蒐集家
小説のいろはも分からない時代に書いた幼作ですが、箸休めとか暇潰しだとか、そんな感じで読んでもらえればと思います。
蒐集家
彼女と出会ったのは三年前。当時俺は、昔懐かしいファミコンにハマってて、そういうレトロゲーを、多数取り扱っている店があったんだ。んで、俺はそこに頻繁に通ってた。
「おっ! エキサイトバイクじゃん! なっつかしいなあ」
店内には、所狭しと置かれたファミコンのカセット。そして、見た事も無いような昔のゲーム機が、ガラスのショーケースに飾られてあった。
それで、ショーケースの中の商品は、正直なんでこんな訳わかんないゲームが、こんな値段なんだって思うほどに高い。
銀座なんかに有る、高級デパートのショーウインドーの中身と一緒だよ。ただのボールペンが、訳わかん無いブランド名がちょこちょこっと書いてあるだけで、何万円もするのな。……ちょっと違うか。
俺ちっちゃい頃はさ、ビンボーだったから、ファミコンなんて買ってもらえなくって。でも今なら、本気出したらこの宝の山が買える。そう思うだけで、この店は天国みたいなもんだったよ。
「全部で2700円ね」
ぐっ。三百円足んねえ……。俺の本気って。
「常連なんだからさあ、まけてよ店長」
「だめだめ。そう言って聡には随分サービスさせられてんだから、今日はまけらんない」
どれか一本諦めるか……それとも……いや、今日選んだのは、どれもこれも前から狙ってたやつばかり。今日を逃すと売り切れちゃうかも。
「どうすんだ?」
「店長……来月金払うからツケって事に出来ない?」
店長は俺の申し出に、ちょっと考えた後こう言った。
「んじゃさあ、聡あれも買えよ。そしたらツケでもいいし、今足りない分もまけてやるよ」
「ほんとに! 俺、店長が天使に見えるよ!」
俺は店長の指さす方を見て固まった。
ーーまじか……前言撤回。店長、あんたやっぱり悪魔だわ。
店長の指す先には、黄金色に輝く『順天堂二十五周年記念スーパーマルコブラザーズ』のカセットがあった。これって比喩じゃないぜ。マジで光ってんだ。意味がわかんねえ。
値段は……バカにしてるよ。俺のバイトの時給十六時間分って……。
「あの私、それ買いたいんですけど。もしかして買います?」
「へっ?」
俺と店長は同時に声を上げ、声のした方を見た。
そこには、びっくりするくらいの美女……なんてこんな店にいる訳は無く。言ってみれば、普通の女の子がいた。可愛くも無いし、不細工でも無い。かと言って特別オシャレな感じでも無い。本当に普通の娘。
まあ俺だって褒められた容姿じゃないけどね。もし俺の事知ってる奴がいたら、お前が言うなって突っ込まれそうなくらいだ。
「店長? この場合どうなるの?」
「あ、ああ。どうなるんだろな。て言うか君、本当にそれ買うの?」
彼女は、俺と店長を交互に見た後こう言ったんだ。
「立ち聞きするつもりは無かったんですけど、こうするのはどうですか? 私と彼は実は友達だったって事にして、私がこのソフト買うので、彼の分をまけてあげるって言うのは」
天使やあ天使様やあ……。俺にはまじでその子が天使に見えたよ。
「それってさあ、今ここで言っちゃったら、友達じゃないっての丸分かりじゃない?」
「細かいよ店長! そんなこといいじゃん! 店的にはおんなじじゃん!」
店長は、少し考えた後「まあいっか」って、俺の分もまけてくれた。俺は思ったね。世界の人達が、みんなこんなに優しかったら、戦争なんて無くなるのにねって。
店長は、ポケットから鍵束を取り出すと、ガラスのショーケースを開けて、金色に輝く『スーパーマルコブラザーズ』を取り出した。
店長の手には、いつの間に着けられたのか、薄い布で出来た手袋がはめられてた。ヴィトンかよ! 俺は心の中で突っ込んだ。
「こちらでよろしいですか?」
ヴィトンかよ! 俺は、心の中で突っ込んだ。
「うわあ……すごく綺麗」
「ちゃんとゲームが出来るか、今確認しますね」
ファミコンってやつは、中々にデリケートな代物だ。少しの衝撃で、宝物が一瞬でゴミ屑に変わることだってある。安い物なら交換で済むが、こんな古くて値段の高い、しかもレア物なら尚更だ。確認作業は当然しなくてちゃならない。
買って帰って、いざ楽しむぜって時になって、壊れてましたじゃ話にならないし、店としても、あとでクレームなどない様に壊れていませんよねって見せなきゃならない。
それなのに彼女は、驚くべき事を言い放った。
「ああ、いいです。私中身には興味ないので。そのまま包んでもらえますか?」
「え?」
固まっている店長に向かって、彼女はもう一度同じことを言った。俺は、二人のやり取りをただ見てたよ。未知との遭遇ってこんなのを言うのかな?
「ありがとうございましたあ……」
店長と俺は、店から出て行く小さな背中に向かって声をかけた。さよなら天使。もう会う事は無いだろうけれども……。
「店長。俺、このショーケースが開くの初めて見たわ」
「俺も初めて開けたよ。そして夢がかなった。この手袋いつか着けてみたかったんだ……」
じゃあもういっその事ヴィトンで働けよ。って無理か。
「店長さあ、あれどう言う意味なんだろうね?」
俺は、大物が売れて気の大きくなった店長に誘われ、店中におっちゃん達の嬌声が轟く、やっすい居酒屋で飲んでた。
「ん? さあ、どうなんだろうな」
店長は、グラスに残ったビールを飲み干した後、苦い顔をして言った。
「中身に興味無いとかって有り得んの?」
「まあ、ゲーム自体は大量に流通してるからな。ただ単に、レア物が欲しかったんじゃねーの?それか、俺の店の事信用してくれてるかかな?」
「あの子常連なの?」
「いや、初めて見た」
「なんだよ。それ」
俺は、皿の上で冷たくなったつくねを頬張ると、店員に勘定を頼んだ。
「聡、今日は俺が払っとくけど、今度店来た時金返せよな」
「えっ? おごりじゃないの?」
「なんで、三百円まけてやった上におごんなきゃならないんだよ」
店長……。あんた、俺の三倍は飲み食いしてんぞ。
「ありがたっしたあ!」
背後から店員の威勢のいい声が追いかけて来る。
「じゃあな」
そう言うと店長は、夜の繁華街に消えてった。
俺は思うんだけどさ、世界中で起こってる戦争とかのきっかけって、きっとこう言うのが原因で起こってるんじゃないか? だとしたら、そりゃ戦争も無くならないよね。
あっ、天使だ。
俺はその時、丁度店から出て来たあの子を見て、心の中で呟いた。この店に通ってんのか?
「店長、天使来てたね」
「おお、聡か久し振りだな。金持って来たか?」
開口一番それかよ。俺は、前回の飲み代を、きっちり半分に分けた金額をカウンターの上に有るカルトンの上に置いた。
銀色のカルトンの中で、一円玉がくるくると回って倒れた。
「よし、聡。偉いぞ。俺はまた、全然店に来ねえから、お前がそのままばっくれんじゃねーかって思いかけてたわ」
店長は、出来の悪い子供に諭すように言うと、金を自分の財布にしまいこんだ。
「もしばっくれてたら?」
「聡……そう言う質問を、世の中では愚問って言うんだ」
一瞬険しくなった店長の目を見て、俺の背筋は少しだけ寒くなった。
「冗談だよ。そんな事する訳無いじゃん」
昔、灰色の龍だか何だか言うバンドが、悪そうな方々は皆友達なんだぜって歌ってたけど、俺があの歌聞いて真っ先に思い出すのは、今目の前にいるこの店長なんだ。
俺みたいに中途半端な奴が、店長に不義理働いたりしたら。この街では生きてはいけない。
いや、生きては行けるかもしれないけど、それは、エアーポンプの電源が切られた水槽の中にいる、金魚みたいな状態でだ。
でも、そんな状態で生きていけるか? 結局最後には、息苦しくなって、ここから出してくれって逃げ出すしか無いんだ。
ん? 何でそんな怖い兄ちゃんにタメ口なんだって? それには色々深ーい事情ってのがあるんだよ。でも、今回の話には関係無いから、また機会があったら話すよ。
「店長、職変えた方が良く無い?」
「この店は俺の夢なんだよ。大好きなファミコンや、レトロゲーに囲まれて仕事してるのが俺の幸せなの」
よくわかんない人だなこの人は。
「知ってるよ。昔言ってたもんね。ところで、天使来てたね?」
俺は、もう一度店に来た時と同じセリフを言った。
「ああ、あの子まじで天使だ。三日に一遍は来てんじゃねーか? そんで来る度に結構な金額買ってくれんだよ」
「あの子、そんなゲーマーなんだ。ジャンルは何が好きなの? やっぱりアクション系?」
「いや、それが、あの子の選ぶゲームの傾向が全くわかんねえ。値段もジャンルもばらばらだ。今日もショーケースの中の商品買ってったよ」
俺は、ショーケースの中を見た。確かに、先週まではあったレアソフトが無くなってた。俺の記憶ではかなりの高額だったはずだ。あの子何者なんだ?
それから俺は、何度と無く店の中で彼女と遭遇した。俺から見ても、彼女がどんなゲームを求めてんのか、全く分からなかった。そう言えばその頃にはもう店長は、彼女の事『神』って呼んでたな。
「なあ聡。あの子がこの店に落としてった金、いくらになると思う?」
店長、悪い顔してんなあ。
「さあ、十万位?」
店長は不敵に笑うと、顔の前でピースサインを作って見せた。
「にっ! まじで?」
「まじだ。しかも、この一ヶ月でだ。信じられるか? どこの金持ちの御令嬢だよって感じだよな」
俺は、ガラスのショーケースをなんとなく見た。ショーケースの中は、一ヶ月前と比べると、明らかに高額なレアゲーが無くなってた。
俺は、ものすごくあの子に興味が湧いた。いや正確には、レアゲーにだけどね。ゲーマーなら当然でしょ?
「ねぇねぇ、俺達ってさあ、この前友達になったよね?」
彼女は、いつものようにファミコンのカセットを物色してた所だった。かなり厚かましいかなとも思ったんだけど、俺は彼女に声をかけた。
唐突な問いかけに、彼女は困惑して、どうだろうなんて言ってたけど、俺は構わず続けた。
「あのさ、お願いと言うか何と言うか、この店で買ったゲームあるじゃない? 良かったらその、見せてもらえないかなって。だめかな?」
彼女は少し首をかしげて、考え始めた。
やっぱり無茶なお願いだったか? そりゃそうだよな。名前も知らない奴にいきなりそんな事言われてもって感じだよな。うわあ、何か緊張するぞ?何でだ?
「それって、うちに見に来るって事?」
ん? 何でそうなるの?
「いや、そう言う訳じゃ無いんだけど……」
「だったら、もう少し仲良くなってからじゃないとね。名前も知らないし」
あれ? 何かナンパみたいになってる。俺は、ゲームをちょこちょこっとやりたいだけなんだけど……。
「な、なるほど、そりゃ尤もだね。じゃあ取り敢えず……」
「おい、聡。何店ん中でナンパしてんだ。うちの神にちょっかい出してんじゃねーぞ」
ええ! 店長! 俺そんなつもり無いから!
「神?」
彼女は当然の疑問を口にした。
「いや、あれだよ、お客様は神様的な比喩だと思うよ?」
何で俺が、フォローしなきゃなんなんいんだよ。店長頼むから黙ってて。
「取り敢えずここ出ようか。あの人恐い人なんだよ。ね?」
「何か言ったか?」
若干険の含まれた店長の声を、さり気なく躱して俺たちは店の外に出た。次に店に行く時が恐ろしい。
「あの、これってナンパ?」
彼女がそう言った瞬間、隣に座るカップルが、好奇心旺盛な目で俺達を見てくる。
俺達は店を出た後、取り敢えず近くのカフェに入った。
「いやいやだから、友達。友達になりたいの。ゲームを見たいの。ナンパっての人聞き悪いからやめてよ」
俺は、言い訳の様に声を張った。でも、こういう時に声張るのって逆効果なんだな。余計に注目浴びてるよ、俺。天使ちゃん頼むよ本当。
「ふーん。まあいいや。君、聡君て言うんだね。私は、紗江って言うの。宜しくね」
彼女は、俺にそう言うと、握手のつもりか右手を差し出して来た。おっおお? 何だ? 今までに無いパターンだな。
俺はつられる様に右手を差し出した。何か調子狂うなあ。
「ねえ、これからどこ行こっか?」
「へ?」
「私さ、男の子と遊んだ事無いんだよね。こう言う時ってさ、どうするの?」
俺達は、こうやって何と無く一緒に遊ぶようになって、何と無く付き合うようになったんだ。
紗江の何処に惹かれたのかなんて分からない。本当なんとなくなんだ。他の子と、ちょっと変わってるなってとこが良かったのかも知れない。
女の子なのに、ファミコンのカセット集めてるなんて相当変わってると思わない? でもまあ、男と女が付き合うのなんてそんなもんだよな。何がきっかけになるかなんて本当わかんない。
「男の子家に入れるのなんて初めてだよ」
そう言って紗江は玄関の鍵を開けた。
正直俺は、どんな豪華な所に住んでんだろって、内心かなりわくわくしてたんだ。
でも紗江のマンションは、それと意識していないと、うっかり通り越してしまうような、どこにでも有る普通のマンションだった。あれ? 御令嬢じゃないの?
ようやくお宝ソフトにありつける。俺は玄関で靴を脱ぎながら、そればっかり考えてた。
紗江は何故か、ゲームを見せてくれって言っても、もっと仲良くなってからねの一点張りだったからね。
部屋に入って、まず俺が口にした言葉は「何で?」だった。
別に、他の男が既にいて待ち構えてたとか、泥棒が部屋を物色してたとか、そんなドラマティックな事が有ったんじゃないぜ? いや、もしかしたらそっちの方が現実味が有って、まだ良かったかも知れない。
紗江の部屋に入った時、俺はマジでびびった。
なんでかって言うと、その部屋の壁には、一面にファミカセがびっしり貼っ付けてあって、恐ろしい程の圧迫感があったからな。
紗江が俺にゲームを見せるのを、自分の家にこだわった意味は、この時点でやっとわかったんだ。
ぎらぎらの原色で構成された壁は、正直言って、暴力的な印象すらあった。
あの部屋に三十分もいたら、健全な目だって、色弱だか何だか目の病気になるんじゃねーか? それぐらい、あの部屋は強烈だった。
「何でこんな事してんの?」
「何が?」
「いやいやいや、だから、壁」
「壁がどうかした? 綺麗でしょ?」
紗江は、ファミコンにはまってる訳じゃなくて、カセットだけを集めてたんだ。
「まあ、綺麗と言うか……何か、芸術的だな……」
「でしょ! 聡話分かるねー!」
俺は、当たり障りの無い言葉で、その場の雰囲気をしのいだ。
喜々とした表情で、無邪気に綺麗でしょっ? なんて言って来る紗江に、俺は何も言えなかったな。
紗江がトイレに行ってる隙に、壁のゲームが外れるかどうか試してみたけど、だめだなありゃ。アロンアルファか何かだな。改めて思うけど、日本の技術ってすごいよな。アロンアルファって、クレーンも持ち上がるらしいぜ? あのCMが本当ならだけど。
紗江は悪い奴じゃないし、自分に何か害が有る訳じゃないと思って、俺は、その事を気にしない事にした。レアゲーが出来なかったのは、正直ショックだったけどな。
でも、今思えばそれが間違いだったんだ。
紗江は、とりあえず気に入った物は何でも買い集めた。
時にはフクロウの置物だったり、時にはけん玉だったり、それこそあらゆる物を集めてた。
金はどこから来るんだろって思って、一度聞いた事が有るんだけど、親が金持ちなんだそうだ。御令嬢じゃないみたいだったけどな。
え? そんなに物ばっかり買ってたら部屋の中がすぐに一杯になるんじゃないかって?
それなんだけど、紗江は飽きたら全部捨てちゃうんだ。そこには初めから何にも無かったって思うくらい、一切合切さっぱりね。
あっ、でも壁のファミカセはそのまんまだったな。いつだったかな、壁からソフト剥がそうとして、壁に宙ぶらりんになってる紗江見たのは。
その時の光景は、今思い出しても笑っちゃう位シュールだった。だって紗江は、スパイダーマンみたいに、壁に張り付いてこっち見てたんだ。普通じゃ無いよな。あれ? 思い出しても笑えないな。なんでだろう。
まあいいや、付き合い始めて半年位だったかな、紗江の家に行くと、部屋の中がなんか薄暗くて、おっきな水槽が部屋の真ん中に置いてあったんだ。
「紗江さあ、これなに?」
「水槽」
紗江は、薄っすらと青い光に照らされた水槽の中をじっと見ながら、俺の方も見ないで答えた。
「可愛いよ。聡も見る?」
俺は、紗江の肩越しに水槽を覗いた。
水槽の中には、サイケデリックなカラーリングのカエルが山ほどいて、俺は絶句した。
だってそのカエル、ジョジョのスタンドのウェザーリポートだったかな。あいつが空から降らせた奴にそっくりなんだ。あの触ると毒で死ぬって奴。ヤドクガエルって言う名前だったかな。とにかく、やばい奴なんだ。
「さ、紗江? これ、毒とかあるやつじゃねーの?」
俺は、黙っていられなくて訊いたんだ。そしたら紗江は、俺の顔を見て、可愛いでしょって繰り返した後、水槽の中に手を突っ込んで、一匹捕まえたんだ。
俺は、その場の光景が信じられなくって、二、三歩後ずさったよ。
で、次の瞬間俺はもっと信じられない光景を目にした。そん時の光景は、全部スローモーションに見えたな。
紗江は少し首をかしげた後、俺の方にカエルを放り投げたんだ。
目の前に迫って来る極彩色のカエルは、ファミカセの壁とハレーションを起こして、俺の焦点は、一瞬対象物を見失った。
俺は混乱しながらも、必死でカエルを探した。
いた! その時俺は、確かにカエルと目が合ったよ。カエルに感情が有るのか無いのか分からないけど、カエルはちょっと迷惑そうな顔をしてた気がするな。
俺は、道端の犬の糞を踏みそうになった時みたいな、情けない声だして避けた。だって当たったら死ぬんだぜ?
俺の鼻先三センチの所を、迷惑そうな顔のカエルは、ニュートン力学に則って放物線を描きながら、床に落ちてった。部屋の中に、濡れたゴム風船が地面に叩きつけられたような音が響いた。
カエルは生きてんのか死んでんのか分かんないけど、ピクリとも動かなかった。
部屋の中が静か過ぎて耳鳴りがし始めた頃、紗江は唐突にケラケラケラって笑い始めたんだ。
「何がおかしいんだよ!」
俺は、情け無い声や態度が馬鹿にされた気がして、急に腹が立って声を荒げた。
「だって、聡の顔、すっごく面白いんだもん。それに……」
紗江はそこでまた、笑いが堪えきれなくなったのか、その場で体をくの字にして笑い転げてた。人に嗤われるのは面白くない。誰だってそうだろ?
「あー面白かった。それに、日本で育てたカエルには毒は無いんだよ。村上龍の小説に書いてあったもん。何だったかな? 北の国からなんとかってやつ。知らない?」
紗江の悪い癖だった。紗江は、自分の知ってる事は、自分以外の皆も知ってると思ってる。知らないやつは、馬鹿だって言って憚らなかった。
俺は本なんて読まない。読んだとしても、精々週刊少年ジャンプくらいだ。だからまあ、馬鹿だって言われても仕方がないけどな。
「そんなの知らねえよ! シャレになってねえんだよ! お前頭おかしいんじゃないか?」
俺が怒鳴ると、紗江は急に顔から笑顔を消して、代わりに、生理二日目なんですけど何かって聞いて来そうなくらい不機嫌な顔になった。
「聡って冗談も通じないんだね。面白く無いんなら帰れば?」
俺はこの時、紗江とは別れようって思って、何も言わず帰ったんだ。玄関で靴を履く時、少しだけ部屋の中を振り返ったら、紗江はもう背中を向けて、水槽に夢中になってたよ。
床にのびた極彩色のカエルは、さっき見た位置から全く動いてなくて、極彩色のファミカセルームと一体化したみたいに見えた。
「シャレになんねえよ店長。あいつ頭おかしいわ」
店長は、不機嫌そうな顔で、ガラスのショーケースを雑巾で磨いていた。
「お前のせいで、神様全然店に来ねえじゃねえか」
「俺のせいじゃねえって。言ったじゃん。紗江は、ファミカセ集めんのに飽きたんだって」
「知るかよ。聡と付き合い出してから来なくなったんだから、お前のせいだろうが。こっちはあの子の事見越して、レアゲーしこたま仕込んでんのに。このままじゃ大赤字だぜ」
確かに、この間までガラガラだったはずのショーケースには、新しいソフトが色々追加されてた。でもそれって、逆恨みもいいとこだよな。
「とにかく、今度神様に会ったら、迷える仔羊が待ってますって伝えといてくれよな」
「いやだからもうあいつには会わないんだって」
俺は、これ以上ぐちぐち言われるのは勘弁って感じで店を出た。
それから俺は、紗江の事は忘れて、とにかく日々の生活に勤しんでたんだ。って言っても、バイトと家と店長の店の往復だけどな。
で、紗江の事も殆んど思い出さなくなった頃だった。俺の携帯に、紗江からメールが来たんだ。「この前はごめんなさい。もう私達はお終いなの?」ってね。
カエル事件からずいぶん経ってたし、全然連絡無かったから、俺的には自然消滅的な感じで捉えてた。
だから、今更なんだよって俺も思ったし、それにやっぱりあんな事があったから、俺的には正直関わり合いになりたくないって思いが強かったんだ。
で俺は、心を鬼にして紗江にメールを送った。「ああ、もう終わりだ」ってね。
でも不思議なもんだよな、そんな風に思ってても、やっぱり胸の中で何かが疼くって言うのかな? シクシクしちゃうんだわ。だって男の子だしね。あれ違うか?
そしたら紗江は、こう言ってきたんだ。
「じゃあ最後に私の家に来てくれない? 一晩だけでいいから」ってね。
そんな事言われちゃったらさあ、ねえ? やっぱりシクシクしちゃうよね? だって男の子なんだもん。
「……久し振りだね。元気だった?」
薄いピンクのキャミソール。オーガンジーのストールとベストマッチなカーディガン。デニムのホットパンツから伸びてるのは白くて細い……何て言うのかな、何て言うのかな。あれ? あれあれ? ちょっと見ないうちに、ちょっと可愛くなってない?
「何か、雰囲気変わったね」
「そう?」
「うん、何か可愛くなった」
「化粧変えたからかな?」
そう言って紗江は、頬に掛かった髪を耳にかき上げた。頬にのった薄いピンクのチークは、白い肌に映えて花が咲いたみたいで、そこだけ、春が戻って来たみたいだった。あっごめん、言い忘れてた。その時夏ね夏。
男子三日会わなかったら、目かっぽじって見てみろって言うじゃない? あ、目はかっぽじれねえか。あれって、男子だけじゃないね。女子もだわ。それくらい紗江は変わってた。
「どこ行こっか」
人間はギャップに弱いって本当だな。その時俺は、完全に紗江にまいってた。現金なもんだよな、男なんて。
「と、とりあえず飯でも行く?」
「うん……」
紗江は、ちっちゃな声でそう言うと、俺の少しだけ後ろからトコトコついて来た。
俺は、隣に並んで欲しくて、少しだけ歩調を弱めたんだ。すると紗江は、小走りに駆け寄ってきて、俺の腕に自分の腕を巻き付けて来たんだ。反則だろ、それは。
街を歩いてる男達が、皆紗江の方を振り返ってるような気がして、俺はなんだか、軽い優越感に浸ってた。
「ねえ、ここ入ろうよ」
不意に、紗江がそう言って示したのは、普段なら絶対入らない様な、イタリアンの店だった。
表に出して有る黒板には、『本日のコース……4,900yen』だってさ。俺は瞬時に、ナイロンで出来たポーターの財布の中へと意識を潜らせた。
俺の記憶が確かなら……英雄が四人、何故か紫式部が一人。そして、樋口一葉が一人。肝心の諭吉はレットカードで退場してる。このミッションに挑むには、何とも頼りないフォーメーションだな。
俺の表情を読み取ったのか、紗江は「私が誘ったから、ここは私が出すよ」とか言って来た。
店長。神はご健在です。但し、店長にとってじゃなくって、俺にとっての神って意味だけどな。
「紗江、変わったね。何かあったの?」
「何も無いよ。今ちょっと、服にはまってるんだ」
紗江は、前菜に出た甘鯛のカルパッチョを、フォークの先でつつきながら言った。黒くてちっちゃなイクラみたいなのが、ころころ転がってオリーブオイルの海に飛び込んでった。
後から知ったんだけど、あれキャビアって言うのな。俺、黒いイクラは無いわって思って、気持ち悪くて食べなかったんだけど、店長に聞いて、それ知った時は、めちゃくちゃに後悔したよ。
『人生のチャンスってやつは、それに気付けるかどうかなんだ、お前からしたら、目の前のチャンスなんて、石ころみたいなもんだな』
だってさ。店長の野郎、たかが魚の卵ごときでそこまで言うかね。ごめん、話しそれた。
とにかく、俺はその言葉で、紗江が変わった理由が分かった。好きになった物や、興味を持った物への紗江のこだわりぶりは、俺が一番知ってるからな。
でも、そんな健全なこだわりなら大歓迎だよな。俺は、見た事が無いような分厚い肉を食いながら、もう一回やり直してもいいかな、なんて事を考えてた。
店を出ると、紗江は俺にこう言ったんだ。
「うちに来ない?」って。
俺に、断る理由なんて一つも無い。俺は二つ返事で行くって応えたよ。
久し振りに紗江の部屋に入って、俺はびっくりしたんだ。だって、あんなに物で溢れてた部屋の中は、何にも無くなってたんだ。壁のファミカセも、部屋の中心に置かれてた、バカでっかい水槽も。
部屋には最低限の生活用品と、小さな本棚。あと、前には無かったちょい大きめの冷蔵庫があった。
「部屋ん中さっぱりしたね」
「うん。いらなくなったから、全部捨てちゃった」
捨てた? 俺は、水槽の中で蠢いてたカエル達の事を思い出した。あいつらはどうなったんだ?
「あ、あの子達はペットショップに引き取ってもらったよ」
紗江は、ちょっと見ないうちに読心術もマスターしたみたいだ。
俺は、紗江の部屋に初めて来た時みたいに緊張した。紗江も同じみたいだった。
何かよく分からない感じの沈黙が、腹の中で妙に重たい空気の塊みたいになって、喉元をぐいぐい押し上げて来る。
「シャワー浴びて来るね」
紗江は、そう言ってバスルームに入ってった。後はまあ分かるよな? 男と女が二人っきりで夜にする事なんてさ……ドンジャラだよドンジャラ。
……まぁ冗談はさておき。
色々事が済んで、俺は、ベッドの上でさっき考えてた事を思い出しながら、真剣に紗江と、もう一度やり直す事を考えてた。
カエルもいないし、何より紗江は、もの凄く魅力的に変わってたからね。
そんな事を考えてたら、俺は自分でも気付かないうちにウトウトしてたんだろうな。紗江が「先に寝てていいよ」って言ったんだ。
だから俺は、紗江にまだ寝ないのかって聞いた。そしたら紗江は、まだやる事があるからって言って、俺の頭を撫でたんだ。そして俺は、そのまま深い眠りに落ちてった。
どのくらい寝たかな? 頭にコツンて感触を感じて俺は目が覚めたんだ。俺は、紗江が横に来たのかなって思って、もう一回寝ようとしたんだけど、ちょっと待っても、紗江は布団に入って来なかった。
俺は、どうしたのかなってうっすら目を開けてみたんだ。そしたら紗江は、枕元で俺の顔を、黙って見つめてたんだ。俺、心臓止まるかと思ったよ。
どうしたの? そう言おうとして、身体起こそうとした瞬間だった。
耳元でトンッて音がして、遅れて左耳に鋭い痛みが走ったんだ。俺は慌てて両手で耳を押さえた。
手に、生暖かくてぬるっとした感触を感じて、上から押さえてた方の手を離して見てみたら、暗闇でも分かるくらいに、俺の手は黒く濡れてたんだ。
俺の頭の中に、どくん、どくんって心臓の音がうるさく鳴り響いた。そして、それに合わせる様に耳も痛んだ。
一瞬で俺の目は覚めたよ。今でもあの音と痛みは覚えてる。俺は声も出せずに、紗江の方を見たんだ。
そこには包丁持った紗江が、無表情で座ってた。その後、枕元を見たら、俺の頭の有った所の横に、まな板が置いてあったんだ。
近所迷惑とかどうだっていい、て言うか、寧ろ近所の人助けに来てって感じで、俺は生まれて初めてってくらいの大声で叫んだ。
そしたら紗江はちょっと笑って、動かないでよって言ったんだ。
俺には、身体中の血が凍りつくんじゃ無いかって思うほどに、体が冷たくなって行くのが分かった。
俺は、耳を押さえながら、とにかくその辺に有る物を、手当り次第に紗江に向かって投げたな。
そのうち、どうしたんですか?って玄関叩く音が聞こえて来て俺は走ったね。
それで情けなくも、助けてくだしゃいって、声が裏返りながらも玄関から飛び出したんだ。
そしたら隣人さんかな? わかん無いけど、血まみれの俺の事見て動転したんだろうな「ケチャップですか?」なんて言ってたな。
俺はそれ聞いて、そんな訳ねえだろって思ったんだけど、多分、信じたくなかっただけかもな。そりゃそうだよな、まさか隣でそんな事件が有るなんて誰も思わないもんな。
俺は、紗江が追っかけて来ないか玄関出た所から振り返って見たんだけど、紗江はさっきと同じ所でじっと座ってた。
窓から差し込む光で、包丁だけは鈍く反射してたけど、紗江は逆光で黒い輪郭だけになってた。それが俺にはものすごく怖くて、部屋の前でガタガタ震えてたんだ。
多分、さっきの人が警察呼んだんだろうな。遠くの方から、サイレンが近づいて来て、俺の目の前で紗江は連れていかれたよ。
それから俺は、そのまま病院に運び込まれた。
幸い耳は、元に戻るって事だったんだけど、一歩間違ってたら、俺はゴッホになってたかも知れないんだって。
後日俺は、事情聴取って事で、警察の人と話しをしたんだけど、動機って言うのかな? それがマジかよって感じなんだけど、俺は獲物なんだって。さっき言ってた、村上龍の本の事覚えてるかな? それに書いてあるんだってさ。
戦士は、戦利品に耳を切るんだって。耳を集めるんだって。それで、集めた耳、あのでっかい冷蔵庫に保管するつもりだったらしい。
理由。サイコ過ぎだろ……。
「よお、聡。なかなかオシャレなイヤーマフしてんじゃん」
「うるさいなあ。店長も切られてみなよ。そしたら、少しは俺の気持ちも分かるから」
「俺は、もうそんな物騒なのからは足を洗ったんだよ。それより、新しいのまた入ったから買ってけよ」
店長の目に、一瞬暗い影が落ちた気がしたんだけど、俺は、それに気付かない振りをして、新しいレアゲーを物色した。
俺は、あれから紗江がどうなったのかを詳しくは知らない。多分病院かどっかに入ったんだと思う。
もし身の回りの知り合いや友達が、何かに対して偏執的にこだわってたら、ちょっと気を付けた方がいいかもな。
だって、下手したらゴッホになっちゃうかもしれないからな。
いや、ゴッホならまだいいけど、もしかしたら……。
まあいいや。またなんか思い出したら、書いて見るよ。