銀の孤狼
――暗い。
深い闇に覆われて、何も見えない。辺り一面、全てが黒く染まっている。
ここは、どこだ?
なぜ、俺はここにいる?
俺は、いったい。俺は……誰だ?
駄目だ、頭が痛い。意識が、はっきりしない。
「……ル……ア……」
声が、聞こえる。
この声は……俺を、呼んでいるのか?
「……が……を……事は……ない。……が、俺には……お前を……事など……ない」
何だ。何を言っている? 聞き取れない。
だが、俺はこの声を知っている。聞き慣れた……とても慣れ親しんだ声だと分かる。
「詳細な……は……が、しばらくは……せる……だ」
その声は、淡々としているがどこか哀しげな響きを帯びていた。何故だか分からないが、俺もとても哀しい気分になる。
「ここでお前を……した事、いつか……するのかもしれない。それでも今の俺には……の為にお前を……など、考えられないんだ」
次第に、意識がはっきりとしてくる。まとわりつく闇が、晴れてくる。俺は……俺は。
「生きろ、ガル。例え俺を忘れようが、俺の敵になろうが……な」
声の聞こえた方向に手を伸ばした瞬間――辺りが、明るい光に包まれていった。
目を開くと、先ほどとは逆に、辺りは白く染まっていた。それが天井と壁であると認識するのには、少し時間がかかった。
どうやら俺はベッドに寝かされていたらしい。清潔感のあるベッドは、再びまどろんでしまいそうな程に心地良い。
ここは、どこだろう。
今のは、夢だったのか?
「……くっ」
頭痛がする。まだ頭がはっきりしない。それに、何だか全身が重い。何があったんだ。俺はいったい、どうしてここに寝かされている。
「気がついたのか?」
不意に聞こえた声に、俺は視線をそちらを向けた。そこにいたのは、虎人の男性だった。
「あなたは……」
「私は橘 優樹。ここで働く医者だ」
優樹と名乗った男性は、軽く頭を下げてきた。白い毛並みの上に白衣を着ているため、虎特有の縞模様が目立って見える。
俺は上体を起こしてみるが、激しい目眩がして思わず呻く。
「ぐう……」
「無理をするな。大した傷はなかったが、意識が戻った直後なのだからな。痛むところなどはないか?」
「……ああ。身体は、疲労感があるぐらいだ。まだ頭はぼんやりとしているが。俺は、どうしてここに?」
「息子の友人が、倒れていた君を見つけたらしくてな。そのままこの病院に担ぎ込んでもらったんだ」
倒れていた? くそ、思考が上手く回らない。何があったんだった? 優樹は、そんな俺の様子を眺めている。聞く限り、彼からしてみれば俺は不審な人物であるのだから当然だろうが。
「……目覚めたばかりに悪いのだが、確かめたい事がある」
「何だ?」
「君はどこから来た? 名前や出身、身分や職業、その他、自分の事が……どこまで分かる?」
「それは…………っ!?」
俺はその質問に順番に答えようとして――頭の中が真っ白になった。
名前。出身。身分。職業。それは、俺自身ならば簡単に分かるはずの情報。それなのに、俺は口を開いたところでその動きを止めてしまった。返答をする事が、できなかった。
優樹は俺の答えが返ってこない事を確認すると、表情を険しくした。
「やはり、予想通りか……」
「お……俺は」
俺の混乱を見透かすような優樹の視線。彼は、深い溜め息をついた。
「私の質問の答えが……思い出せないんだな?」
何も分からない。何も覚えていない。何も、思い出せない。
俺の中にあるはずのものが……記憶の一切が、失われていた。
「く、うっ……!」
激しい頭痛に襲われ、思考が更にかき乱される。分からない……俺は、何者だ。必死になって、考える。だが、それは余計に頭痛を悪化させるだけでしかなかった。
「何故だ……どうして、何も分からない! 俺は、いったい……!?」
「落ち着くんだ。息をゆっくりと吸い込め」
「うっ……くそ。俺、は」
「一度だけ目を閉じて、少しずつ開け。そして、自分がここにいる事を意識するんだ」
「………………」
かろうじて頭に届いた言葉に従って、呼吸を整える。優樹の手が、俺の胸の辺りに触れる。誰かが触れてくれているという感覚が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
そのまま、数回に分けて深呼吸する。少しずつ、頭痛が収まっていく。……まともな思考力も、徐々に戻ってくる。俺の様子が落ち着いたのを見て、優樹が俺から離れていく。
「すまない、酷なことを聞いてしまったな」
「いや……俺こそ取り乱してしまい、すまなかった。だが、あなたの問いには、どうやら答えられそうにない。信じてもらえるかは、分からないが……何ひとつ、思い出せないんだ」
「いや、その可能性を考慮していたからこその質問だ。信じるさ」
内心では、到底落ち着けるはずもない。思考を回転させようとすると、頭痛がまた悪化する。……まずは、現状を整理しなければ。
「あなたは、俺の記憶が無くなっていることを予想していたのか?」
「確証はなかったが、最悪の場合はそうだろうと考えていた。と言うのも、君が眠っている間に精密検査をしてみたのだが、脳に負荷がかかっているのが分かったんだ」
「脳に負荷?」
「外傷はそこまで重いものではなかったので、気を失っていたのもそのせいだろう。原因までは不明だが、頭部を強く打ち付けた状態にも似ていてな。とにかく、何らかの精神的な障害が出ている事を危惧していたんだ」
脳への負荷による精神的な障害……そして、俺は記憶を失っていた、と言うことか。自分の状態は理解したが、理解できたのはそれだけだ。
「自分のことが何一つ分からないとは、な。おかしな感覚だ」
受け入れたくはないが、受け入れざるを得ない状況。夢であれば覚めて欲しかったが、冷静になれた今、それが叶わぬ願望である事も理解してしまっていた。
「気休めのように聞こえるかもしれないが……一口に記憶喪失と言っても、症状の重さには違いがある。一日だけを忘れる事もあれば、全てを忘れるケースもある。しかし、総じて言えるのは、完全に忘れてしまうなど滅多に起こらないということだ。時間やきっかけがあれば、記憶が戻る望みは十分にある」
「俺は、どのケースなんだ?」
「さすがにそこまでは分からない。今は目覚めたばかりで、思考が混乱している部分もあるだろうからな。ひとまず、落ち着くまで安静にしておくといい。そんな気分にはならないかもしれないが、焦ってもどうしようもないからな」
「………………」
もやがかかったように、過去の事が分からない。そんな中、ふと、病室の片隅にかけられた黒いコートが目に入った。……それに対して俺は、見覚えがある、と感じた。
「そのコートは、俺のものか」
「うん? ああ、そうだ。取ろうか?」
「……頼む」
俺はコートを受け取ると、半ば本能的に胸ポケットに手を入れ、その中にあったものを取り出した。
「それは?」
何かに導かれるように手にしたそれは、翼を象ったペンダントだった。ただし、チェーンの部分が引きちぎれて、無惨な状態になっていたが。
これを持っているのに気付いたのは、記憶の残滓のためだろうか。それを見つめていると、何だか心が静まっていくのを感じた。
(――生きろ、ガル)
頭の中に浮かんできたのは、先ほどの夢。……ああ、そうだ。俺は。
「ガルフレア・クロスフィール……」
「何だって?」
「それが、俺の名だ。ああ、そうだ。俺は確かに、そう呼ばれていた。ガルフレア……ガル、と」
あの夢は、恐らく俺の記憶の一部。相手が誰なのかを思い出す事は出来ないが。……名前が浮かんできた途端に、ほんの少しだけ、もやが晴れた気がした。ならばと、思考を巡らせてみる。
「……どうやら、完全に全てを忘れたわけではなさそうだ。僅かにだが、思い出せることがある」
名前がきっかけになったのか、少しずつ浮かんでくるものがある。それは俺にとって、本当に救いだった。何もかもが綺麗に無くなったわけではないのだと、希望を持つことができた。
とは言え、欠けている部分が圧倒的に多い。僅かに残ったものも、はっきりとした情景を思い浮かべる事は出来ない。名前を思い出せたのは、不幸中の幸いなのだろう。
「そうか、それは何よりだ。断片的にでも思い出せるならば、何も思い出せないのとは大きな違いだ。その記憶が呼び水となって、別の事を思い出していける可能性もあるからな」
優樹は安堵したように険しかった表情を崩した。本気で案じてくれていたようで、彼の人柄の良さを理解した。医者だからこそかもしれないがな。
「俺は、記憶を取り戻す事が可能なのか?」
「それは、私にもはっきりとは言えない。だが、君の場合、記憶喪失の原因は、先程も言った通りに脳へのダメージだ。それさえ回復すれば、全て思い出せる見込みは十分にある」
優樹の言葉に、少しだけ気が楽になった。無論、当面の問題が解決した訳ではないが。
俺はペンダントを再びポケットにしまう。これは、大切にせねばならない。何故だか、そんな気がした。
「ひとまず、他に覚えている事を整理してみよう。何か手掛かりが見付かるかもしれないからな」
「分かった……ん?」
部屋に響いたノック音に、俺と優樹は同時にドアの方を向いた。
「誰だ?」
「私達です、優樹おじさん。入っても大丈夫ですか?」
「瑠奈さんか。構わない、ちょうど彼も目覚めたところだ」
優樹の許可が出ると、ゆっくりと病室の扉が開かれた。続けて、数名の子供達が入ってくる。先頭で入ってきた人間の少女が、俺の姿を見て笑顔を浮かべた。
「気が付いたんですね、良かった。全然目を覚まさないから、心配してたんですよ?」
「君は……?」
「君は彼女に感謝しなければいけないぞ、ガルフレア。君を見つけたのは、彼女だからな」
そう言えば、彼の息子の友人が俺を見つけた、と言っていたな。子供達の中には優樹に似た虎人もいるので、彼が優樹の息子だろう。
「それならば、君は俺の恩人だな。ありがとう」
「いえ、大した事はしてませんよ。私はただ、あなたが……現れた所に出くわしただけですから」
現れた? 少しひっかかる言い方だ。俺は、気を失って倒れていたのではないのか。そもそも、どうして気絶して倒れるような目に遭っていたのだろうか。……疑問はいくらでも浮かんでくる。ひとまず、目の前の少女に意識を戻した。
「あ、私は綾瀬 瑠奈って言います。よろしくお願いしますね」
瑠奈と名乗った少女は、優しい微笑みを浮かべつつ頭を下げる。明るく礼儀正しい少女、というのが第一印象だ。
「俺はガルフレア・クロスフィールだ。ガル、と呼んでくれればいい……それから、敬語でなくてもいい。あまり畏まられるのは、好きではないのでな」
何となくだが、他者から敬語を使われることに忌避感があったので、そう付け加える。この感情も、無くなった記憶のせいだろうか。
「そうですか? ……うん、分かったよ。なら、普通に喋るね、ガル。こんな感じでいいかな?」
「ああ。……すまないな、変な要求をして」
「ううん、私も敬語ってあまり得意じゃないし。あはは、なんて言ったら先生に怒られちゃいそうだけどさ」
冗談めかして笑う瑠奈は、かなり社交的な性格をしているようだ。俺のような怪しい男に、いきなりこのように振る舞えるのだからな。いささか、警戒が足りないとも思うが。
「ここで出逢ったのも何かの縁、と言うやつだ。全員、自己紹介しておけ。その方が、ガルフレアの刺激にもなりそうだ」
優樹の言葉に思い思いの返事を返しつつ、今度は少年達が俺の周りに集まる。
「オレは橘 浩輝。分かると思うけど、そこの優樹先生の息子ってやつだ」
「で、俺は如月 海翔。いろいろと良く分かんねえ状況だけど、よろしく頼むぜ」
「おれは時村 蓮です。……と、敬語は駄目、なんだったな」
「綾瀬 暁斗。そこの瑠奈とは兄妹だ。何はともあれ、大丈夫そうで良かったよ」
順番に名乗る少年達は、割と好意的な口調だった。もちろん少しは警戒もあるのだろうが、優樹から促された、つまり彼から危険視されていないのが大きそうだ。
それにしても、白虎の少年……浩輝と優樹が親子なのはともかく、黒狼人である暁斗と瑠奈も兄妹なのか。異種族の兄弟はさほど珍しいこともないが、見た目では分からないな。
「えっと、それで……ガル? あんた、なんでいきなり現れたりしたんだ?」
「……すまない。現れた、とはどういうことだ?」
「え? どういうこと、って……」
問われたところで分からずに聞き返すと、浩輝は困ったように瑠奈を見た。瑠奈も少し戸惑いながら話し始める。
「えっと、言葉通りっていうかな。あなたは、何もない場所からいきなり現れたの」
「……何だと?」
「あれは多分、空間系のPS……転移とかそういう能力だと思う。あんなのは初めて見たから、はっきりとは言えないけどね」
「空間、転移? ……う……」
その言葉が引っかかると同時に、また頭が痛くなった。思わず呻いて頭を抱えた俺に、周囲の子供達が慌てる。
「だ、大丈夫か?」
「ああ……済まない、何かを思い出そうとすると、頭痛がするようだ」
「思い出そうと、って? 知らねえとかじゃなくてか?」
「……自分の事が、ほとんど思い出せないんだ。記憶喪失、ということになるのだろう」
「え……!」
さすがに予想外だったのか、子供達が目を丸くする。記憶喪失。自分自身でその言葉を発した後、言いようのない孤独感が湧き上がってくる。自分が世界に独りで取り残されているような、そんな感覚……途方に暮れる、とはまさしく今の心境を言うのだろう。
「ま、マジで言ってるのかよ。冗談だろ?」
「残念ながら本当だよ、暁斗くん。今はちょうど、彼が覚えていることを整理しようとしていたところだった」
医者である優樹にそう言われてしまえば、俺が嘘を言っているわけではないと認めざるを得ないようだ。少しだけ間を置いて、暁斗は俺に頭を下げた。
「……悪い、疑ってるみたいな言い方しちまったな。その、ちょっと話がでかすぎて、素直には飲み込めないって言うか」
「いや、気にするな。むしろ、疑わない方がおかしいだろう」
俺のように不審な相手の言うことを信じさせるのだから、優樹は子供達から相当に信頼されているのが分かった。そもそも優樹が俺をもう少し疑っても良い気はしたが、彼は医者としての知識と検査結果から判断しているのだろう。
「では、ガルフレア。辛いかもしれないが、覚えている事を教えてもらっていいか?」
「ああ……だが、本当に少しだけだ」
俺は、俺の中に残された、朧気な記憶をかき集めていく。浮かんできたものを、ひとまず口に出して整理していく。
「名前の他には……年は確か、21になる。生まれは……分からない。だが、幼い頃は……路上で暮らしていたようだ。親は……思い出せないが、いなかったように思える」
「孤児、と言うことか」
「……恐らくは」
その情景がぼんやりとしすぎて、自分の事だと言う理解は出来ても、実感があまりにも湧かない。色褪せた写真を見るようで、記憶と俺が全く結び付かない。
「何年か独りで生き延び……どうやら、孤児院に拾われたみたいだな……そこで、同じ境遇の子供達と過ごし……それから……う……」
思考を集中させていると、再び激しい頭痛が襲いかかってきた。
「大丈夫、ガル?」
「……ああ。どうやら、今はこれ以上思い出せないようだ」
たったこれしき記憶を辿っただけで、頭が酷く痛んで治まらない。くそ、これでは覚えていることの整理すら、ままならないではないか。
「本当に少しだけだな。どこの誰かも分からねえじゃねえか」
「………………」
「あ……す、すまねえ! さすがに無神経だった」
「いや……事実だ。そして、そんな得体の知れない男に、好き好んで接しようとは思わないだろう」
「いや、その……わりぃ」
突き付けられた現実にどうしても沈んでいるのは自分でも分かる。それに対して、真剣に反省している様子の海翔には悪いが、空元気を出す気力もない。
「その、例えば、空間転移は自分の力だったりしないのか?」
「……いや。何か引っかかるものはあるが、少なくとも、俺の力では無い……はずだ」
俺の曖昧な言い方に一同が少し訝しげになり、少しして、その意味が伝わったらしい。
「まさか、PSも使えなくなってるのか?」
「……そのようだ。使おうにも、どのような力かすら覚えていないからな。ただ、空間転移とは違う。それは、何となく分かる」
「PSが使えないなんて事あるのか、親父?」
「知っての通り、PSはその人物の精神と結び付いたものだ。精神に異常が出れば、そちらに影響が出ても不思議ではない。何より、スキルネームが思い出せなければ発動のさせようも無いだろう」
「あ、そうか……」
PSの発動には、その力を示す具体的な形が……名前が必要だ。その名前まで失っている以上、自分の力であっても使うことすらできない。本当に、何もかもが残されていない。そんな内心が表情に出ていたか、優樹が言う。
「まだ目覚めたばかり、時間が経てば改善するかもしれない。だから、そう不安がるな。と言っても、気休めにもならないだろうな」
悪いが、そう楽観視するのは無理だ。自分の事なのに何も分からない。それがどれほど耐え難い状態なのか、俺は身をもって体験している。
「身体の傷とは勝手が違うからな。手は尽くさせてもらうが……すぐに記憶を返してやる、というわけにはいかない。力になれず、申し訳ないが」
「そんな事……あなた達には感謝している。こうして、得体の知れない俺を助けてくれたのだから」
気味悪がって放置されても不思議ではなかったのに、こうして助けられ、記憶を無くしたことを信じてももらえた。見付けてくれたのが瑠奈であったことは、得難い幸運だったのだろう。
「さすがに、君をこのまま放り出すつもりなどはない。これからのことについては、心配しなくても手は打たせてもらった」
「…………?」
手は打ってあるだと? どういう意味だ。
「どうするつもりなんですか、優樹おじさん?」
「正直に言えば、私一人の手には余る事態なのでな。こういう時に適任の奴を呼んだ」
「それって……」
「そろそろ来るはずだ。あいつはいつも狙いすましたようなタイミングで現れるからな」
誰かを呼んでいるらしいが、いったいどんな人物を? 今の状況に適任とは……などと考えていた時。本当に狙いすましたように、病室の扉が開かれた。