序幕-2-
腕に抱えた書物をどさりと小机に置き、わたしはベッドで眠る少年に目を向ける。
穏やかな寝顔、安定した寝息。よかった、病に蝕まれている様子はないようだ。
あの後、遠慮する少年を半ば無理矢理家に引き入れ、医者を呼ぶように侍女に言いつけたわたしはそのまま少年を運ぼうとしたが、母様と鉢合わせてしまい入浴させられるハメになった。
だが、ずぶ濡れの子供を見てそう判断するのは当然のことかと割り切ると同時に、わたしは素直に頭を下げた。無断で書庫へ入ったことの謝罪はそこそこに、少年の介抱を認めてくれたことの感謝を伝えるために。
母様は頭を下げるわたしの頭を何も言わずにそっと撫で、少年ためのベッドと着替えを用意するよう指示を出してくれた。優しい母様は、素性のわからない少年に対しても快い笑顔を向けていた。
「……ん…………」
ごろりと寝返りを打つ少年。初めはこちらの対応に頑なに遠慮していたが、医者に投与された軽い睡眠薬により今はすっかり眠っている。
汚れを落とし着替えさせられた少年は、外で見たときよりずっと健康的に見えた。血の気を取り戻した顔にかかる深紅の髪が、窓から吹き込む微風にさらりと揺れる。雨は、わたしが入浴している間に止んだようで、今では暖かみのある橙の光が世界を柔らかく包んでいた。
ずれたシーツをそっと直しながら、わたしはベッドの傍らの椅子に腰掛け、読書をする。濡れた髪が重く、下を向くとすぐに首が疲れてしまうがそれすら気にすることなく没頭した。
「……の…」
「……んん…」
「……………」
小さく身体を揺さぶられる感覚が心地よく、暖かい闇から抜け出せない。もう少し、このまま……
「あのっ……!」
叶わなかった。
小さくも芯の通った声に、わたしの意識は急速に浮上する。同時に足の上に本が落ち、声にならない悲鳴をあげた。
「〜〜〜っ!!」
「あっ……すみません……」
「だ、だいじょ……、えっ!?」
「!?」
突然上げたわたしの声に、目の前で身体を起こした少年がびくっと肩を震わせる。
「あっ貴方……!」
「は、はい」
不安げに見開かれた金の瞳と目が合い、わたしは思わず立ち上がって少年の肩に掴みかかっていた。
「だ、大丈夫!?起きて平気!?どこか痛いところは?わたしが見える?自分がわかる?」
「お、落ち着いてくださ……」
「大丈夫なの!?」
「…は、い……平気です……」
圧倒されたような表情に気付くことなくわたしはか細い返答を聞き、大きく息を吐いてストンと椅子に腰を下ろす。
「よかったぁ……」
そこでようやく、自分が取り乱していたことへの恥ずかしさが込み上がってきて小さく「ごめん」と呟くと「いえ」という小さな返答があった。
ふと窓の外を見れば、既に星々の輝きが天を覆っていた。吹き込む風に小さく身を震わせ、窓を閉めるべく立ち上がる。
「あの……」
「ん?」
「ここは、どこですか?」
「わたしの家」
パタンと窓を閉め、レースのカーテンも閉める。月の位置からして、大体夜7時くらいだろうか。
「……えぇっ!?」
「!?」
十分すぎるほどの間を取った後、少年が大きな声をあげるものだからわたしは大きく肩をびくつかせた。
「え、ど、どうして……」
「え…と、ほら、わたしがあなたを、自分で言うのもあれだけど介抱して……」
「そ、そうじゃなくて!」
少年は酷く狼狽えていた。小刻みに震える手が酷く弱々しい。
「ど、うして……俺なんかを……」
「え?」
「だからっ、どうして俺を、こんな……」
「あ、服が気に入らなかった?ごめんね、すぐに違うものを--」
扉へ向かうわたしだったが、少年の一声によって止められた。
「どうして助けたんですかっ…!」
ドアノブにかけた手が止まる。ひやりと冷たいそれから手を離し、少年を見やれば、泣きそうな顔をしてこちらを見ていた。
どうしてそんなに悲しそうなのか、わたしにはわからない。とりあえず言えるのは、
「興味があったから」
これ以外の言葉を、わたしは今持ち合わせていない。
「き、興味……?」
「うん、興味!」
困惑した表情を浮かべる少年のもとに戻りながら、わたしは笑った。ころころと表情の変わる子だと思った。わたしも子供だけれど。
「貴方のその金の瞳に興味があった。それだけだよ」
「お、俺の…目……?」
「そうそう、その目」
眠りに落ちる前に読んでいた本で見つけた、金の瞳についての記述。
『金の瞳は世界の孤児。見放された運命に立ち向かう意志を兼ね備えた、戦士の瞳。世界の廻りを正す資格を持った、英雄の瞳。周りの者を救いへと導く、聖者の瞳』
暗唱してみせると、少年はいよいよわけがわからないといった風に困惑の色を深めた。
「あははっ、わからないって顔してる〜」
「わ、わかりませんから……」
「そうだね〜、わたしもわかんない!でもさ、それってすごく素敵なことだよ」
「は……?」
世界なんて単純だ。
「わからないことは希望、希望はわからないことだらけ。それを知るために、わたし達は生きてるんだ」
今、少しだけわかった。わたしが求める答えは、この少年が持っている、もしくは持ってきてくれるのだと。金の瞳を持っているからという理由しか今はないが、きっとこれからたくさんの理由が見つかるのだろう。
その先の未来はわからない。それでいい。
窓の外を白い小鳥達が飛んでいく。
「貴方、名前は?」
「え……」
「なーまーえ。貴方、じゃ、つまらないよ」
「…………」
十分な間を取った後、少年はボソッと独り言のように呟いた。
「……アケギ」
「アケギくんね。わたしはシャル」
「シャル……?」
「シャル・エアホルン。よろしくね、アケギくん」
ニコリと微笑み手を差し出す。再び十分間があった後、遠慮がちに握り返された。
夕食の時間が近付く。
これからの生活に胸を弾ませながら、わたしは部屋を後にする。
まずは、体作りからだよね。
これから起こる全ての事象が、きっと、わたしの求める答えに繋がっている。
今はまだそれくらいしかわからないけれど、裏を返せばそれだけはわかっているということだ。
それぞれの物語が始まる今宵もまた、世界は廻っている。
ゆっくり、のんびり、茶を楽しむかのように。