板挟みの心、白い少女
「……ん……」
辺りが明るくなってきて、俺は閉じていた目を開く。どうやら、気付かないうちに眠ってしまっていたようだ。
俺がいるのは、登山道からちょっと離れた、見晴らしの良い高台状の場所だ。さわさわと、吹き抜ける優しい風が、俺の毛並みと辺りの草木を揺らす。目の前には、未開拓の草原がどこまでも続く風景が広がっていた。
こんなところで寝ちまってたんだから、UDBに襲われてもおかしくなかった。我ながら、どんだけ命知らずだよ。……いや、もしかしたら、どこかでそれを望むくらいにヤケになってたのかもしれない。
「……はは。ホントに、何やってんだろうな……」
自分の行動がアホらしくて、何だか笑えてきた。ギルドから逃げ出して、こんなとこに来て……何がしたいんだ、俺は?
「みんな、どうしてっかな……」
俺がいないことには気付いただろうか。心配ぐらいはしてくれているだろうか。怒っているだろうか。いろいろ想像しているうちに、自分が昨日言ってしまったことが頭を埋めていった。
最低……だよな。八つ当たりしてさ……怒らせて、嫌われて当然だ。
膝を抱え、その中に顔をうずめる。何だか、急に泣きたくなってきた。
俺は今、ひとりだ。ここには誰もいない。誰も来ない。
俺の中の半分は、それを望んでいる。だけど、残りの半分はそれがたまらなく嫌だった。
「……ちくしょう……」
ギルドに戻りたい、みんなの顔が見たい。そう思う俺がいる。だけど……みんなと顔を合わせるのが、どうしようもなく怖くてたまらない俺もいる。
仲間でも何でもない。言われた言葉がものすごく痛い。
そう言わせたのは、それだけのことを言ったのは俺だ。だけど、本当に嫌われてしまったかもしれない、それを確かめてしまうのが怖い。
……みんなが俺の過去を知ったのも聞いた。俺の力をもう適当な態度じゃ隠し通せない。そんな日が迫っていることが、怖い。
気にするな、とみんなは言ってくれるかもしれない。そんな身勝手な期待が消しきれなくて、だから……確かめるのが、期待できなくなるのが、怖いんだ。
そして、近いうち……あれを見せなければならないだろう。その時にみんなは、俺をどんな目で見るだろうか。
話すつもりが無かったわけじゃない。いつか話そうと思っていたのは本当だ。だけど、いざその時が目の前に来ると、昔の記憶が蘇る。
友達だと、兄弟だと、そう思っていた相手から……悪魔と罵られて、石を投げられ続けた時の記憶。それが、いつまでも消えてくれなくて。みんなが石を投げてくる姿まで、想像できてしまうんだ。本当に最低なことだって、分かっている。だけど……あの時だって、孤児院のみんなのこと、俺は信じていたのに……悪魔だって、みんなが。
「人が……怖い」
もしも、みんなに受け入れられなかったら。そう考えると、全てから逃げ出したくなる。誰かに拒絶されるのが怖い。こんな思いをするなら……いっそ、ずっとひとりの方が。
「……でも、ひとりはもう、嫌だ……!」
周りから拒絶され、俺自身も拒絶していた昔の自分。気が狂いそうなほどの孤独。絶望。
マスター達に拾われなければ、俺は死んでいなかったとしても、狂っていたかもしれない。もう、あの孤独は味わいたくなかった。
人と接するのが怖い。誰かに拒絶されたくない。
ひとりになるのが怖い。誰かに受け入れられたい。
同時に湧き上がる思いが、俺を板挟みにする。
何度だって、話そうと思ったんだ。だけど、みんななら受け入れてくれるかもしれない。その期待が強くなればなるほど、余計に怖くなっていって……。
俺は、どうすればいいんだろう。どうすれば、良かったんだろう。
――俺の耳が、何かの足音を捉えた。
「………………?」
風の音に混じって聴こえてくるそれは、こっちに近付いて来ている。最初はUDBかと思ったが、それにしてはおかしい。これは……人の足音だ。
俺は反射的に、戦闘に移れる体勢を取りながら、そちらを振り向いた。
そこにいたのは、人間の女性だった。年は俺と同じぐらいだろうか。髪は白く、後ろ髪が肩に軽くかかる程度の長さ。服装は全体的に黒でまとめられている。肌もまた色白くて、とても綺麗だ。
何より特徴的なのは、その瞳だ。右目は赤だが、左目は青い。オッドアイってやつか。
「君は……」
さすがに戦闘態勢は解いて、話しかけてみる。それに対し、その女性は無表情なままで遠くを眺めている。彼女はそのまま俺の側まで歩いてくると、足を止めた。
「……綺麗」
「え?」
ぽつりと彼女の口から出て来た言葉。少しして、風景の事を言っているのだと気付いた。
「ここ、良い?」
今度の言葉は、俺に向けてだった。地面を指さしている。隣に座って良いか、と言う意味みたいだ。
「……構わねえぜ。一人で眺めてるのも飽きてたとこだし」
嘘だった。元々、人から離れたくてこの場所に来たんだから。
だけど、彼女と少し話してみたい……何故だろうか、そう感じたのも事実だった。俺の返事を聞くと、彼女はその場に座った。
「あなたはここで、風景を眺めていたの?」
「ああ。この風景、お気に入りでな。何てっか、壮大だろ? 人の手が及ばない大自然ってやつは」
「……ええ」
少女の言葉は、表情と同じく淡々としたものだった。だけど、冷たい印象はあまりなくて……何だか、透き通っていて綺麗だと、そう思った。
「君、名前は? 俺はアトラ。アトラ・ブライトだ」
「……フィーネ。フィーネ・ランデル」
フィーネは相変わらず無表情なままで答えた。
「君は、どうしてここに?」
「見てみたかったから。この山を、ここからの風景を」
「それだけか? いや、俺もそうなんだけどよ。けど、ここにはUDBだって出るんだぜ?」
「……この国に来たのは初めてだから。行ける場所には行ってみたかった」
雰囲気はこうも無感動なのに、意外とアクティブな理由だな……。変わってる、って一言で言うのはいいけど、それだけじゃ足りない気がする。
「じゃあ、いったいどこから来たんだ?」
「遠い所」
「え?」
「凄く、遠い所」
「……そうか」
それ以上言うつもりは無さそうだった。何か言いたくない事情があるのかもしれないと思い、俺も聞くのは止めておいた。
会話の間、俺達はずっと遠くの風景を眺めていた。雄大なバストールの大地を。
「あなたは……」
次は、彼女から先に口を開いた。
「どうした?」
「どうして、泣いていたの?」
「え? ……あ……」
泣いてなんかない、と言おうとして目を拭うと、そこには確かに涙の痕が残っていた。
「……男の涙ってのは、気付いても気付かないフリをしてやるもんだぜ?」
俺は努めておどけた調子でそう返した。そうしないと、俺自身が辛かったから。
俺の返答に、フィーネは少しだけ視線を落としたように見えた。本当に少しだけだから、気のせいかもしれないけど。
「ごめんなさい。私には、そういう気遣いが分からないから。もっと人の心の動きを学ぶべきだと、よく言われる」
「人の心……か」
俺は思わず、自嘲するように笑っていた。
「そうだな。俺にも分からねえよ、そんなもん。人ってのは難しいもんだ。自分自身まで分かんなくなるくらいにな」
「自分自身?」
「そう。自分でも、自分の心が分かんなく時だってあるんだぜ? 今の俺みたいにな」
はは、と乾いた声が喉の奥から漏れる。
「自分の心も分からない俺が……人の心なんて分かるわけがねえ。だから、八つ当たりであんな事も言えたんだろうな」
初対面の女の子に何を言ってるんだろう、俺は。でも、一度こぼれると、止められなかった。
「……俺さ、仲間とケンカしちまったんだ。それで、家……みたいな所を飛び出して、ここに逃げて来たんだよ」
「どうして、逃げたの?」
フィーネの言葉は叱るようなもんではなく、本当に問いかけだった。だから俺もそのまま言葉を続ける。
「ケンカしたことも、もちろん原因ではあるさ。けど、それ以上に、そのケンカのせいで、今までずっと隠してたことが知られちまったんだよ」
「隠していたこと?」
「そ。何て言うか……昔のトラウマ、忘れたい過去ってやつ? で、それを知っちまったみんなと顔合わせるのが怖くて……まだ知られてない、一番の秘密を話さなきゃいけないのが怖くて、ここにとんずらってわけ」
気が付くと俺は、初対面の少女に、触れられたくなかったはずの部分まで話していた。
彼女だから良いと思えたのか、誰でも良かったのかは分からない。でも、誰かに聞いて欲しい思いがどこかにあったんだと思う。
「笑っちまうよな。別にみんなに何を言われたわけじゃねえのに、俺が勝手に怯えて、逃げて……はは。本当に、バカみてえだ」
「バカみたいだと思うのならば、どうしてあなたはずっとここにいるの?」
彼女の言葉は純粋だ。そのぶん、痛い。
「……言ったろ。怖いんだ、みんなと顔を合わせるのが。今はまだ、俺の勝手な想像でいられる。だけど、もし本当に何か言われたら思うと……俺は」
結果は白か黒のどちらかにしかならない。それを知るのが……もうごまかせなくなるのが、怖い。それがどれだけ臆病な考えか、分かっているけど。
「あなたの仲間は、あなたを拒絶するような人たちなの?」
「違う、そうじゃない。あいつらはみんな、良い奴らばっかだ。お人好し過ぎるくらいにな。だけど……だから余計に、もしもを考えた時が、怖くなるんだ」
それは、孤児院のこともそうだし……もうひとつだけ、ちくりと痛む記憶。
俺がギルドに入ってから、唯一あれを見せた時。あの時のあいつの表情が、俺はいつまでも忘れられない。俺に向けられた、恐怖の表情が。
分かってはいる。あいつは、そんなやつじゃないって。あいつはあの後、何度も何度も謝ってきた。あれから今まで、あいつが俺を拒絶したようなことは無い。
だけど、同時に分かったんだ。俺がどれほど異質なのか。俺の力は、仲間まで怯えさせてしまうようなもんだって。
「いつまでも昔を引きずって、先に進もうとしねえ臆病者。で、傷つきたくねえから、いつもどっちつかずのとこに立って、何でも適当に済ませようとする半端者……俺はそういう奴なんだ。情けねえだろ?」
結局、俺は信じられていないんだ、みんなのことを。信じているなら、こんなことせずに真っすぐ向き合えていたはずだから。
俺はやっぱり、最低だ。あんな良い奴らを、こんな俺を受け入れてくれた人たちを、疑っているなんて。
少しだけ、会話が途切れた。
……俺は、フィーネに何を求めてこんな事を話したんだろう。肯定か、否定か、それとも、何の返事も求めていなかったのか。自分でもよく分からなかった。
彼女の表情は、俺の話を聞く間ずっと、全くと言っていいほど動いてはいなかった。そして、ゆっくりと少女の口が開かれる。
「物事は表裏一体。光があれば影も生まれる。天秤が片方に大きく傾けば、反対に傾こうとする力もまた強くなる」
「え……?」
「希望が大きくなれば、それが破れた時の絶望も大きくなる。だけど、それは逆も同じこと。絶望することを恐れている限り、希望を手にすることも叶いはしない」
「…………!」
何かの詩を朗読するようなフィーネの言葉に、俺は目を見張る。
「その言葉は……」
「以前、兄から聞かされた話」
「兄、だって?」
「ええ。私にも、意味を完全には理解できていない。だけど、何だか、今のあなたに伝えるべきなんだろうと思ったから、言っただけ」
「あ……」
彼女の言う通りだった。俺は今、みんなから拒絶されて、絶望することを恐れ、逃げている。
だけど、逃げ続けている限り、先に進むことも決してない。拒絶されたかどうかを知らずに済む……それと同時に、受け入れられたかどうかを知ることもできない。
結果は、俺が受け入れられようとして、初めて分かるのだから。
(ですが、アトラ、確かめもせずに駄目だと言うのは、感心しませんよ)
(確かめる? 何をだよ。分かりきったことを確かめるなんて、バカみたいだろ)
昨日の会話を思い出す。分かりきったこと、俺はそう言って確かめようとしなかった。
でも、実際は……確かめていないのに分かるはずが無いんだ。どうせ答えは分かっている、なんて諦めたフリをして、結果を知るのから逃げただけ。
……分かってる。分かってるさ。
俺だって、全く気付いてないわけじゃない。自分がどうすれば良いのか。どこが間違っているのか。だけど。
「頭で理解して、その通りにできたら、いいんだろうな。だけど、それが簡単にできるなら、俺だってこんな風には悩まないよ」
一歩踏み出せば良いのかもしれない。でも、口で言うほど簡単に踏ん切りがつけられるほど、俺は強くない。
だから俺は、理解してないフリをしてきたんだ。そうすれば、楽でいられるから。過度な期待さえ抱かなければ、それなりの幸福が得られるから。
……ものすごく情けない言葉だって、自分でも思うけど。
「それがあなたの選択ならば、それもひとつの道なのだろうと考える」
フィーネは俺を蔑むでもなく、変わらない表情で遠くを眺めている。
「さっきも言ったように、私には、あなたの感情を察することはできない。必要だと思ったから言った、それだけのこと」
「ああ、分かってるよ。ありがとう……俺も、考えてみるよ」
彼女と話せて、少しだけ気が楽になった気がする。ちょっと情けなくもあるけど。
「感謝するなら、兄さんにするべき。私は、ただ兄の言葉を伝えただけ」
「君の兄さん、か。そんな言葉を言えるぐらいだから、頭の良い人なんだろうな」
「ええ。すごく賢い人。会うのは本当に久しぶりだけれど」
――続けて、彼女の口から出た兄の名前。
それを聞いた瞬間、俺は……自分の耳を疑った。
「フィーネ……今、何て?」
「え?」
「いや、君の兄さんの名前……」
珍しい名前じゃない。ただ一緒って事も有り得る。だけど、あいつなら、確かにさっきみたいな事を言いそうだ。まさか……
――俺達を、不快極まりない強烈な耳鳴りが襲ったのは、その時だった。
「ッ……!?」
「…………!」
最初は俺だけかと思ったが、フィーネの様子を見て、同じ感覚を体感していると分かった。
「これは、昨日の……!」
間違いない。この感覚、廃工場の時と同じだ。何だってこんな所に……!?
いや、理由なんて考えてる場合じゃない。
「アトラ、これは……」
「フィーネ、説明してる時間はねえ。逃げるんだ!」
目を凝らすと、もう目の前の空間が歪み始めていた。俺はトンファーを構えると、彼女の前で壁になるように立った。
歪みは加速していく。恐らく、逃げようとしても無駄だ。逃げ切る前に転移は完了するだろうし、獣から追いつかれるのは目に見えている。もし逃げ切れたとしても、この転移は、誰かが操っているはずだ。そいつから監視されている以上、どこから襲われるか分からない。
「……クソが。人をおちょくりやがって!」
あのアインって野郎なのか、他の奴なのか。目的は何なのか。何も分かんねえし、考えてる時間も無いみてえだが、高みの見物を決め込んでるそいつに対して、無性に腹が立ってくる。
だけど、それに気を取られているヒマは無い。歪みの中から、獣の唸り声が聞こえてくる。
「来る……!」
次の瞬間、空間のねじれの中から、獣の脚が現れた。
一部が出て来ると、後はそれほど時間はかからなかった。頭が、胴が、そして全身が。程なく、転移は完全に完了した。