識がとぎれ、自分の身体に舞い戻ってしまうかも。
白久は、持っていた小刀を思わずとりおとした。
(しっかりして、白久)
亜鳥が、自分自身をも励ますかのようにささやいた。
白久はうなずき、小刀を握り直した。
突然、幻の龍が歯をむきだし、白久めがけて下降してきた。
悪意に燃える目は、白久を噛み砕き、引き裂き、ずたずたにしようとしている。
白久は、顔を覆って両膝をついた。
龍は、次々と白久に襲いかかった。目の前が、闇にとざされ、息もできないほどになる。
手が、三狼にもらった夷人の笛に触れた。温かみのある手触り。あの少年が吹いてくれた、素朴な音色が耳によみがえった。
白久は何も考えず、唇を土笛にあてた。初め出たのは、空気の音だけだった。しかし、何度目かに、飾り気のない深々とした音がほとばしった。
と、身体が急に楽になった。白久は立ち上がり、ぐいと顔を上げて幻をにらんだ。
「幻よ」
白久は、ようやく声に出した。
「幻にすぎない龍なんて」
龍たちは、白久に体当たりするものの、むなしく身体を通り抜けるばかりだ。恐れることはない。
白久は夷人の笛を吹いた。吹き続けながら、その音にだけ気力を集中した。
夷人の作った魔除けの笛。彼らの若々しい存在そのものが、〈龍〉の呪力にも抵抗できる力を持つのかもしれない。
執拗に襲いかかろうとする龍を無視して、白久は、なんとか歩きつづけた。
〈老〉のいる、高床が見えてきた。父は、そこで命を断ったのだ。
高床に近付くにつれ、白久が吹く笛の音はしだいに耳障りなものになってきた。どんなに調子をかえて吹いても、出るのは甲高い切れ切れの音ばかり。
手の中で、笛が細かく震えはじめた。身体はまたしても重く、高床の階段を一歩一歩上っていくのが精一杯だった。
それでも白久は戸口にたどりつき、押し開けた。
床の上に、壊れた人形のように投げ出された〈老〉の死体があった。
そして、龍の琵琶の前で息絶えている父の脱け殻が。
笛が、突然きしみを上げ、粉々に砕け散った。
琵琶にほどこされた銀箔の龍は、生あるものさながらに、のたうつかに見えた。双の目に埋め込まれた紫水晶は、外の幻の龍と同様、醜くぎらついていた。
琵琶の弦は、とぎれること無く、震え続けていた。
夷人の笛は壊れ、そして亜鳥の呪力も、もう限界まで来ているようだ。
共鳴した空気が、鋭い刃のように白久を襲った。少し動いただけで、激痛がはしる。
白久は、はっきりと悟っていた。琵琶にとりつき、弾き続けているのは、もう父ではないのだと。
怒りと憎悪に取りつかれた、狂った霊にすぎないのだと。
近づくものすべてを破滅させようと、聞こえぬ音をかきならしている。
耐えきれないほどの耳鳴りが起こり、意識が空白になりかけた。ともすれば、この場から逃れて自分の身体に帰りたい衝動に駆られてしまう。
白久はけんめいに踏みとどまった。
琵琶まで、あと二三歩のところなのだ。亜鳥の身体を動かすためには、この苦痛を受け入れるしかない。そして、弦を断ち切ることができれば・・。
白久は、床に身を躍らせた。
一瞬、痛みで気が遠くなりかけ、我にかえった。
無数の鎌鼬にでも出会ったようだ。衣が引き裂け、血が吹き出てくるのがわかった。
だが、琵琶は目の前だ。
白久はもう、何も考えなかった。
ただ無我夢中で小刀を握り、琵琶の弦に振り下ろした。
断末魔の悲鳴にも似た音がほとばしった。
音は、白久の内で炸裂し、白久はそのまま奈落へと引き込まれていった。
21
目を開けると、三狼の不安げな顔があった。
白久は瞬きし、強ばった身体を動かした。自分の内に、戻って来ている。
「白久さん」
三狼が叫ぶように言った。
「だいじょうぶかい?」
「叔母さんは?」
白久は、はっとして身を起した。
「叔母さんの所に、行かなくちゃ」
亜鳥は、無事だろうか。
あの時、白久はただ夢中で弦を断ち切ったのだ。凄まじい衝撃が、亜鳥の致命傷になるかもしれないとは考えずに。
自分の霊は、身体に戻って来たけれど、残された亜鳥は・・。
白久は、三狼とともに、村へ駆け下りた。
村は、音を取り戻していた。風の音、蝉の声、なんとか助かって、家の外に這い出るようにして出てきた者たちもいる。
亜鳥は、高床の階段の下に座り込んでいた。
顔も手足も血まみれだ。深い苦しげな呼吸をくりかえしている。
「叔母さん!」
駆けよった白久に、亜鳥はゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「よくやったわ、白久」
「ごめんなさい、わたし・・。叔母さんをこんな目にあわせたなんて・・」
「あなたが弦を切らなければ、二人とも死んでたわ。一門みんなもね」
「傷の手当てをした方がいい。立てますか」
三狼が、亜鳥に手を差し伸べた。
「ありがとう、三狼さん。家に連れていって下さい。少し眠れば、治ると思うわ」
亜鳥は、眠り続けた。
その間に、村では大がかりな葬儀が行なわれた。
〈老〉をはじめ、村の三分の一の人間が命を落としていたのだ。
壊れた琵琶と久伊の死体は、白久と三狼の手で、他の者たちとは離れた場所にひっそりと埋められた。
白久は、家の扉を閉ざしたまま、三狼以外の誰とも会わず、亜鳥の目覚めを待った。
亜鳥が、このまま目覚めなかったら。
そんな恐怖が、幾度か白久の胸をかすめた。だが、眠る亜鳥の表情は穏やかで、呼吸もしっかりしたものだった。
七日目の朝に、亜鳥はようやく目を開いた。長い眠りは、亜鳥のほとんどの傷を癒していたが、弾けた弦に引き裂かれた右頬の傷は、むごたらしく残ったままだった。
亜鳥と顔を見合わせたまま、白久はしばらくの間何も言えなかった。
「いいのよ、白久」
亜鳥は、微笑んだ。
「村は、どんな具合?」
「喪に服しているわ。どの家も一人か二人の家族を失っているの。みんな、どうしていいのかわからないのだと思う。〈老〉がいなくなったから」
「そうね」
亜鳥は、うなずいた。
「でも、一門は変わらなくてはいけないわ。今がその時よ。呪力者だけが、〈龍〉ではないということをはっきりさせなければ。あなたの母さんや父さんのようなことが、二度と起こらないように」
「できるかしら」
「時間はかかるかもしれないわ。少しずつ一門の考えを変えていくしかないでしょうね。〈龍〉の誇りは、呪力ばかりではないということを」
亜鳥は、ゆるぎない決心をしているようだった。
以前の亜鳥は、静かだが内に凛とした強さを秘めていた。今は、その強さがはっきりと表に現われている。長い眠りとその目覚めは、彼女のどこかを変えていた。
白久は、黙って亜鳥の言葉を待った。
「一門には、新しい統率者が必要よ」
亜鳥は言った。
「わたしなら、誰も異存はないでしょう」
白久は、亜鳥を見つめた。
確かにそうだ。亜鳥は、一門が待ち望んでいた紫色の眼の持ち主。過去の〈龍〉と同じく、力ある呪力者なのだ。
「わたしも、母さんも」
白久は、つぶやくように言った。
「逃げることばかり考えていた。一門を変えようなんて思わなかった」
「わたしだってそう」
亜鳥は目を伏せ、首を振った。
「それが一番いけなかった。必要なのは前を見ること。もっと以前に考えていれば、こんなことにはならなかったのに」
白久は、黙って亜鳥の手を握りしめた。亜鳥は、まっすぐに顔を上げ、
「だから、やってみるわ、白久。〈龍〉を復活させるのよ」
「わたしも手伝いたい」
白久は心から言い、両手で亜鳥の手をつつみこんだ。
「でも、ごめんなさい。わたし、自分がどんなにわがままか知っているわ。父さんと叔母さんを置いて村を出た。こんどは・・」
亜鳥はわずかに眉を動かし、白久を見つめた。
「どうしても?」
「ええ」
三狼と旅をしながら、ぼんやりと憧れていたことが、ここ数日ではっきりとした形になっていた。抑えようのない思いだった。
亜鳥は白久の気持ちを知り、心を乱している。自分は最後まで叔母を困らせているのだ。
けれど、亜鳥のまなざしは、白久のすべてを受け入れていた。
「わたし」
白久は静かに声にした。
「大那に行く」
「白久さん」
家の片隅で、黙って二人の話を聞いていた三狼が、驚いたように口をはさんだ。
白久は、彼に向きなおり、微笑んだ。
「そんな声出さないで、三狼さん」
「しかし」
「ずっと大那を想っていて、でも恐かった。村を出ても、大隅の奥地に行くことしか考えなかった。それじゃあ母さんと同じ。龍に逃げ込むしかないでしょう。わたしも、前に進みたい。あなたのおかげで、大那がどんな所なのかわかったわ。そして、わたしが今一番やりたいことは、この目で大那を見ることなの」
三狼は、両手を髪の毛の中につっこんで、ほとんど掻きむしらんばかりだった。
三狼が、白久の身を心配してくれているのはよくわかった。
龍の一門である白久は、地霊の少ない大那で普通に生きていける保証はない。呪力は使えないだろうし寿命も限られるかもしれない。
だが、人の一生の善し悪しは、生きた年月だけで決まるだろうか?
死よりも恐ろしいことがある。
自分の想いを殺して生きていくことだ。
白久は、三狼に歩みよった。彼の顔をのぞきこみ、
「あなただって、龍を見るために、危険覚悟で大隅に来たのでしょう」
「ああ、そりゃあ・・」
「わたしだって、同じことよ。自分がどのぐらい生きられるかなんて、誰だってわからない」
「・・」
「だから、後悔したくないの」
「わたしが来ないでくれと言っても、きみは一人で武塔山脈を越えるだろうな」
長い沈黙の後、三狼は髪の毛を掻きあげたままつぶやいた。
「きみのおかげで龍が見れた。こんどは、きみに大那を見せる番か」
白久は、にっこりと笑ってうなずいた。
亜鳥が、静かに立ち上がって窓を開けた。
風が入ってきた。
武塔山脈の連なりが、まぶしく光を浴びていた。