人魚のいるテラリウム
「いらっしゃい、お兄ちゃん」
部屋に足を踏み入れると、少女がひょっこりと顔を出した。黄色のナイトキャップを被り、軽やかな足取りで近づいてくる少女の後ろをカラカラ、カラカラと滑車の音がついてくる。彼女の腕が引きずっているのは、背の高い銀色のパイプにくくりつけられた点滴だ。部屋の隅ではヒーターが燃え盛り、加湿器の湯気がもくもくと上がっている。僕は額の汗を手の甲で拭った。
「今日はどこにする?」
「中庭! あのね、ナデシコの花が咲いたの」
木製のベンチに腰かけ、足をぷらぷらさせる彼女の後ろに立って、僕はそのナイトキャップを引き抜いた。しゅるっ、露になった黒髪は細くまとまっており、おまけにじっとりと湿っている。
僕は彼女の頭に手を置き、骨格を確かめるようにひと撫でしてから櫛を取り出した。彼女が昔、京都の店先で欲しいと駄々をこねた赤い櫛。またいつか来たときに買ってやるよと言ったきり、二人で京都を訪れる機会は今や遠のくばかりだ。
白く光を照り返す、真っ黒な髪を梳く。彼女の髪は多分の水を含み、ぽたぽたと毛先から雨を降らす。
「お兄ちゃん、いい加減長靴履きなよ」
「ごめん、忘れちゃった」
「またぁ?」
僕の靴は撥水加工のされていないスニーカーだった。櫛を通すたび、重力に従って受け止めた水が靴下に染み込んでくるのがわかる。長靴を忘れたのはわざとではないが、人間、忘れたいものは都合よく忘れるらしい。
彼女は未知の病に冒されている。髪が根のように全身から水を吸い上げ、常に湿り気を帯びている。気化熱により体温調節が難しいため、彼女のいる部屋は年中ヒーターが焚かれている。髪に奪われ続ける水分は、加湿器と点滴で補っている。それでも体調の悪い日は体内の塩分濃度が高く、高血圧なのだという。彼女が発症し、入院してから5年。いまだ治療法は確立されていない。
僕は中庭に面した窓から、長いコードを投げ入れた。
「すみません、繋いでもらえますか」
「ああ、はいはい、差しましたよ」
「ありがとう」
スイッチをスライドさせると、鈍いモーター音が上がった。繰り返し髪を梳きながら、ドライヤーで乾かしていく。また内面から染み出してくる水分に対し、こうして乾かす行為は意味がない。それでも彼女は楽しみにしているらしく、僕が来るこの時間を首を長くして待っているようだ。
根気強く熱風を当て続けると、ようやく黒髪が本来のばらつきを取り戻した。彼女は緩く首を振って、髪が風に揺れるのを感じ、満足げに微笑んだ。
「私、いつか魚になっちゃうの」
病室に戻る途中、彼女はぽつりと溢した。
「魚になったら、あのお部屋、水で満たされちゃうのかな。私、水のなかで息をするのかな」
「そんなことないよ」
僕は彼女の肩に手をやる。乾かしたての黒髪をさらさらと弄ぶと、彼女はくすぐったそうに震えた。
「ほら、まだ乾いてる。安心して、君は人間だよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
彼女は屈託なく笑って、病室の扉の向こうへ消えていった。
僕は踵を返して、向かいの部屋の扉を開けた。山のような書類で散らかった床に躊躇いなく足を乗せ、ハンガーに掛けられた白衣に腕を通す。
「君は人間だよ、だってさ」
自嘲気味に呟いて、僕は洗面所の鏡を覗き込んだ。相変わらず、人殺しのような顔をしている。これが彼女の愛する「お兄ちゃん」の顔か。
僕は生来、他人には到底言えない性癖を抱えている。「実の妹を永遠に閉じ込め、鑑賞していたい」という、恋愛とも家族愛ともかけ離れた、歪んだ愛の形だ。物心ついた頃から、彼女を縛りつけたい衝動に駆られ、悟られぬように極力優しい手つきで、あの濡れ羽色の髪を撫でていた。
幸運なことに、神は僕を愛していた。奇病の兆候が現れた彼女が、真っ先に相談を持ちかけた相手は医者である僕だった。僕は彼女を病室に閉じ込め、半永久的に鑑賞し続けることに成功した。
向かいの病室は、すでに水で満たされている。彼女は僕の用意した水槽で、僕の用意したえらを使って生きていく。