時が凍てついた日 5
「…………え……」
浩輝の思考は、真っ白になった。
突然のことに、目の前の光景が受け入れられない。だが、現実として、兄の腹には、先ほどまでなかったはずの大きな風穴が空いている。
「……ごほっ……?」
海翔は何かを言おうとして、しかし代わりに血を吐いた。何が起きたか分からない、という顔をして。そして、直後に、凄まじい痛みと苦悶の表情へと変わった。傷口を抱えるように、少年はその場に崩れ落ちる。
「か……海翔おおおおおおぉ!!」
「あ、あああああああぁ!!」
悠馬と茜の絶叫が、響いた。
血を吐いて倒れた息子の姿に、二人の思考は完全に奪われた。そして、その隙は、戦いにおいてはあまりに致命的なものだった。彼の懐に、素早く潜り込む影がひとつ。
「ぐっ!?」
悠馬の脇腹を、深々とコヨーテの刃が斬り付けた。思考が乱れ、PSを発動させることもできなかったのだ。悠馬は何とか反射的に離脱するが――直後。その傷口が、裂けるように広がった。
「ぐ、あ、がっ……!?」
そして、リュートの指示による一斉射撃が茜を襲う。悠馬のPSによる守護が緩み、彼女自身の動転の隙を突いた銃弾は、腹部を何箇所か貫く。
「うぁ、あっ……!!」
「あ、かね……!!」
リュートはそのまま悠馬に斬りかかるが、何とか体勢を立て直した彼は銃剣で防御する。しかし、腹からはとめどなく血が流れて、彼の白い毛並みを染めていった。
英雄と呼ばれた悠馬と茜の力は、この中では圧倒的だ。リュートであっても、根本的な実力差はかなり大きい。真っ当に戦えば、覆ることはなかっただろう。
だが、この状況下において。リュートの本来の能力は、悠馬にとって、致命的に相性が悪かった。
「素直に人質を取るなど、下策でしかない。どう転んでも破滅だからな。それよりも……」
悠馬の力は非常に強力だが、無敵ではない。あくまでも指定した範囲内での運動エネルギーの向きを変えるだけに限る。熱や電撃、毒などまで防げるわけではないし、衝撃の大きさにより必要な力も増える。
そして、方向を変えようが防げない攻撃にも意味はない。内側から炸裂する力の方向を変換したところで、体内が傷を負うことに変わりはなかった。
リュートの力は、起爆。己が触れることをトリガーに『アンカー』を仕込み、任意のタイミングで破裂させる。先ほど、海翔の肩に手を置いた時、最悪の仕込みは終わっていた。彼の体内、その奥深くにPSを注ぎ込むと、いつでも殺せるようにしていたのだ。
「こうして動揺を誘う材料にする方が賢いと思わないか。なあ?」
「こ、この、クソ野郎、がっ……!!」
元々、子供たちは保険とするつもりだった。助けるべきだった相手が死ねば、まともな者ならば誰であろうと硬直する。その後に憤怒で暴れられようと、それよりも早く仕留めてしまえば関係はない。
リュートの悪辣さを考慮できなかったことが致命的だった。人質は人質として、自分たちを仕留めるまでは利用するはずだ、というのがそもそもの間違いだと、知った今ではもう遅い。
「しかし、どちらも仕留め損なうとはな。まったく、とんでもない負債を押し付けてきたものだ……!」
リュートは確かに悠馬の急所を狙ったし、茜への銃撃も同様だ。二人とも歴戦の英雄であったからこそ、何とかそれを逸らした。しかし、どちらも激しく出血しており、深手を負ってしまったのは間違いない。
「か、海、翔……あうっ!」
「お前たち、女の方はそのまま抑えろ。その程度も出来ないなどと言うまいな?」
「ち……やって、やるよ!」
一気に形成は逆転した。悠馬の体力が奪われた今、彼のPSの精度は大きく落ちていた。二人は攻撃を防ぐので手一杯になり、倒れた海翔を助けに行くこともできない。それどころか、流れていく血に、自らの命すら危うくなっていく。
「兄ちゃん! 海翔兄ちゃん!!」
「……こ、うき……」
浩輝は倒れた海翔にすがりつくようにして、叫び続ける。
この時、浩輝は兄のことで頭が一杯になっており、周囲が全く目に入っていなかった。両親の状態にも、気付くことができなかった。
しかし、気付いていたとしても何もできなかっただろう。目の前の海翔に対しても、何もできない。
海翔は、自分が致命的な傷を負ったことだけは理解できたのだろう。どこか諦めたような表情をしていた。
「ごめん……ごめん、な、浩輝……」
「あ、ああ、き、傷、血を、止めない、と……」
「絶対、離れないって、言った、のに……大丈夫、だって、言った、のに、な……ごめん……でも、お前は、無事で……」
「だ、駄目、喋ったら……! 」
床に広がっていく赤い液体。兄の傷をどうにかしようとパニックに陥った浩輝の手も、その血で染まっていく。
「……ああ……何だか、寒い、な……」
「喋らないでって! 傷が、傷が開いちゃう!!」
「……俺は、死ぬ、のかな……浩、輝……うあ……!」
途中までは強がろうとしていた海翔だったが、思わず苦痛の声を漏らした。その身体が、震え始める。それは、痛みだけのせいではなかった。
(し……ぬ……? 兄ちゃん、が……)
徐々に失われていく海翔の血液。間もなく兄が死ぬ、という現実が、浩輝の思考を白く染め上げていく。急速に、海翔の身体から力が抜けていく。そして、己に迫る死を、本人も感じてしまったのだろう。強がりは、とうに限界だった。
「…………怖い……」
「…………あ」
「……やっぱり、怖い……こわい、よ……」
「あ……あ……」
「浩輝……痛、い……やだ……こわい……やだ、よ……」
「ああ、あぁぁ……!!」
苦痛と恐怖の涙が、少年の瞳から溢れる。そんな兄に何もできないまま、浩輝の喉からは形にならない叫びばかりが溢れる。
「おれ、ま、だ……こう、き……どこ……どこ、に……」
「……っ! 兄ちゃん! 待って! 行かないで! 見て、ボクを見て! ここに、ここにいるよ!?」
「こわ、い……ひと、り、に……しない、で……そば、に……」
「ボクはここだって!! ねえ、兄ちゃん、ねえっ……!!」
海翔の瞳には、もう何も映っていない。手を取って必死に叫ぶ弟の言葉も、手のぬくもりも、何一つ彼には届いていない。
「さむ、い……よ……くらい……こう、き……とう、さ……か……さん……」
救いを求めるように、皆のことを呼んで。
海翔の手が、力なく地面に落ちた。
「……にい……ちゃん……?」
返事はない。閉じた目は、開かない。呼吸をしていない。
「兄ちゃん。……海兄……」
微かに、鼓動はある。それでも、彼は何も反応を返さない。すぐに、残り少ない命の灯火は消え去るだろう。
「……や……だ……」
動かない。兄が動かない。その身体から、熱が失われていく。
もう兄は死ぬのだと、理解してしまった瞬間。浩輝は、涙を決壊させ、あらん限りの声で叫んだ。
「やだ! 嫌だっ!! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁ!! 兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん!!」
頭の中はぐちゃぐちゃで、もはや何も分からない。ただひとつ。強く、強く、少年の中に湧き上がった感情。
「こんなの、こんなの……絶対に――嫌だあああああぁ!!」
――そして、少年の身体が、青白い光を放ち始めた。