仮面
「……これが、あいつと出逢った日の話だ」
あいつも、孤児だったのか。今まで、そんなことは思い付きもしなかった。あいつの体験してきたものも、抱えてきた思いも……本当に、何も知らなかったんだな。
「来たばかりの時は大変だったんだよ。マスターとジンはともかく、僕たちとまともに話せるようになるまでに、ひと月はかかったからね」
「それだけあいつは、人と接するのが怖かったの。マスター達のおかげで少しはマシになってたんだろうけど……そう簡単に、全部乗り越えられたりはしなかった」
事情を知らなかった者は皆が、信じられないと言うような顔をしている。誠司ですら、表情はかなり険しい。
「海翔。さっきあんたに、アトラが来たのは五年前って言ったわよね。そのうちの半年くらいは、対人恐怖症の治療だったわ」
「……何だよ、それ……」
海翔は、特に激しく動揺している。仕方ないことだろうが。
「美久の言う通り、半年間はまともに人と話す事もままなりませんでした。人が近付くだけで、反射的に体を強ばらせていましたからね」
「………………」
「ですが、次第に彼は自分の事を話してくれるようになりました。両親の記憶はほとんど無く、幼い頃は叔父にあたる人物に育てられていたこと。その叔父も貧しく、9歳の時に孤児院に預けられたこと。13歳の時に事件が起こり、孤児院を出て行ったこと。それから約二年間、どんな暮らしをしていたかも少しだけ教えてくれました」
先ほどの話から、孤児院を追い出されてからの彼がどんな暮らしをしていたかは、想像に難くない……いや、想像以上なのかもしれない。そんな暮らしを、彼は二年間も続けていたと言うのか。
「ここで暮らし始めてから、少しずつ、本当に少しずつだが、あいつは人とのコミュニケーションが取れるようになっていった。そして……ある日、あいつは急に俺の部屋にやって来て、こう切り出したんだ」
「仕事を手伝いたい?」
「あ、ああ……」
突然ウェアルドの部屋に入ってきたアトラは、開口一番そう切り出す。
部屋にはちょうどジンもいた。或いは、そのタイミングを狙ったのかもしれないが。
「駄目かな?」
「いや、駄目と言うよりもだ……どうしたんだ、急に?」
「それは……このままじゃいけない、って思ったんだ」
アトラの表情は真剣そのもので、何かを覚悟してこの部屋に入ってきたであろうことが見てとれた。
「マスター達に拾われてから、俺、すごく幸せでさ。みんなも俺を受け入れてくれたし。でも、俺……ただみんなに優しくしてもらうだけで、何も恩返しできてないから」
「おいおい、そんなことを気にしていたのか?」
「き、気になるだろそりゃ! 俺、マスターがいなきゃ今頃死んでたかもしれないのに。ここだと、ただ飯食らいなんだから……」
呆れたようなウェアルドの返事に、アトラは半ばむきになって返した。決意してきたなら悪いことをしたかな、と赤狼は苦笑する。
「アトラ。以前にマスターが言っていたでしょう。あなたぐらいの年齢なら、養ってもらって何も悪いことはありません」
小さな子供も労働力として扱われる国もあるだろう。だが、少なくともバストールでは、そこまでする必要は無い。
本来ならばアトラは、学校に通っていてもおかしくない年齢だ。さすがに今の彼にそれは酷だろうと考え、ウェアルド達が個人的に教育するに留まっているが。
「そりゃそうかもしれないけど、俺が納得できないんだ。それに……」
そこでアトラは少しだけ言葉に詰まった。二人は訝しげに少年の様子を伺う。
「まだ何か理由があるのか?」
「……実は……」
アトラは若干言いにくそうに俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「兄貴を、探したいんだ」
「兄貴、だと?」
アトラの言葉に、ウェアルドは思わずそのまま返す。
「お前、兄弟がいたのか?」
「ああ。俺、小さい頃は叔父さんに育てられたって話したよな? 実は、叔父さんのところでは、俺の他に兄貴も一緒に暮らしてたんだ」
「それは初耳ですね」
「俺も初めて話すよ。今までは、決心できなかったからさ」
ウェアルドとジンは顔を見合わせる。決心とはどういう意味だろうか、と。
「叔父さんは、本当の子供みたいに俺たちを可愛がってくれた。だけど、叔父さんも貧しかったからさ……俺たちをずっと養えるだけの余裕は無かったんだ。だから、兄貴は俺より先に別の孤児院に預けられた。俺が5歳の時の話だ」
それ以来、兄には逢っていないのだとアトラは言う。
「それで、その兄を探したいと?」
「ああ。ギルドの情報網使えば、人捜しもできるだろ?」
「確かに可能だが……」
ギルドは、世界各地に支部がある組織だ。このバストールにある本部には、世界中の情報が入ってくる。人捜しも、依頼としては度々出されるものだ。
「だが、それならお前が依頼と言う形で出せば良いだろう? お前がギルド入りする必要は無いと思うぞ」
「た、ただでさえ迷惑かけてるってのに、これ以上ワガママばっか言えるかよ! 少しぐらい手伝わないと、俺が嫌なんだって!」
「つまり、対価として働くと言うのですか?」
「……そういう事になる、のかな。あ、恩返ししたいってのも本当だぞ」
「ふむ……」
決して軽い気持ちではないのは伝わってきた。彼なりに考えた結果の答えなのだろう。
「分かった。ひとまず、お前の兄については捜索依頼を出しておこう。だが、どうして今まで言わなかったんだ?」
「……怖かったんだよ。もし依頼を出して、兄貴が死んでることが分かりでもしたらと思ったらさ。もともと病弱だった叔父さんは、俺が孤児院にいるうちに死んじゃった。ほんとの親なんて、ろくでなしだったことしか覚えてないし。肉親って呼べるの、兄貴ぐらいのもんだから」
なるほどな、とウェアルドはようやく納得する。別れたのは十年近く前の話であり、孤児院なら環境も決して良いとは言えないだろう。兄の死の確率を考えるのは当然である。
「でも、もし兄貴がどうなっていたとしても……それを、知るべきだと思ったんだ」
「誤魔化しながら生きていくより、最悪の結果でも知りたいと?」
頷くアトラ。その決意には、かなりの覚悟が必要であっただろう。
「そこまで覚悟しているならば、我々も応えなければなりませんね。ならば、後で特徴などをまとめて教えてください」
「ああ。つっても、俺は十年前の兄貴しか知らないんだけど……大丈夫かな?」
「名前と体毛の色だけでもだいぶ絞れます。後は、預けられた孤児院がどの辺りにあるかでも分かればかなり楽になりますね」
「それなら全部分かるよ。よろしく頼みます、二人とも」
アトラは珍しく頭を下げた。それだけ、彼にとってこの依頼が重要なのだ。
「そして、ギルド入りの件だが……お前に入る意思があるなら、俺に止める理由は無い。だが、本当に大丈夫か?」
「任せてくれよ。俺、これでもUDBとの戦闘なら経験してるし。ここしばらく、みんなに稽古もつけてもらったしな」
そう言えば、ひと月程前から何度か手合わせを頼んで来ていたな、とウェアルドは思い返す。このことを見越してのものだったようだ。そして、手合わせした感触からすれば、彼の実力は十分だと言えた。
――だが。
「ギルドの仕事を行う以上、それだけ人と関わる機会も増える。それは分かっているか?」
「……ああ」
彼の対人恐怖症は、かなり改善されたとは言え、未だに根強く残っている。仕事をすれば、不特定多数の人物と関わることは避けられない。
「だけど、人と関わる事から逃げてたら、俺、いつまでも変われないと思うから。そりゃ、怖いと思うとこもあるけど……」
「………………」
確かに、多数の人と関わる事は一種のリハビリになるだろう。だが、リハビリも時期を誤れば、ただ傷口を広げるだけになるかもしれない。
「依頼の際、どうしようもない窮地に陥ることもあるだろう。お前はその時にあれを使えるか?」
「! それは……」
ウェアルドが一番の懸念を口にすると、今度はアトラも返事に詰まった。
「一応、メンバーはお前があれに対してトラウマを持っていると知っている。使わなくとも、誰も文句は言わないだろう。だが、厳しいことを言っておくと、使わねばならない状況が訪れない保証は無い」
「……正直、怖いよ。みんなにはまだ見せたこと無いし……見せて拒絶されたらって思うとさ」
「それでも、ギルドに入るか?」
「いざという時に、使える自信は無いけど……それで、許してくれるのなら……」
アトラは完全に俯いてしまっていた。やはりこれだけは、虚勢すらも張れない程に、彼の心に深く突き刺さっているようだ。
ギルドの仲間を信じていないわけではないはずだ。だが、信じているからこそ、逆に怖いのだろう。彼が孤児院を出ていった事件のことを、二人は知っている。
信じた誰かに石を投げられる。それは、他人に石を投げられるより、どれだけ辛い記憶だろうか。
「ふう。良いだろう。できるだけ使わずに済むように、周りでもフォローしてやるさ。使うかどうかの判断はお前がしろ」
「……うん。迷惑かけないように、努力する」
今はそれで十分だ、と赤狼は頷く。ギルド入りだけでも相当な覚悟をしたのだろうから、一度に全てを決意させるのは酷だ。
「さて。では、さっそく明日から研修に入ってもらおうか? 大方の事は分かっていると思うが、一から再確認だ」
「え? あ、うん。分かったよ」
ウェアルドは努めて声の調子を明るくした。重い空気が続くのはたまらない。
「覚悟して下さいよ? 働く以上は容赦しません。遠慮なくこき使わせてもらいますからね」
「う……ちょっとぐらい容赦してほしい、かな」
「脅すなよ、全く。明日から頑張れよ、アトラ」
「……はい、よろしくお願いします、マスター、ジン」
「こうしてあいつは、正式な意味でギルドの一員となった。だが、やはり最初の頃は、あいつにとって相当な苦行だった」
「初対面の人とは、話すだけで震えていましたから。特に店のほう……自分からやると言ったのですが、大勢の人と触れ合う店は、彼にとって耐え難かったでしょうね」
決意したのが自分だとしても、すぐに全てを乗り越えられるほど、人の心は都合よくできていない。あいつは苦しみながら、それでも力になりたい一心で頑張ったのだろう。
「そしてあいつは、次第に……今のような言動をするようになったんだ」
今のような、とは、普段のあいつの軽薄な口調、振る舞いの事だろうか。
「いつからか、一人称を俺様に変え、口調も少しずつ芝居がかったものになっていった。本人は気分を変えたいからだと言ったが、実際は違う。あれは、あいつなりの処世術だ」
「処世術……?」
「女好きでお調子者の、軽薄な男。それは、あいつが自分の心を守るために作り出した仮面だ。上辺だけの付き合いであれば、深く関わらなければ、傷付くことも少なくなるからな」
……仮面、か。シグが任務の時に自分の心を押し隠していたように、あいつも、本当の自分を押し殺して……。
「アトラは、誰よりも人を恐れている。だが、同時に誰よりも孤独を恐れているんだよ。そのどうしようもない板挟みの結果、今のあいつが生まれた。傷付かないよう、独りにならないよう、広く浅くで人と触れ合うことを選んだんだ」
「あいつ……」
「だが、これだけは信じてやってくれ。あいつは、お前たちのことは本当に仲間だと思っていた。思っていたからこそ、話せなかったんだろう。あいつの中にはまだ、拒絶されることへの恐怖が、昔の傷が残っているからな」
「そんな……俺、そんな事、何も……」
海翔が、今までにないほどに弱弱しい声で呟いた。
「落ち着きなよ、海翔。ここで後悔しても意味が無いこと、君なら分かるでしょ?」
「でも、俺……俺、言っちまったんだぞ! お前なんか仲間と認めねえって……!」
「……あいつも酷いことをあんた達に言ったでしょ? 勢いで言ったってことぐらい、落ち着いたら分かるはずよ」
「……俺は。くそ……!」
お互いに、売り言葉に買い言葉だった。ただ、それが意図せず、深い傷に触れてしまった。
少年は拳を握り締めている。彼は、人を傷付けるのに敏感だ。自分が、相手のトラウマを抉るような発言をしたことが、彼にも大きなショックを与えているだろう。
「あいつの過去については、俺から話せるのはこれぐらいだろう。そろそろ本題……今日のことについてだ」
……そうだったな。あいつについて様々なことを知れたが、まだ明確な答えは聞いていない。
「先ほどの話である程度は伝わったかもしれないが、あいつのトラウマは、突き詰めれば一つのものが元凶と言えるんだ」
「……それは、あれ、と呼んでいたものですか?」
蓮の質問に、ウェアはそうだ、と頷く。
「皆さんも、何のことかは気付いているのではないですか?」
「……ああ」
詳しい内容までは分からずとも、先の話を聞けば、何を指しているかは考えるまでも無い。
「今までにも、疑問に思ったことはあるんだ。共に任務に出た時、あいつはいつも普通に戦っていた。それで難なくこなしてはいたが、どうして使おうとしないのか、と」
今の世界であれば、誰であろうと使えるもの。戦闘における最重要ファクターと言えるものを。
「少なくとも俺は、一度も見たことがない。恐らく、みんなもだろう?」
「うん……」
「私も……知りません」
一同が俺の言葉に頷く。何のことを話しているかは、さすがに全員が理解しているようだ。
「あれ、とは……あいつのPSの事だな?」
「ああ。その通りだ」
使う必要が無いからだろうかと、そう考えていた。或いは、あまり戦闘向きではない能力なのだろうかと。まさか、こんな理由があるとは考えもしなかったからな。
もっと気にかけておけば良かったか……そう思っても今更なのだが。
「コニィも、今まで何も聞いてなかったの?」
「気になって、一度だけ尋ねたことはあるわ。でも、適当にぼかされてしまって……」
「美久とフィオは見たことあんのか?」
「……ええ。一度だけ、ね」
美久は俯いたままでそう答える。フィオはその様子を心配しているようだが、彼女にも何かあったのだろうか。
「詳しくは語れないが、あいつの力は異質なものだ。それと、不幸にも様々な要因が重なってしまい、あいつが悪魔と呼ばれる所以となった」
「だからあいつは、力を使うのを恐れていたのか」
「ああ。だが、使ってしまったんだ、今日のあいつは」
先ほどジンが言っていたな。少年たちを助けるために、あいつはなりふり構っていられなかったのだと。
「PSは精神と結び付く。あいつは……力を使うだけで、過去を思い出してしまう。自分が迫害されていた存在だとな。それ故、一種の脅迫観念に襲われてしまうんだ」
「脅迫観念?」
「力を見てしまった者からは、敵意を向けられて当然だと言う考えだよ。そして、あいつは子供たちの前で力を使った」
「それって……じゃあアトラは、自分が子供たちに悪魔のような存在と思われているって、そう思い込んでるってこと、なんですか?」
「ええ。端的に言えばそうなります」
そんな、と瑠奈が声を上げる。
「確かにあの子たちは怯えてるみたいでした。だけど、そんなの、UDBに襲われた後なら当然じゃないですか!」
そうだ。怯えた目であいつを見たとして、そもそもが怯えて当然の状況だった。あいつ自身に怯えているなどと……あの子たちは、一言も言っていないはずだ。むしろ……。
「あなたの言う通りです、瑠奈。ですが、彼はこの話題に関しては、どうしても思考を停止させてしまう。長い間刷り込まれてきたものは、そう簡単には治らない」
「…………!」
たとえ、瑠奈の言うように思い込みであったとしても、彼はそう考えてしまったのだ。そして、それだけで十分だったのだろう。
「そしてもう一つ。あいつはまだ、力を使いこなせていないんだ。元々特異な能力である上、ほとんど使おうとしないのだから当然だが。故に、あいつは自分自身に恐怖を抱く。自分の力が周りを傷付けてしまうのでは無いかとな」
「………………」
浩輝が俯いた。彼にも何か感じることがあるのかもしれない。
「トラウマが喚起され、精神が不安定になっていたのです。だから、海翔の言葉に過剰な反応を示してしまったのでしょう」
「それが、今日の真相、か」
「……ちくしょう。俺、あいつに何て言えば……!」
海翔が抑えきれなくなったようにテーブルを殴る。
「何も言う必要は無いさ、海翔。ただ一つ、あいつのことをまた受け入れてくれれば、それだけで」
「マスター……」
「みんなもだ。今日のこと、思うところはあるだろうが、許してやってくれ。あいつも本心からお前たちを拒絶したりはしていない。俺はそう信じている」
頼む、とウェアは俺たちに頭を下げる。それはまさしく、父親のような姿だった。そして、それに対する答えは決まっている。少なくとも俺にはもう、怒りなど残っていなかった。
「一日頭を冷やせば、あいつも落ち着くはずだ。みんなも長話で疲れただろうから、一旦部屋に戻って休んでこい。飯の時間には呼びに行く」
「今日の依頼の詳細については、明日、全員が揃ってから報告します。どうせ、今は調べてもらっている最中ですしね」
「……分かりました」
ウェア達の言葉に、一人ずつ部屋に戻っていく。正直、休む気分では無いだろうが、それぞれ考えたいことはあるだろう。残ったのは、ウェアとジン、そして、俺。
「ガル、お前は戻らないのか?」
「その前に、一つだけ聞きたいことがあってな」
先の話の時から、俺の中で引っかかっていたものがある。まさか、とは思う。だが……辻褄は合うのだ。確かめねばならない。
「どうしたんだ?」
「ああ。実は――」
この日は……各々が眠れぬ夜を過ごした。