忌避されし少年
――五年前。
ウェアルド、そしてジンの二人は、南方の小国であるテルムを訪れていた。
この国にもギルドの支部がいくつか置かれていたが、人手、設備共に弱小であり、二人はその臨時支援として派遣されたのである。そして、任された仕事も完了し、二人は街中に出てきていた。
「……ふう」
「大丈夫ですか、マスター?」
「何とかな。人手不足が深刻だと聞いていたが、ここまでとは思わなかった。俺ももう年なのだから、さすがに疲れたよ。帰ったら数日は休ませてくれ」
ウェアルドの言葉通り、二人がこの国に着いた時には、かなり深刻な状況だった。おかげで、二人は奔走せざるを得なかった。
それでも、自分はまだマシであった、とジンは思う。ウェアルドは、任務の合間に隙を見てはギルドメンバーの教育及びに運営の補佐まで行っていた。睡眠時間もまともに無かったはずだ。
そもそも、ウェアルドが自分から休みたいなどと言うこと自体が稀であり、それだけで疲労がピークに達していることが分かった。
だが、そんな日々も今日で終わりだった。本日分の仕事も終え、明日にはバストールに帰還することになっている。
今回はギルド本部から視察も任されており、この現状を報告することで、適切な人員の補充が計画される予定だ。
二人はこの国の首都であるソレムの街中を歩いていく。この辺りは大規模な市場であり、数多くの露天が開かれていた。
「この辺りには、なかなか活気があるな」
「発展途上国とは言え、首都の中心街ですからね。人通りだけならばバストールと変わりませんよ」
テルムはジンの言う通りの発展途上国であり、バストールよりも遥かに治安が悪い。ここはまだマシなようだが、UDB関連の事件も多発し、国中至る所で物乞いの姿なども見受けられる。二人はその現実を見ておこうと考えたのだ。
「しかし、改めて、バストールが十分に恵まれていることが分かりましたよ」
「そうだな……」
この国に来て、何度も見た。路上で物乞いをする幼い子供も、それを気にすること無く歩いていく人々も。
嘆かわしい現実だ、とは思う。だが、この国の人を責めることはできない。彼らは自分の生活で手一杯で、他者を助ける余裕など持てないだけなのだから。
「……助けないのは可哀想だと考えられるのは、俺たちに分け与える余裕があるからだ。そして、それは一種の傲慢であるのかもしれない」
「ええ。残酷な言い方ですが、今の私たちに彼らを全て保護するのは不可能です。中途半端な施しは、ただの自己満足でしかありません」
「分かっているさ。ただ、それでも……できることは、やってやりたかった」
そんな子供たちに、ウェアルドは逐一、施しを行った。それが愚策だと理解はしても、見捨てることなどできないのがこの男だ。ジンも言葉とは裏腹、主のそんな行動を咎めているわけではない。彼とて、現状を嘆いているのは同じだから。
それでも、救えるのは数日だけだ。後は彼ら自身が、生き延びてくれることを祈るしかない。
「…………?」
その時、ウェアルドの目が、前方に人だかりが出来ているのを捉えた。ジンもすぐにそれに気付く。
「あれは何でしょうか?」
「分からん。だが、怒鳴り声のようなものが聞こえるな」
「では、トラブルですかね。やれやれ、今日はもう仕事をする気は無かったのですが」
「非常事態は疲労など考慮してくれないのが常だろうよ。行こう」
ギルドは治安維持のための組織でもあるし、それ以前に無視ができる性格でもない。ジンの愚痴も、関わる前提の軽口だ。
人混みをかき分け、二人は騒動の現場に向かう。周りの様子を見るに、思ったよりも不穏な空気だった。それに、やはり男の罵声が聞こえてくる。ウェアルドは全力で走った。ジンはその少し後ろを着いて行く。
「…………!」
やっとの思いで人の波をくぐり抜け、人の輪の中心で何が起こっているかが、ウェアルドの視界に飛び込んできた。
そこでは、血走った目をした犀人の男が、地面に倒れた赤毛の獣人の子を蹴り飛ばしていた。
「何をしている、止めろ!」
「あ? 何だアンタは。アンタには関係ねえだろ!」
言いつつ、犀人は少年を更に蹴る。少年の小さな呻きが聞こえて来た。
「止めろと言っている!!」
「何で止める必要がある? このガキは、うちの商品を盗もうとしやがったんだよ!」
男はすぐ近くの店を指差す。どうやら果物屋のようで、地面にはいくつかの果物が転がっていた。どうやらこれが狙われた商品らしい。
「……怒るのは当然かもしれん。だが、もう十分だろう!」
「十分? まだ全然足りねえよ! こいつは最近、ここら一帯の店を荒らし回ってやがったんだからな!」
店主と思われる男は、容赦なく少年を踏みつける。少年はどうやら気を失ったようで、今度は呻きも聞こえない。
「止めないか! これ以上は死んでしまう!!」
ウェアルドは少年を庇うように男から引き剥がす。犀人は心底不愉快そうに、ウェアルドを睨み付けた。
「さっきからうるさいんだよ、オッサン。それに、そいつは死んだって当然なんだよ」
「……何だと?」
犀人の男の言葉に、ウェアルドが男を睨み付ける。ここで、ジンもようやく追い付いた。
「知らねえのか? そいつはここら一帯じゃ有名なんだぜ。何たってそいつは、悪魔だからな」
「……悪魔?」
聞き返したウェアルドに答えたのは犀人ではなく、周りの人々だった。
「そうだ! 俺は見たことがある、そいつが悪魔の姿になった所を!」
「そいつがいる場所には不幸が訪れるんだってよ。そいつが暮らしてた孤児院も、そいつのせいでUDBに襲われたらしいぜ」
「そもそも、そいつはUDB共と仲間らしいぞ。結託してこの街を破壊しようとしてるって噂だ」
住民からの罵声の嵐。それを聞きながら倒れた少年を眺め、ジンは溜め息をつく。ここまで気分が悪くなったのは久しぶりだった。
本気で住民たちを縛り上げてやろうかと考えた所で――彼は、背筋に冷たいものを感じ取った。
「だから、さっさと殺しておくべきだって前から言っていたのよ! どうせロクな事をしないんだから!」
「だよな。大人しくしてりゃ見逃してやったけど、俺たちに害が出るならそうもいかない」
エスカレートしていく罵詈雑言に、ジンは怒りより先に危惧を覚える。これは、流石にまずいかも知れない。そう考えるのが、少しばかり遅かった。
「分かったか? そいつには生きている価値が無いんだよ。何たって、存在自体が害悪――」
「それ以上口を開くな、この下郎どもがッ!!」
赤狼の怒号に、大気が震えた。
「!?」
「…………ッ」
彼らを取り囲んでい人々が、次々と膝をついていく。犀人の男も、どさりと情けなく尻餅をついた。
まともに立っていたのはジンだけだったが、彼もまた無意識に後ろへ下がっていた。
「悪魔だと? 害悪だと? ならば、貴様たちは何だ? 一人の少年を集団で痛め付けるような自分たちを、善良な国民であるとでも思っているのか!? 笑わせるな!!」
「ひ……!?」
「何が……何が悪魔だ! 貴様たちの行いこそ、悪魔の所業だろうが!!」
完全に激昂したウェアルドには、普段の穏やかさなど微塵も無い。そこから感じられるものは、生物の本能として感じ取れる、圧倒的なまでの格の違い。
「……な、何なんだ、あんたは……?」
犀人の男は震えている。だが、彼を臆病と言うことはできない。今のウェアルドには、ジンですら恐怖を感じるほどなのだから。
先ほど、ウェアルドは何も特別な事はしていない。あれは、ただの気迫だ。ただし、常人であれば立っていられないほどの、絶対的な威圧感を持った。
(――覇王の風格、と言うべきでしょうか)
ジンは内心で舌を巻く。まさか自分までこうも容易く気圧されてしまうとは、と。
ずっとウェアルドに仕えてきたジンにとって、彼の憤怒を見たことは初めてではない。だが、普段の穏やかな人柄のせいで、彼への畏敬を忘れつつあったのは事実だ。
文字通り、格が違う。これが最強の英雄と呼ばれた男なのだと、ジンは自らのマスターに対する再認識を余儀なくされた。
「……俺はこの少年について、詳しいことは全く知らない。悪魔と呼ばれるのにも理由があるのかもしれない。だが、相手が何であろうとも、目の前で起こる迫害を見過ごすことはできない」
怯える住民の姿を見てか、口調は少しだけ柔らかいものに戻す。もっとも、そこから滲み出る怒りまでは隠せていないが。
「だ、だが……そいつがうちの商品を盗もうとしたのは、事実だ……!」
たどたどしくも、犀人が正当性を主張する。言い返せるだけ、胆力があるとも言えるだろう。ウェアルドは彼の言葉に、地面に転がる売り物を見やる。
「いくらだ?」
「…………え?」
「こいつが盗ろうとした商品、合わせていくらだと聞いている」
唐突な質問に、男の返答には少し時間がかかった。
「……ご、五百ルーツだ」
「そうか」
答えを聞くと、ウェアルドは上着のポケットを探る。そこから何かを取り出すと、男に向かって差し出した。訝しげな表情の犀人は、それが何かに気付き、目を丸くする。
「五万ある。詫びも含めて、百倍あれば足りるか?」
「…………!!」
唖然とする店主を尻目に、ウェアルドは地面の果物を拾い、続けて少年を抱えあげる。犀人が何も言い返さないのを確認してから、人々に背を向けた。
「こいつは俺が保護する。今後、貴様たちに迷惑をかけることも無いだろう。連れて帰っても文句は無いな?」
「な……」
「ジン、行くぞ」
「ええ、了解しました」
二人は住民の返事など待たず、人の間を縫って歩き始める。誰もが何も言えずにいる中、店主が慌ててその背中に向かって叫んだ。
「ま、待て! どうして、そんな奴のためにそこまでする!?」
「……偽善であろうとも、自己満足であろうとも、放っておけないものもある。それだけだ」
放心した一同を一瞥すると、少年を抱えたウェアルド達はその場を後にした。