大切な存在
俺と瑞輝さんの相手である影牙獣は、獲物を前にして、低く唸っていた。
この怪物の特徴は、鋭い爪と牙……そして、スピード。まさしく影のように動き、一瞬で相手を仕留める生粋のハンター。総合力じゃ牛鬼に劣るけど、速さについて行けなければ、一方的になぶり殺しにされるだろう。
「……確かに、俺に適任だな」
スピード勝負は、俺の専門。瑞輝さんはさっきの戦いの疲れが残っている。ちょっとばかり、張り切らないといけないみたいだ。
「瑞輝さん、無理はしないでくださいね」
「君も気を緩めるなよ、暁斗。君に何かあれば、あいつを悲しませてしまうからな」
「……え?」
「言っていなかったな。弟が、君の応援に来ているんだ」
……弟? そう言えば、この人の見た目、ドーベルマンってことを抜いても見覚えが……まさか。
「雑談は生き延びてからにしよう。だから、お互い無事に帰らないとな」
「……はい!」
改めて気合いを入れたところで、集中する。試合の時と同じように、じりじりと互いの様子をうかがいながら……。
「来るぞ!」
先に動いたのは影牙獣の方だ。四肢に力を籠めると、一気に飛び掛かってくる。思っていた通りに、速い!
「くっ……この野郎!」
PSを使ってそれを避け、お返しに一発お見舞いしてやろうとする。だけど、俺の撃った弾を、奴は難なく回避していく。くそ、こいつは本当に手間取りそうだ。
「はぁッ!」
瑞輝さんも奴に斬りかかる。この人の能力もスピード強化らしかったが、それでも獣にはかすり傷程度しか与えられない。奴はお返しだと言わんばかりに、瑞輝さんに飛びついた。
「ッ!? うっ……!」
瑞輝さんが呻いた。まずい、何か当たったか……!? 影牙獣はそのまま、瑞輝さんに追撃を加えようとしている。
「離れろ!!」
俺は慌てて銃撃する。それも回避されたが、影牙獣を瑞輝さん引き剥がすことはできた。
「く……そっ!」
悪態をつく瑞輝さんの左腕から、血が流れていた。爪の一撃が当たったみたいだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「死にはしない! 気をつけろ、次が来る!」
瑞輝さんの言葉通り、シャドウファングは既に次の獲物に飛びかかっていた。……すなわち、俺に。
「…………っ!!」
どくん、と心臓が鳴った。
獣の姿が、死神のように見えた。あの鋭利な爪や牙を急所に受ければ、それで終わりだ。俺を一瞬で殺せる存在。それが、凄まじいスピードで迫り来る――
「う……あああぁ!!」
湧き上がって来た死への恐怖から、俺は必死になって引き金を引いた。それでも奴は止まらない。銃弾をかいくぐり、俺との距離を詰めていく。
止めろ……来るな! 来ないでくれ……!
「止まれええええぇッ!!」
頭の中が真っ白になった。――気が付くと獣の悲鳴が聞こえた。
あまりの恐怖に、無意識に幻影神速を発動させたらしい。無我夢中で乱射した弾が、何発か当たった、みたいだ。
「……ハアッ、ハアッ……!!」
呼吸が全力疾走をした後のように乱れている。鼓動も荒れ狂って、心臓が破裂しそうだ。
奴が迫ってきた時の、リアルな死の恐怖。それは到底、耐えられるものじゃなかった。
何発か当たったって言っても、大した傷にはなっていない……むしろ、奴の怒りを買っただけみたいだ。
死にたくない。できるなら、一刻も早く逃げ出したい。カイや瑞輝さんは、こんな感覚に耐えて時間を稼いでたのかよ……!
「暁斗、落ち着け! 銃弾は無限じゃないんだ!」
瑞輝さんの叱責。だけど、落ち着けって言っても……!
『グウゥ……グルアアァッ!』
「……ぁ……!」
獣の咆哮に、俺は蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませる。混乱する俺に、奴は再び飛びかかってきた。仕留めやすいと判断して、標的を俺に絞ったようだ。
よ、避けないと……でも、体が思うように……!
「……ちっ!」
瑞輝さんが剣を構え、奴の背後から今までにないスピードで突進する。奴は鬱陶しげに振り返ると、瑞輝さんに狙いを切り替えて、その爪を振りかざす。
「み、瑞輝、さん……!」
「弟の友人を、死なせるわけにはいかない!」
PSを全開で使っているのか、今度は奴と対等に戦っている。
「俺の大切な弟がいるこの会場で……これ以上好き勝手をさせてたまるか!」
「!」
……大切な、弟。
思い出す。最初、瑞輝さんは恐怖に叫んで殺されかけていた。それでも、瑞輝さんがこうやって戦っているのは、弟が……大切な存在がここにいるから。弟を、護りたいから。だからこの人は、恐怖に耐えて戦えるのか。
……なら、俺は?
ここには、みんながいる。カイに、浩輝に、蓮。クラスのみんなに、部活のみんな。そして……瑠奈がいる。俺の護るべき妹が。何よりも、大切なみんな……!
「…………ッ!!」
石化が解けたように、身体と思考が動き始める。
瑞輝さんは影牙獣と格闘を続けているけど、出血と疲労で少しずつ押されているみたいだ。もう限界近いあの人に、俺は。
「ちくしょう……!」
本当に、何をやっているんだ、俺は。死にたくねえのは瑞輝さんだって一緒なんだぞ。カイだって命を賭けた。みんな必死で戦ってる。それなのに……情けなさすぎるだろ、俺の馬鹿野郎!
「すう……はあ……!」
深呼吸する。そうだ、俺は……緊張には、失敗できない勝負には慣れている。いつだって、そう言ってきただろ。大事な勝負だけ逃げ出すような真似、してたまるか。
大切な友達を、妹を護るために……腹、くくりやがれ!!
「お前の相手は、こっちだ!!」
奴の背中に向かい、引き金を引く。完全に死角からの一撃で、狙いもバッチリだ。奴の背中に、銃弾が直撃する。
不意打ちに一声鳴くと、奴は慌てて瑞輝さんと距離をとる。そして、当然ながら、俺に敵意を剥き出しにした。
「暁斗……!」
「もう大丈夫です。ちゃんと、戦えます! 瑞輝さんは休憩してください!」
もちろん、怖くなくなったわけじゃない。でも、あいつらのためにも……この怖さに負けられるかよ!
魔獣は牙を剥き出しにして、俺へと突進してくる。その動きは、普通なら対応できるものじゃないだろう。だけど。
「行くぜ……!」
俺は今度こそ、自分の意志でPSを発動させる。自分を信じろ。今の俺なら、奴の動きだって見切るのは不可能じゃない。
「スピード勝負なら、負けはしねえ!」
俺は地面を蹴り、奴に立ち向かった。獣は俺が向かってきた事に躊躇いも見せず、そのまま襲いかかってくる。
幻影神速は、あまりにも消耗が激しい。フルスピードで飛ばせば、保って十数秒……。
だけど、それがどうした? そんだけありゃ、十分だ!
「うおおおおおぉッ!!」
『ガアアアアアァッ!!』
俺の雄叫びと、魔獣の咆哮が交差する。そのまま、俺達の攻撃が衝突した。
奴の爪を俺が避け、俺の蹴りを奴がかわす。奴が牙で食らいつき、俺が腹部に銃撃を放つ。互いが互いの動きを見切り、攻撃し、回避する。
それらは文字通り、一瞬の中での動きだろう。俺からしてみたら、体感的に相当長い一瞬ではあるけど。
今だけは、恐怖を感じる時間も無い。スピード対スピード……止まるな、迷うな。自分を信じて……ただ、駆け抜ける!
そして、そんな短く長い衝突に、変化が見え始めた。
影牙獣の攻撃は、未だ俺には届いていない。一方、俺の蹴りや銃撃が次第に当たり始めた。つまり……俺が押し始めたんだ。
奴は明らかに焦りを見せていた。速さが武器である奴にとって、それ以上のスピードを持つ相手は脅威なんだろう。
だけど、俺の体力もそろそろ危ない……ここで、勝負をかける。
「さあ、仕上げだ!」
俺はリロードを行いながら、身体強化のギアをさらに一段階……限界まで上げ、一気に走り抜けた。影牙獣の背後を奪うことに成功する。
予想外の動きに、奴が僅かにたじろいだ。そして、俺にはその一瞬だけで十分だった。
「全弾、叩き込む!!」
ここで全てを出し切る、その覚悟で――俺は、最高速度で銃撃を開始した。スピードを生かして駆け回り、前後左右、ありとあらゆる方向から奴に銃弾を浴びせる。全方向から押し寄せる弾幕……いくら素早くても、避ける手段なんてない。
『グッ、ガッ! ……ッ! ギャ……!!』
鳴り響く銃声、そして影牙獣の苦鳴。奴の全身から血が飛び散った。それでも俺はトリガーを引き続ける。ただひたすらに、連射、連射、連射――やがて、弾切れを示すカチャリという音が聞こえるまで、俺は撃ち続けた。
『…………ッ……』
影牙獣は、全身から血を吹き出している。胸からの激しい出血を見るに、うまく心臓に当たったみたいだ。
急所をやられて生きていられる生物はいない。銃撃が止むと同時にぐらりと傾き、そのまま倒れた獣が起き上がることは、なかった。
「……勝った……」
俺は呆けたように呟くと、その場に座り込んだ。戦闘中は若干ハイになってたけど……生きている。俺はまだ、生きているんだ……!
「暁斗!」
「……へへ。やりましたよ……」
「ああ。本当に良かった……」
走ってきた瑞輝さんの表情には、安堵が浮かんでいた。だいぶ心配をかけたようだ
「腕は、大丈夫……ですか?」
「ああ、大したことは無い。君こそ、かなり辛そうだぞ」
「……平気です。ふう……これでへばったら、後輩に示しがつきませんしね」
飛ばしすぎたせいで息は切れてるけど、怪我は無い。この程度で泣き言は言ってられないよな。
「そうだ……みんなは?」
呼吸を整えつつ、周りを伺う。戦闘中は自分の戦いに精一杯で、他の事は全く見えなかった。そういえば、ヤケに静かだ……もうみんな戦闘が終わっているのか? なら、どっちが……。
「暁斗、瑞輝さん!」
「お兄ちゃん!」
……そんなこと、考えるまでもなかったな。
真っすぐ走ってきたのは、瑠奈とカイ。その後ろには、ちゃんと蓮と浩輝もいた。
「うん。みんな、ほとんど同時に戦い終わったみたいだね」
「全員無事、か。良かった……」
「言ったろ、やれるって。俺らがあんな獣に負けるわけねえってんだ」
強気なカイの言葉も、今は妙に頼もしい。本人の意図も、周りを勇気づけるためなんだろう。こいつにはそういうとこがあるからな。
「瑞輝さん、腕を?」
「ああ。気にするな、大したことはない」
「んっと……ちょっと見せて下さい」
浩輝が瑞輝さんの腕をとる。続けて、白虎の腕が、青白い光を帯びた。
「……〈逆流〉っと」
浩輝が呟くと、緩やかに瑞輝さんの傷が塞がっていく。それほど時間はかからず、傷はほぼ完治した。瑞輝さんは目を見開いている。
傷を負う前の状態にまで、身体の時間を巻き戻したんだ。と言っても、血とかまでは戻らないらしいけど。
「これで一応は大丈夫と思うっす。今のオレじゃ、傷の表面を塞ぐのが限界なんすけどね……」
「……凄いな。十分だ、ありがとう」
「あ、コウ。私の弓もお願いできる?」
「ん? うわ、派手にやってんな。いいぜ、貸してみろよ」
「それもだけど、早く逃げないと……」
そうだ、これで安全になったわけじゃない。だけど、上を見てみると、会場中の注目が俺らに集まっていた。そして、そのど真ん中……ガルの周りに、武装した男達が何人かいるのが見えた。状況で察することはできる。あいつらが、会場をこんなことにしているんだって。