Mother
自サイトより転載いたしました。
明らかに犯罪を犯したという描写がありますので、R-15のタグをつけさせていただきました。14歳以下の方はそっとお戻りください。
また、この作品は完全なるフィクションであり、作者である私の妄想の産物です。犯罪を助長するような意図はありませんので、あらかじめご了承ください。
どうして人を殺してはいけないの?
庭先のポインセチアに水をやっていると、ふいに娘の声が脳裏をよぎった。
思わず気がそれて、ホースの水が派手にかかってしまった。見れば、ひざ下がぐっしょりと濡れて、ズボンの色が濃く変わってしまっている。
水は、ひどく冷たかった。まるで人の心のように。
いつもそうだ。
『ねぇ、母さん』
食器を洗っているとき、料理をしているとき、掃除をしているとき。まるで本に挟まれた栞のように、思いつめたような顔をした娘の声は、そうした日常のページの狭間で唐突によみがえる。
怖いくらい鮮やかに。今ここに娘がいてもおかしくないほどのリアルさで。
私は、その時何と答えたのだろう。きちんと娘と向き合ったのだろうか。
娘の声が蘇る度、私はそれらの問いを自分に投げかける。記憶の中の自分を探してみる。
だけど、たくさんの思い出の中にある些細な記憶は、なかなか出てきてはくれない。もたもたしている間に娘の声は色あせていく。
それに比例するように、思い出すのがどんどん億劫になる。
物思いに耽る私を遮ったのは、17時を知らせる鐘の音。玄関先のポーチでぼんやりとたたずむ私の目の前を、子どもたちが走っていく。
「早く帰ろうぜ」
「今日の夕飯なんだろうなぁ」
無邪気な彼らの声に揺り起こされるように私の意識はだんだん戻ってくる。夕飯、夕ご飯。そうだ、そろそろ買い出しに行かなくては。
街に出る。それを考えるだけで私の心は重く沈む。だけど、無理してでも行かなくては。きちんと生きてい苦ためには仕方ない。
人は、何かを食べなくては生きていけないのだから。
―あの子は今日、一体何を食べて生きているのかしら。
私は今日も、娘の帰りを待ち続けている。あの子が生まれ育った、この家で。
◇◆◇◆◇
住宅街から街へ出ると、高い塀が嫌でも目についてしまう。あの塀は、どうしたって私の気分を暗くさせる。この街に、私の心に、暗い影を落とし続ける高い塀。
「奥さん、お肉買っていかないかい?安くしとくよ」
商店街を歩くと、馴染みのお肉屋さんが陽気に声を掛けてくれた。
冷たくて息の詰まるような街の中で、彼だけはいつも私の心を温めてくれる。
「そうなの?じゃあ今日は生姜焼きにしようかしら」
私の得意な、生姜をたっぷり使た生姜焼き。あの子の大好物だ。
「娘さんはいつ帰ってくるの?また2人で買い物に来てほしいな」
お兄さんはそんなことを言いながら、手早く肉を包んでいく。まだ若いのに彼はとても働き者だ。
「さあ、いつかしら。そんなにすぐには戻って来れないと思うわ」
「そう、それは残念だね。早くあの可愛い笑顔が見たいよ」
また御贔屓に。
笑顔で手を振るお兄さんに見送られ、帰り道を急ぐ。
「あら、あの人」
「たしか、娘さんが…」
すれ違うご近所さんたちのひそひそと囁く声が、風に乗って耳に届いて自然と急ぎ足になる。
早く家に帰りたい。ここはとても息が詰まるから。
◇◆◇◆◇
「ごちそうさま」
今夜の生姜焼きは、少し生姜を入れすぎたかもしれない。ツンとした刺激が、舌をチクチクと刺激する。
けれど、おかげで体は随分と温まった。今日はよく眠れるだろう。
食器を片づけて、ソファでテレビを眺めた。
四角く切り取られた画面の中では、綺麗な顔をした女優さんや俳優さんがそれぞれ違う人生を演じている。
「いいわね、羨ましい」
現実でも、あんな風に違う人生を演じられたらいいのに。
『どうして人を殺してはいけないの?』
ああ、まただ。また、あの頃の娘の声がする。
栞の挟まれたページが私の目の前で開かれようとしていた。
過去から響く娘の声に目を閉じた。瞼の裏にはあの頃の娘がいる。さらりと揺れる絹の黒髪、キラキラと輝く大きな瞳、白い肌。
あの子は昔から賢い子だった。自慢の娘だった。そしてそれ以上に、美しく無垢な少女だった。
『それはね』
過去の自分が、何を言ったのか。その答えを私はまだ見つけられていない。思い出せない。
それでも、彼女にはきちんと教えてあげなくてはならない。母として、人生を先んじて生きるものとして、自分が答えられる精一杯の言葉で。
『人は簡単に人を殺せてしまうからよ。人間は、道具を作りすぎた。ものを作ったり、料理をしたりする道具を。そういった道具は確かに便利なものだけど、同時に人をも殺せてしまうようになったの』
記憶の中の娘に伝わるようにと祈りながら語り掛ける。
私の言葉を、あの子はこちらをじっと見つめたまま待っていた。
『人は弱い生き物なの。嫉妬や復讐…そう、誰かをほんの少し妬んだり憎んだりすることよ、そういった簡単な心の揺らぎでも、人は人に殺意を向けてしまう。そして便利な道具は、その殺意を現実のものとしてしまう。だから人は、法律や倫理やモラルという言葉で人殺しを禁じることにしたの。人殺しの箍を外してしまわないように、自分たちを言葉で縛ったのよ』
どれだけ言葉を尽くしても、伝わらないのに。
人を殺したおぞましさは、人を殺してみないとわからないのに。
『そうすることしか、できなかったの。人間は、弱い生き物だから』
今の私なら、そう言える。
けれど今では遅いのだ。娘が私に聞いた、あの時に答えてあげなくてはいけなかったのだ。
目を開けて、部屋の中を見渡す。がらんとした人気のないリビングは、1人で過ごすには少々広すぎる。
静まり返った部屋の中、テレビの中では女優が涙を流していた。
ここにはもう、帰ってくる人はいない。何もかもがもう遅い。幸せだった日常には、もう戻れない。
テレビを消して、ソファから腰を上げる。気づけば、随分と遅い時間になってしまっていた。
もうそろそろ寝なくては。明日は娘に会いに行くのだ。ずっと前から、そう決めていた。遅れる訳にはいかない。
明日は、とても大事な日だから。
◇◆◇◆◇
次の日、私はまだ日の高いうちに家を出た。
平日の昼間だからか、いつもの商店街は閑散としている。私はその中をまっすぐ塀を目指して歩き続けた。
高い塀は、今日も変わらす私とこの街に暗い影を落とし続けている。
私は高い塀と塀の切れ間に挟まるようにある、味気ない事務所の前で立ち止まった。
やっと、娘に会える。
事務所の中に入って、受付のテーブルに向かい合う。私の名前と娘の名前を台帳に書いた。
『お前の名前から一字貰おう。きっとお前に似た綺麗な子になるぞ』
娘の名前を書いているとき、昔愛した人の声がした。それは今はもういないあの人と、娘が生まれたときにした会話だった。
こんなことなら、私の字なんて付けなければよかった。こんなにも似た運命をたどるなんて、なんて因果なのだろう。
しばらくすると、小さな部屋に通された。向かいにあるパイプ椅子には、まだ誰も座っていない。目の間を遮るアクリル板がひどく邪魔だ。
透明なそれには、疲れた顔をした私の姿が反射して映っている。
『どうして人を殺してはいけないの?』
またあの子の声がした。
だけど今日は、過去の自分を探すことはしなかった。娘にとっては、過去より未来の方が長いから。
あの子に会う時くらいは、過去を振り返ることはしたくなかった。意識して頬を上げる。せめて優しい笑顔の母親のまま、彼女と会いたい。
ガチャリ。
重たい音を立てて、アクリル板の向こうのドアが開く。
ああ、ついに来た。
『どうして人を殺してはいけないの?』
キラキラと目を輝かせていた無邪気な娘は、時を経て美しく成長した。誰もがうらやむ、誇らしい娘になった。
「お待たせしました。面会は15分です」
『母さん、私分かったよ』
娘が18になった夜、彼女は帰ってくるなり私にそう言った。
今でも忘れられない。その夜は、土砂降りの雨の夜だった。
『人を殺してはいけない理由が、やっとわかったよ。…こんなにもおぞましいことは、誰もしちゃいけない』
身体をぐっしょりと濡らし、両手を真っ赤に染めた娘の姿は今でも脳裏に鮮やかに残っている。
『人は、人を殺してはいけないんだね』
あの夜から今日で1年が経つ。今日は、娘の19歳の誕生日だ。
「早く帰ってきなさいよ」
「うん。母さん、ごめんね」
すっかりやつれてしまった娘は、弱々しく微笑む。疲れた色をその顔に宿していても、娘の姿は儚く美しかった。
「私は大丈夫だから」
私は、虚勢を張って微笑んだ。
どうあがいても、罪を犯した娘の将来は暗くて重い。せめてこの一瞬だけでも、輝く未来を信じさせてあげたかった。
「お母さん、強くなるから。貴女を守れるように」
今日も私は、娘の帰りを待っている。たった一人で。誰も帰ってこないあの家で。
それだけが私に、弱くて脆い人間に、何を捨てても子どもを守る『母』に、出来る唯一のことだと思うから。




