出逢い
10月5日。今日もまた、清々しくなる晴天だ。
今日は、私達一家にとっては少しだけ特別な日。とは言っても、朝の風景は変わらない。
「お兄ちゃん、入るよ?」
私は兄の部屋のドアをノックする。返事はない。けど、それは予想してたことなので、かまわず中に入る。
暁斗の部屋は、いかにも男子高校生って感じの部屋だ。
それなりに片付いてはいるけど、隅っこのほうには雑誌が適当に重ねられていて、二つある本棚のうち一つは、音楽CDやらDVDやらゲームやらが埋め尽くしてる。
昨日はよほど疲れてたんだろう、鞄も床に投げ捨てられている。
そんな中、ベッドの上の暁斗は、幸せそうな寝息をたてていた。
「お兄ちゃん、もう時間だよ? 遅刻しちゃうよ?」
「……うーん……」
「お兄ちゃんったら」
「むにゃ……スー、スー」
駄目だ、完全に爆睡してる。私はとりあえず、少しずつ起こす声を大きくしてみる。
「暁斗、起きてってば!」
体も揺さぶってみるけど、微動だにしない。
暁斗も普段は寝起きが悪いわけではないんだけど、部活に熱を入れすぎた次の日には、こんな感じに疲労から爆睡し、テコでも起きなくなってしまうんだ。
「見事に無反応だね。なら……」
仕方なく……もとい、仕方なさそうな態度を装ってみつつ、私は手に持っていた一本の小ビンを開ける。暁斗はと言うと、自分に迫る危機には気付かないまま、今だに深い夢の世界。
「ラストチャンスだよ。暁斗、起きて」
布団越しに叩いてみる。でも無反応。
さすがにここまで来ると、ちょっとイラついてくる。てなわけで、私は彼の口を無理矢理開いて――
「いい加減……起きなさい!」
――ビンの中身を一気に流し込んだ。
「ふぐ!?」
いきなり口の中に何かを突っ込まれた驚きで、そんな声を漏らして暁斗は目を見開いた。だけど、意識が覚醒していくにつれて、その表情が苦悶にシフトしていった。
「んぐっ、が!! うぐおあああぁぁーーー!?」
朝の我が家に響き渡る、兄の絶叫。
ビンの効果は抜群で、暁斗は文字通りにベッドから飛び起きる。見事にパニックになりながらも、私の姿を見付けると誰が犯人か察したみたいで、涙目になりながら私を睨みつける。
「ゴホっ、る、瑠奈、て、てめ、え……ゲホっ、ゴホっ!」
「おはよう、暁斗!」
「お、はよう、じゃ、ねえ、だろ! ゴホっ……み、水!!」
私が彼の口に流し込んだのは……お父さんが興味本位で買ってきた激辛ソース。さすがに量は控えめにしておいたけど、眠気覚ましにしては強烈すぎるくらいだろう。暁斗は水を求めて、部屋を飛び出そうとした……けど。
「あ、足元……」
「いっ!? がっ! ……ぐえっ!?」
床に投げ出した鞄に思いっ切り足を引っ掛けた暁斗は、勢い余ってドアノブに頭から突撃する。その痛みに悶えてると、さらにスネをベッドに打ち付けてしまった。……うわ、痛そう。
「ち、ちょっと、大丈夫?」
さすがにここまでするつもりは無かったし、ピクピクと痙攣を始めた兄がさすがに心配になって、そう声をかける。兄はまるで瀕死のような力のない目で私を見て、口を開く。
「る、瑠奈。死ぬ前に、一言……『お兄ちゃんが世界で一番好き』って聞かせ……おうっ」
「うん、大丈夫そうだね!」
何やら世迷い言が聞こえてきたので、突っ込みの意味で尻尾を軽く踏みつけておく(痛くないくらいに、だ)。変な声を上げた兄を無理やり起こしつつ、このままじゃ埒があかないので、丁度よくそこら辺に置いてあったペットボトルのスポーツドリンクを飲ませる。
「ゲホっ、ゲホっ……うう。腹の中が焼ける……」
「そこまで強力なんだ、アレ。使う時は気を付けよ」
「俺で実験するんじゃねえよ! ……ゴホっ」
疲れたような溜め息をつきながら、暁斗はようやく起き上がった。尻尾はだらりと垂れており、まだ痛むのか打ち付けた頭を押さえている。
「いやぁ、ごめんごめん。お父さんが『暁斗が起きない時は目覚ましに丁度良さそうだ』って言ってたの思い出して、丁度いいなって思ってさ」
「あ、あの親父はなんてこと……ゴホっ。と言うか、お前も乗せられてないでもうちょい普通に起こせ!」
「普通で起きないからでしょ。それに、私もお兄ちゃんのリアクションを見てみたかったし?」
「俺はお前のオモチャじゃねえぞ!? ……ゲホっ。うう、とりあえず、水だ水……」
反論しつつも、それ以上にダメージが大きいようで、暁斗は疲れきった様子で部屋を出て行った。……少し強烈すぎたかな。今度、お詫びに彼の好きなチョコクッキーでも作ってあげよう。
暁斗を追って部屋を出ると、彼は浴びるように水を飲んでいた。とりあえず、朝ご飯の準備を始める事にする。
「……ふう」
「ちょっとは回復した?」
「まだ舌がヒリヒリするけどな。そういや、母さんは?」
「朝早くから出たよ。少し用事があるんだってさ」
「ふうん」
何とか落ち着いたらしい暁斗は、テレビのスイッチを入れてから、いつもの定位置に座る。
「お兄ちゃん、今日の事は分かってるよね?」
「ああ、放課後の事だろ? 大丈夫、ちゃんと部活も休みもらってるぜ」
言いつつ、暁斗はご飯を口に運ぶ。顔をしかめた様子からして、まだ味覚が戻ってないらしい。
「そういや、今日は浩輝のやつ遅いな」
「あ、今日は来ないよ」
「え? 珍しいな。何かあったのか?」
「別に? ただ、昨日あった歴史の小テストで、ある意味歴史に残る結果を出したから、先生から朝一番に呼び出し食らっただけだよ」
「……成程な」
今頃は特別授業と言う名の、彼にとっては拷問でしかない時間を過ごしてるはずだ。自業自得としか言えないけど。暁斗もちょっと呆れ顔になりながら、ご飯を一気にかきこんだ。
「あんま慌てると詰まらせちゃうよ?」
「ゴタゴタしたから、ちょっと急がねえと遅刻しちまうしな」
口の中のものを流し込むようにお茶を飲む。あまり行儀が良いとは言えないけど、時間があまり無いのは事実だ。
「……んぐっ。ふう、ごちそうさま」
「片付けは私がやっとくから、早く準備してきなよ」
「お、悪いな。じゃ、ちょっと待っててくれよ」
駆け足に部屋へと戻っていく兄を見送ってから、私は食器を運び始める。
「さてと、今日はどうしようかな」
兄が戻ってくるまでの間、私は放課後の事についての予定をいろいろと考えていた。
学校。朝、教室で虎が死んでいたけど、みんな特に気にする事も無く、この日も普通の学校生活だった。そして、今日の授業もラスト。担任の上村先生による、歴史の授業だ。
「では、1701年に発生した〈真創教〉と呼ばれる宗教は、どのような内容だ?」
「え……えーっと、ですねえ……」
現在、授業の場を借りた公開処刑が行われている。裁かれているのが誰かは言うまでもない。先生は頭痛がしてきたみたいで、片手を額に添えている。
「……如月」
「人間を絶対として、他種族を排斥する宗教です。種族差別的な考え方は即座に全世界から批判を浴びましたが、一部の地域では現在も陰ながら信仰されているようですね」
カイは当然のように即答する。コウを眺める視線はすごく楽しそうだ。
「さすがだな、完璧だ。思い出したか、橘?」
「あー……そ、そうでした、ね……?」
そんな返事をしつつ、どう見ても最初から知らなかったという顔をしてる。昨日習った範囲なんだけど、彼の記憶からは見事にすっぽ抜けてるみたいだ。
「ちなみにこれは、朝の個別授業でもやった範囲なんだがな……」
「……スミマセン」
先生は怒る気力も失せているようだ。マンツーマンで教えた事を、半日も経たないうちに忘れられていたら、力が抜けて当然だろうけどね……。
「橘。私だって、理解はしているんだ。教科によって得意不得意はあるものだし、晒し上げたところでやる気を損なうだけだと。だから本当は、こんなやり方はしたくない」
「えー……と」
「だが、物には限度と言うものがある。さすがにテスト用紙をキレイな白紙で返されたら、私も放置する訳にはいかないし、強行手段を取らざるを得なくなる」
「うぐ……」
反論など出来るはずもなくて、コウは尻尾をだらりとさせている。少しかわいいかも、と思ったのは内緒だ。
「おっと、そろそろ時間か。よし、ならば今日の授業はここまでだ。みんなには宿題は出さないが、しっかり復習しろよ」
「あ、あの、先生? 何か微妙にひっかかる言い方なんすけど……」
「心配するな。お前にはプリントを10枚ほど用意してある。明日以降も、じっくりと個別指導してやるからな」
「は、はあああぁ!?」
コウの悲鳴は、教室内に虚しく反響していった。
「よし、じゃあ明日も遅刻などが無いようにな」
帰りのショートホームルームも終わり、クラスメイト達が思い思いに解散していく。そんな中、コウは先生から受け取ったプリントを手に、机に突っ伏していた。
「横暴だ……贔屓だ、差別だあぁ……!」
「ぼやく暇があったら帰ろうぜ。せっかく放課後は自由なんだしよ」
「オレは全く自由じゃねえっつーの! てめえ、それ嫌味かコラ!」
私はプリントを覗き込んでみる。なるほど、簡単な問題ばかりが集められているし、すごく分かりやすくまとまってる。でも、歴史はコウがいちばん苦手な教科だ。たぶん、これを彼がまともにやれば数時間はかかるだろうね。
「なあ、みんな? ちょっと相談があるんだけどよ」
『却下』
「早!? せめて内容ぐらい聞けよ!」
「聞かなくても簡単に想像がつくからな。教えろ、って事だろ?」
例えば、これをカイがやれば10分もかからないのは間違いない。ちなみに、私とレンの成績は中の上といったところで、このくらいの問題ならだいたいはすぐに解けると思う。思うけどね……。
「なあ、お願いだって! 助け合ってこその友達だろ? カイ!」
「俺、今日は家事担当だからムリ。サボると親父がうるせえからな」
「……ルナ?」
「悪いけど、私は暁斗と出掛ける予定なんだ。お父さんの事があるからね」
「……じゃあ、レン」
「おれは兄貴と組み手の約束してる。と言うか、じゃあって何だじゃあって。妥協案かよおれは……」
断られる毎にコウのテンションが下がっていく。全員に断られた彼の表情には、絶望がありありと表れている。
「そ、そんな。なら、オレはどうすりゃいいんだよ!?」
「たまには一人で悩めって事だろ。それか、慧さんに聞けばどうだ?」
「兄貴も最近は委員会だか何だかで帰りが遅いんだよ……!」
「じゃ、自分で解くしかねえな。努力したほうが頭に入るぜ?」
「教科書眺めてたら寝ちまうんだよ!」
「……お前な。っと、いけない、そろそろ約束の時間だから、今日は先に帰るぞ。じゃあ、また明日な」
「あ、俺も。今日の晩飯何にすっかな。ま、せいぜい頑張れよ」
「ち、ちょっと待て! お前ら……」
呆れ顔のレンがその場を後にすると、カイも彼を追いかけるように駆け足で教室を出ていく。そして、私もまた、教室の外に黒い狼がいるのを見つける。
「暁斗も来たし、私も行くね。じゃあ頑張って、コウ」
「待って! ホント待って! オレ一人じゃ無理だって! 頼む、何でもするから! 頼むから見捨てないでくれえええぇ……」
軽く泣きが入りながらすがってくるコウの手をさっと避けると、私は変に同情しないうちに、教室を出ることにした。外で待っていた暁斗も、私が向かってきているのに気付いて、よう、と手を上げる。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「いや、俺も今来たばっか。……ところで、何か後ろで死んでるのがいるけど」
「気のせいだと思うよ」
「そ、そうか……」
だいたいの雰囲気は感じ取ったのか、暁斗もそれ以上突っ込んではこなかった。まあ、コウもたまには痛い目を見たほうが良いだろう。いつも宿題を私達の丸写しばっかしてるからああなってるんだし……。
「じゃ、行こっか?」
「そうだな。何買うかは決めてんのか?」
「大まかにジャンルに目星をつけてるぐらいだよ。お父さんの好みなら、男の暁斗のが分かるんじゃないかな、と思って。一緒に見ながら考えようよ」
「ん……ま、そうだな。時間もまだあるし」
私達が今日出掛ける理由。それは、お父さんへの誕生日プレゼントを用意するためだった。
本当は前の日までに用意したかったんだけど、暁斗と私の予定が合う日がなかなか無くて、結局は当日に準備する事になっちゃったんだけどね。
「とりあえず、いくつか目星つけてる店あるから、近場から順に回っていこう」
「だな」
私達は学校を出て、街を巡る事にする。考えてみたら、お兄ちゃんと二人で買い物に行くのも久しぶりだね。
「暁斗、最近は部活の調子、どうなの?」
「ん? ああ、かなり良い感じだぜ。この前ベストタイムも出たしな」
「へえ、凄いじゃん。良かったの? 休んじゃって」
「まあ、元々、闘技大会の為に休みも貰い始めたしな。しばらくはイベントもねえし、構わないさ」
部活について話しているとき、暁斗は凄く生き生きしていると思う。
彼は本当に陸上が好きだ。走っていれば嫌な事が全部吹っ飛んでしまう、って本人は言っていた。もちろんキツい時もあるらしいけど、楽しんでいるから全力で取り組めるんだろうね。私は部活もしてないし、何だか羨ましくもある。
ちなみに、コウ達も部活はしてなかったりする。レンは実家の道場に通ってるから別として、コウもカイもスポーツ万能なので、色んな部から今でもスカウトされてるみたいだけどね。
「今年は夏の大会も優勝だったし、さすがだよね」
「へへ。この勢いに乗って、闘技大会も優勝しちまうかな!」
「あれ、そう簡単に行くと思ってる?」
「……う」
私が出る事を思い出したらしい暁斗は、少したじろいだ。
「言っとくけど、負ける気は無いよ? それに、コウ達だって強いんだからね」
「……そりゃまあ、不安がないって言えば嘘になるけどよ。俺だって、お前達にはまだ負けねえぜ」
「ふうん。じゃ、私をためらいなく撃つんだ?」
「うぐ!?」
少しからかってみると、予想通りに暁斗は言葉を詰まらせた。その様子が何か可愛い。
「なんて、もちろん冗談だよ。逆に、手を抜いたりしたほうが許さないよ?」
「ゆ、許さないって?」
「そうだね。一生口聞いてあげないかな?」
「何ぃ!? そりゃ厳しすぎだろ! せめて一ヶ月……いや、一週間程度に!」
「手を抜かなきゃ良いだけの話でしょ。それとも、抜く気だったの?」
「……いや、まあ。何て言うかな」
暁斗は困ったように頭をかいた。
「お前には分かんねえかもしれないけど、女子と戦うってただでさえやりにくいんだぜ? それが実の妹ともなりゃ……」
「まあ、みんなも似たような事は言ってたけどさ。こっちだって手加減ありで勝っても嬉しくないからね」
「それは分かってるよ。けど……なあ」
やりにくい、か。女の私にはよく分からないけど、男の子からしたらそういう部分があるみたいだ。でも、私は女である事を武器にはしたくない。やるからには、ちゃんと実力で勝ちたいって思うんだ。
「ま、良いや。でも、本番で当たったらちゃんと覚悟決めてよね」
「分かったよ。お前に負けたらそれこそ立つ瀬ねえしな」
「本気でも負ける気は無いんだけどね」
「……言いやがるな、お前も」
苦笑いしながら、暁斗は鞄からスポーツドリンクを取り出した。
「そう言えば、一年からは他に出る奴いるのか?」
「あ、ルッカ君も出るよ」
「お、そうなのか。ってことは、一年から5人か。多いな」
「まあね。大抵の一年は地区予選で落ちるから珍しい、って先生も言ってたよ」
事実、先月に開かれた地区予選大会では、私達以外は大抵が三年、ちらほら二年って感じだった。
ちなみに、過去に実績がある人は予選が免除されるから、暁斗は今年の予選を受けてない。そのせいで、私が出るのを予選が終わるまで知らなかったんだけどね。隠して驚かせる計画はバッチリ成功した。
「とりあえず、お前らに負けないように、しっかり訓練しとかないとな。みんなの前でカッコ悪いとこも見せらんねえし」
「あれ、彼女でも来るの?」
「違うっての。クラスメイトも見にくる奴はいるだろ? 妹に負けただの何だのいじられるのは勘弁だぜ」
彼女、と言う単語に、暁斗は困ったように笑った。
「第一、俺はまだ彼女いねえんだよ」
「ふうん。この間ラブレター貰ってたって、寺島先輩に聞いたけど」
「……竜二の野郎。あれなら断ったよ、相手には悪いけどな」
意外と言ったら悪いけど、暁斗はけっこうモテるほうだ。
スポーツも得意だし、性格も明るく人当たりが良い。そして、妹の私が言うのも何だけど、顔立ちもカッコいい部類に入るだろう。
先輩達の情報によると、ちょくちょく告白とかもされてるらしい。だけど……本人の言う通り、彼女が出来た事はまだ一度もない。
「まだ部活のほうに集中したいの?」
「ん、まあ、それもあるけどよ。前も言ったろ? 自分が本当に好きって思えない限り……中途半端な想いじゃ付き合いたくねえんだ」
試しに付き合ってみるって手もあるのかもしれないけど、同情で付き合ってもしも好きになれなかったら、相手をもっと傷付けるから嫌だ、と言うのが彼の理論だ。まあ、本当に好きな相手と、って気持ちは私にも分かるけれど、けっこう夢見がちだなあ、とは感じる。
結局は、まだそっちに感情が向いてないってのが本当のところなんだろうね。もしも恋人が欲しいと思うようになれば、この考え方もその時に変わってくるんだと思う。
「で、俺の心配する前に、お前はどうなんだよ」
「私? 私も今のとこ好きな人いないしね」
「浩輝達とかは?」
「コウ達の事は確かに好きだけど……恋愛感情じゃないよ。向こうだってそうだと思うよ?」
コウも、カイも、レンも、私にとって大切な人だ。だけどそれは親友としてで、それと違う種類の感情を抱いた事はない。第一、私が意識したら向こうが迷惑だろう。
「もしも、だ。あいつらのうち、誰かに告白されたらどうする?」
「ええ? うーん。その時になってみないと分からないよ。第一、そんなの絶対無いって。有り得ない」
「……可哀想にな、あいつも」
「え、何か言った?」
「いや、別に……」
微妙に言葉を濁しながら、暁斗はスポーツドリンクを口にする。何かはぐらかされた気がするんだけど……。
「お前は俺の心配してるみたいだけど、俺はお前のが心配だぞ、切実に」
「む。そりゃ私は暁斗みたいにモテないけどさ」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
暁斗はゴーグルのズレを直している。何だか疲れた表情をしているのは気のせいだろうか。
余談だけど、彼のトレードマークになってるあのゴーグルは、私がプレゼントしたものだ。中学に上がって闘技が始まって、銃を武器に選んだ暁斗がケガしないようにって、私なりに考えて贈ったんだけど……私の予想以上に気に入ったらしくて、あげてから数日は寝る時も外さなかったぐらいだ。
「ところでさ、私達って、周りから見たらどうなんだろうね?」
「どう、って?」
聞き返しながら、暁斗はスポーツドリンクを口に含む。私はそんな兄に笑顔を向けて……。
「カップルに見えてるんじゃない、私達って?」
「ごふッ!?」
私の一言を聞いた暁斗は、ドリンクを盛大に吹き出した。プラス、どうやら気管にも入ったらしく、派手にむせかえっている。
「ゴホッ、ゴホッ……い、いったい何を!?」
「いや、異種族兄弟って珍しいしさ。兄弟だって知らない人からしたらそう見えるかな、と思って」
「や、止めてくれ! 周りが気になっちまうだろ!?」
何とか呼吸を整えながら、暁斗は周りを見渡す。多分、彼が人間なら顔は真っ赤になってるはずだ。慌てふためく暁斗の姿に、私は遠慮なく笑っていた。
「何を照れてるのよ、暁斗のシスコン」
「お前がそれ言ってどうすんだ!?」
「あはは。相変わらずからかいがいあるよね、お兄ちゃんも?」
「……いいか瑠奈。もう少しお兄ちゃんに敬意を持ってくれ」
溜め息混じりにそう言うと、空っぽになったジュースを見て顔をしかめる。
「ったく、新しいの買ってくるか。ついでだし、お前は何かいるか?」
「じゃ、オレンジ系のやつお願い。無かったら何でもいいよ」
たぶん一人になって落ち着きたいんだろう、私が小銭を渡すと、暁斗は逃げるようにその場を離れた。
暁斗の姿が見えなくなって、戻ってくるまでどう時間を潰そうかな、などと考えてみる。まあ、そこまで時間はかからないだろうけど。
――その時、私は突然、強い耳鳴りを感じた。
「…………?」
おかしい、と言うのにはすぐに気付いた。
ただの耳鳴りにしては、どこか違和感があるって言うか……どこが、って具体的には分からないけど、とにかくおかしいってのは分かる。説明は難しいけれど、そんな感じだった。
でも、この感覚、どこかで……そうだ、誰かが空間に作用するPSを使ったときは、こんな感じだった気がする。けど、それにしても、規格外だ。ここまで大きく、長時間続くのは初めてだった。
私の身体がおかしい、のは無いと思う。特に気分が悪いとかくらくらするとかは無いし、意識もはっきりしてる。
周りを見渡してみるけど、ちょうど辺りには人通りが無かった。だけど、この感覚が気のせいだとは思えない。
「……あっちから?」
私は好奇心の赴くままに、この感覚の大元を辿って、人気の無い脇道へと向かっていった。
そこは路地裏、と言うのもお粗末な場所。普通、人が通ることはまずないだろう。……だけど、間違いなくここから感じる。おかしな何かを。先に進んでいくうちに、その感覚は強くなってきた。
好奇心と恐怖の両方が強くなっていって、私は動けなくなった。いったい、何が起こっているんだろう。
――決定的な異変は、唐突に起こる。
私の目の前の空間が、はっきりと歪んだ。そうとしか形容できなかった。
「…………っ!」
最初は、空間ごと、見えているものがねじれた。そして、そのうちに混ざった。本来の風景と、ここじゃないどこかの風景が。
さすがに、こんな物は今まで見た事が無い。逃げ出したい、とも思った。だけど、それ以上に、好奇心が私を縛り付けて離さない。
よく見ると、歪みの中に、明らかな違和感があった。それは、最初はただの点だった。だけど次第に大きくなって、形がはっきりしてくる。
「えっ……!?」
それが何かに気付いた私は、思わず声を漏らす。でも、動けない私をよそに、歪みはどんどん広がっていく。
「何? どうなってるの!?」
目の前の状況が全く理解出来ずに、ただ焦りを声に出すしかできない。
歪みが一際大きくなったかと思うと、それが一気に収束して、元の何もない空間に戻り始める。合わせて、耳鳴りも感じなくなっていった。
だけど……それでも、それは消えること無くて――
「…………!!」
その現象が全て終わった時。私の前には、それ……いや、彼が、残された。
銀色の美しい毛並みに、流れるような金髪を持った……狼人の、青年。
それが……私と彼の出逢いだった。