提案
「お前は本当にタイミングが絶妙だな、慎吾。外で機会を伺っていたんじゃないか?」
「ふ。俺はまぎれもなく今ここに着いたばかりさ。入るタイミングを伺うくらいなら、仕事を終わらせてから来ている」
入ってきたのは、人間の青年。少し癖のある髪は明るめの茶色。眼光は鋭く、顔立ちは端正。その佇まいからは、どことなく知的な雰囲気を感じる。年は、俺より少し上といったところだろうか。本人の言うとおりに仕事を途中で切り上げて来たのか、スーツ姿だ。
この青年が、優樹の言っていた『手』なのか? 見たところ、普通の青年だが。……などと考えていると。
「やっぱり……」
「父さん!」
「……何?」
ほぼ同時に声を上げたのは、瑠奈と暁斗。俺はその言葉に、二人と青年の顔を見比べた。……どことなく瑠奈に似ている、ような気もするが、まさか。
「ふむ。君が、話にあった謎の男か」
「あなたは……」
「俺は綾瀬 慎吾。そこにいる暁斗と瑠奈の父で、教師をやっている」
聞き間違いではなかったらしい。二人の父? どう見ても、そんな年齢には見えない。兄と言われたほうがしっくり来るぐらいだ。
「驚いているな。見慣れたリアクションだが」
「も、申し訳ない。あなたが、あまりに若く見えたので」
「まあ、若いと言われて悪い気はしないがな」
くく、と笑ってから、彼は俺の観察を始める。不敵な笑みを崩さないその姿から、何となく傑物の雰囲気を感じ取れる。
「優樹、彼の状態は?」
「残念ながら、悪い予感が当たった。記憶喪失の症状が出ている」
「そうか」
あらかたは、優樹から話を聞いていたのだろう。事情を細かく説明する必要はなさそうだ。
「大変な事になったな。無責任な言い方かもしれないが、あまり気を落とすなよ」
「ああ……」
俺の中でも、少しずつ整理がついてきた。まだ、この現実を受け入れたくないと考えている部分があるのは、否定出来ないが。
「だが、名前を覚えていると言う事は、少しは残っている記憶もあるようだな」
「ああ。名前や年齢程度と……幼少期の事だけだが」
「幼少期、か」
俺が孤児だった事。そして、当時にどんな暮らしをしていたか。朧気ではあるが、それは思い出す事ができている。……だが。
「つまり、今の自分が何者かを思い出すことはできないのか」
「………………」
彼の言う通りだった。覚えている事があると言えば、そこまで悪くない状況に聞こえるが、現在の俺に通じる記憶は、少しも残っていなかった。先ほど、海翔に言われた通りだ。
「では、これからどうすれば良いかは分からないし、当ても全く無いということだな」
「父さん、そんな言い方は……」
「いや、いい。はっきり言ってもらったほうが楽だ」
ストレートな指摘にショックを受けないと言えば嘘になるが、変に気を遣われるよりはマシだ。そもそも、逃避している場合ではない。
「あなたの言う通り、当ても何もない。これからどうすればいいか、全く検討もつかない状態だ」
記憶を求めるにしても、手がかりは無い。それ以前に、明日を生きる術すら失ってしまっている。
「済まないな、意地の悪いことを言って。まずは現状をはっきりさせておきたかったのでな」
「いや……」
「心配するな。君のこれからをどうにかするために俺が来た」
どうにか、か。確かに優樹は、俺のために彼を呼んだらしいが。
「残念ながら、元々の君と言う男を知らない以上、記憶を戻す手助けにはならないだろうがな。明日の暮らしの手伝いは出来る」
「どういう意味だろうか?」
「なに、俺はこう見えて人脈が広くてね。君の記憶が戻るまでの住む場所や仕事を提供しようと考えているんだ」
「…………!」
その言葉で、俺は優樹の言っていた意味を理解する。俺の反応を見てか、慎吾は小さく笑い声をもらした。
「もちろん、君の意志を尊重するつもりではあるがな。記憶の手がかりを探すにしても、生活の場や金は必要だろう?」
「そんな、そこまで迷惑をかける気は……」
「迷惑? そんな事はない。むしろ……いや、何でもない」
……今の妙な含みは何だろうか。
「第一、迷惑などと気にしている場合か。君だって、このままでは生きていくのもままならないのは、分かっているだろう?」
「確かに、その通りだが」
慎吾の物言いはやはり直球で、俺は反論に詰まってしまう。俺だって、自分が何者かすら分からないままに、野垂れ死になどしたくはない。
「仕事の話は、後ほどでいいだろう。先に、住む場所について話しておきたい」
半ば強引に話を進める慎吾。俺はその勢いに流されるまま、彼の提案を聞くことになった。
「君には、とある家に居候してもらおうと考えている」
「居候、だと?」
困惑を込めて聞き返すと、慎吾はどこか俺の反応を楽しむように、平然と頷く。
「一人暮らしの家を手配することも可能ではあるが、君の状態を考えると、それだと色々と不便だろうからな。頼れる誰かが近くにいた方がいいだろう?」
「だが、その家庭に負担がかかってしまうだろう」
一人増えればそれだけ金もかかる。それに、見ず知らずの男が割り込んでしまえば、家庭の調和が崩れてしまう。そんなことをする気にはなれない。
「なに、金銭的な面はどうにかなる。それに、君にそれを気にする余裕などあるのか?」
「……余裕は無いが、だからと言って他者の生活に、無理やり割り込むような真似はしたくない。そもそも、俺のような存在を受け入れてくれる場所など、そうそう見付かるはずがない」
記憶喪失の、得体の知れない男など、誰が好き好んで受け入れたがるだろうか。と、事実を言ったつもりだったのだが、慎吾の中ではどうやらそうではなかったようだ。
「そのぐらい、いくらでもあるさ」
「簡単に言うが、どこに?」
「例えば俺の家だ。と言うか、うちに来い」
…………?
………………。
………………何だと?
「うちならば経済的な問題も無ければ、君の事情もこうして把握している。過ごしにくいこともないと思うがな」
「な……に?」
あまりに簡単に言われたので、理解するのに時間がかかった。理解した後は聞き間違いかと思ったが、そうではないようだ。
「父さん……始めからそのつもりだっただろ?」
「まあな。実は楓にも、それを見越して先に連絡してある」
「じゃあ、回りくどい言い方しないで、最初からそう言えばいいのにさ」
「ち、ちょっと待ってくれ……!」
俺はある意味で、記憶喪失が発覚した以上に混乱していた。
第一、瑠奈や暁斗は、どうして平然と受け入れているんだ。まるで、俺が慌てているのがおかしいかのような空気だった。
「そう困惑することでもあるまい。わざわざ赤の他人に任せるぐらいならば、こうすることが最善というだけだ」
「最善と言うならば、俺など放っておけば……」
「誤解するな、俺達と、君にとっての最善だ」
何が最善だ? 俺を家に入れることが? どこが、彼らにとって良いことがある?
「ああ、先に言っておくが、返事はイエスかオーケーで頼むぞ」
……どちらも一緒じゃないか。俺の意志を尊重すると言っていたのは、気のせいだろうか。
「どうしても嫌、と言うならば、仕方ないが一人暮らし出来る環境を作ってやる。だが、俺としては勧めはしないぞ」
「………………」
「それとも君は、全ての提案を断り、俺に薄情者のレッテルを貼る気では無いだろうな? 勘弁してくれ。記憶喪失の男をただ一人で送り出すなど、そんなことをすれば目覚めが悪くなる」
「……ぐ。し、しかし……」
短時間の会話で、俺の性格をよく捉えているようだ。的確に、俺が反論できない言い方をしてくる。
「そうだな、精神的に迷惑だと言い換えておこうか。君は迷惑をかけるのは嫌いなのだろう?」
「何だ、それは……」
滅茶苦茶だ。
俺は今、間違いなく脅迫されている。だが、その脅迫を受け入れれば、得をするのは俺のほうなのだ。
それでも俺は、首を横に振った。
「あなたの申し出は、有り難いものなのだろう。しかし、俺は……早く、記憶を取り戻さなければならない」
「ほう?」
「ほぼ全てを忘れているが、俺は、何かをしなければならなかったのは覚えているんだ。ここで定職につき、記憶が戻るまで待っていることなど、できない」
瑠奈は言った、俺はどこかから空間を超えて現れたのだと。その話を聞いてから、胸の中でくすぶり始めた、何とも言えない焦燥感。
俺には、何かの目的があった。それも、急いで叶えなければならないような……そんな何かが、あったということだけは分かるんだ。
そもそも、そんな俺が真っ当な存在であるはずがない。ここにいては、彼らまで何かに巻き込んでしまうかもしれない。
「ならばここを離れると? 手がかりも無しにか?」
「確かに手がかりはないが、それでもだ。世界のどこかには、俺の記憶に関わるものがあるだろう。ならば、当てのない旅であろうと、それを探しに……」
「君のそれは、ただの無鉄砲だ」
だが、そんな俺の思いを、慎吾はあっさりと切り捨てた。
「焦れば記憶は戻るとでも? 交通費程度ならば工面してやるが、世界のどこに記憶の手がかりがある? それは、ここで優樹の治療を受けて記憶を戻すよりも早く見つかるのか? ひとりでがむしゃらに動き回るのと、俺達が手がかりを探すのに協力するのと、どちらが確実だ?」
「…………!」
「記憶を無くしても思いだけは残っている、か。さぞや大切な目的だったのだろう。ならば君は、それを叶えるために最善を尽くす必要があるんじゃないのか? 俺達を利用してでもだ」
はっきりと指摘され、俺は何も言えなくなった。何もかもが正論だった。彼は恐ろしく頭の回転が早く、そして本当に的確だ。的確な、俺のための言葉だ。
「急いで結論を出すものではない。ただでさえ今は混乱しているだろう? 急がば回れ、君に必要なのは落ち着くための時間と環境だ」
「……何故だ」
「うん?」
「何故、俺をこうも気遣ってくれる。俺はどこの誰かも分からない、赤の他人だぞ」
本気で、分からなかった。俺を助けても、彼らには何の得もないどころか、不利益を被る可能性が高い。どうして、ここまでの手助けをしてくれるんだ。感謝はあるが、それより先に疑問が先立った。
「……そんなに難しく考えることかな?」
「何……?」
その質問に答えたのは、慎吾ではなくて瑠奈だった。
「ねえ、ガル。ガルは今、困ってるんでしょう?」
「あ、ああ。困っているのは確かだが」
「だから、だよ。ガルが困ってるから助ける。それだけの事じゃないのかな?」
……俺が、困っているから、助けるだけ?
「私は思うんだけど、困ってる人に優しくするのは当たり前じゃないかな」
「……当たり前?」
「うん。自分だって、困った時には誰かに助けられてる。だから、誰かが助けを必要としてるなら、自分のできる事をしてあげなきゃいけないって思ってる」
「………………」
困っている人に優しくするのは、当たり前……。
「なんて、偉そうに言っても、私はガルに大したことしてないけどね。ただ、私はこう思うってだけ」
「……瑠奈は、俺が共に暮らすと言う提案に、何も思わないのか?」
「ん? そうだね……驚かなかったって言ったら嘘になるけど、やっぱり、とも思ったかな。父さんって、そういう人だし」
「嫌ではないのか? 余所者が家庭に割り込む事が」
「別にそんなの思わないよ。前にホームステイの子が来た事あるんだけど、そんな感覚かな? 私はむしろ楽しみかも。暁斗は?」
「俺は賑やかなほうが好きだしな。そりゃ、最初はちょっと違和感もあるかもしれねえけど、嫌なんかじゃねえぞ」
二人の口調や表情から、嫌悪のようなものは感じられなかった。本気で、出逢ったばかりの俺を受け入れようとしている。
「ガルの気持ちも分かるよ。状況が飲み込めないのも、遠慮しちゃうのも。けど、もし遠慮だけで断ろうって思うんなら、こんな時に遠慮なんかしなくて良いんだよ」
「……俺は」
「まあ、ガルのほうが嫌だって言うなら、無理強いは出来ないんだけどね。ただ、ガルが構わないのなら、私はあなたを歓迎するよ」
「あ、俺も一緒だぜ」
兄妹はそう言って、俺の顔を見て笑った。
「ついでに言っておくが、これは私も賛成している事だ」
先ほどから黙っていた優樹が、そう言葉を発した。
「一人でいるよりも、他者と接していたほうが、記憶への刺激にもなるだろう。当然、私だって君を放置するつもりは無かったからな」
「………………」
優樹の言葉を聞きながら、俺は先ほど瑠奈が言ったことを考えていた。
困っている人に優しくするのは当たり前。彼女は俺にそう言った。……どこまでも綺麗で、理想論的な言葉だと思う。甘ったれているとすら、感じる。もしもそれが当たり前だとすれば、俺に残っているこの孤児としての記憶は。
彼女達の名前からして、ここはエルリアだろう。世界でも有数の治安を誇る、平和の代名詞のような国。なるほど、大した不幸を知らなければ、そんな夢のような考えも持てるのだろう。
それでも……彼女は、いや、この人達は、彼女が言う当たり前を実践している。俺という異物を、受け入れようとしてくれている。それが俺には信じられなくて……それでもどこかで、懐かしいと感じた。馬鹿らしいとまで思えるのに、それを否定しきれていないのが自分でも分かる。
あったのだろうか。俺の、失われた記憶の中に。こうして、無償の優しさを受け取ったことが。
どうするべきだ、俺は。この善意を、俺は受け取ってもいいのか。内心でこうして、嘲笑いすらしている俺が。
「俺の存在は……あなた達にどんな迷惑をかけるか分からない」
「先の事など、気にするものではない。自分のせいで何が起こるか分からないのは、誰だって一緒だろう。大事なのは、君の意志だ」
俺の、意志……か。
「俺は、記憶を取り戻したい。例えそれが、どんなに悲惨なものであったとしてもだ」
「そうか。ならば、そのために最善の道が何なのか、君ならば分かるな?」
最善の道。全てを無くした今の俺が、記憶を取り戻すための方法。頭では、もう分かっていた。ただ、やはりためらいはまだある。
「ガル」
瑠奈がそっと、俺に向かって手を差し出してきた。俺は目を閉じて、もう一度だけ考えた。……だが、考えたところで結論は一緒だった。だから、俺は。
「……分かった。……よろしく、頼む、みんな……」
彼女の手を、そっと握り返していた。その瞬間、病室に賑やかな笑いが満ち……俺は、その賑やかさをとても心地よいと思えた。