幕間 最悪の狂獣
「はっ……はぁっ……!」
アレシア少尉は、ただひたすらに走り続けていた。
ニケア高地付近の森。彼女たちの小隊は、そこでUDBの痕跡を辿る任務にあたっていた。
ギルドとの戦いで煮え湯を飲まされた彼女たちだが、直接の戦闘をしたことで、相手の実力を認めざるを得なかった。そもそも、彼女たちは軍人だ。上がギルドとの協力態勢を確かなものにした以上、不満はあってもさすがに逆らうつもりはなかった。
せいぜい、成果を上げて見返してやる。そんな反骨心は持ちつつも、それは正しい向上心にもなりうる。ようやく、軍とギルドが切磋琢磨できるような状況が整いつつあった。
――そんな彼女たちの前に、ソレは姿を現した。
背後から、断末魔の叫び聞こえてくる。
自分の隊員の声だと、彼女は理解してしまった。だが、それに対して感じるものはもはや怒りでも悲しみでもなく、純粋な恐怖だけだった。
「なんだ、あの化け物は……何なんだ……!?」
悲鳴のようなその疑問を、口に出さずにはいられなかった。ひとり、またひとりと耳に届く、最期の叫び。隣を走るものは、副隊長であるジャッカルだけだ。
気が付くと、悲鳴の数は、ここにいない隊員の数と同じだけになった。つまり、次に狙われるとすれば。
「……うぁっ!?」
「ジョアン!?」
疲労からふらつき、木の根につまづいたジャッカルは派手に転倒する。その事実に、アレシアは立ち止まり、振り返る。彼は、プライベートでは恋人でもあった。
「あ、アレシア! 早く、逃げ――」
勇気を振り絞ったであろう、その言葉。それは、途中で途切れた。何故ならば、彼の背後に、ソレがとっくに姿を現していたからだ。
ジャッカルはあまりの恐怖に、抵抗も忘れて全身の動きを止める。そして、ソレが彼の右腕を掴んだ。
――骨が、飴細工のように砕け散った。
「っいぎゃあああああああああぁ!?」
絶叫が大気をつんざく。
砕かれた腕が、そのまま力任せにねじられる。ゆっくりと、いたぶるように力を強めながら。
「や、やめ、やめで、痛、痛い、痛い、痛い痛いいたいいだいぃがあああああぁ!!」
あらん限りの声で叫んだ。叫ばずにはいられなかった。気が狂いそうなほどの激痛と共に、肩の辺りで何かが千切れるような音が聞こえ始める。
そして――あまりにも呆気なく、腕が引き裂かれた。噴水のように、鮮血が飛び散る。
「……ぁ……!? ……ッ!! うで……っ、あ……!!」
あまりの激痛とショックで、もはやまともな思考はできていないのだろう。びくびくと痙攣しながら、うわ言のような声だけが漏れる。その様を、アレシア少尉はただ見せ付けられていた。逃げることもできずに。
彼女は、ソレが自分を見て、おぞましい笑みを浮かべたのを見た。
理解してしまった。ソレは、自分たちで遊んでいたのだと。その気になれば簡単に殺せたのを、あえて逃がした上で、狩りを楽しんでいたのだと。
力尽きてがくりと首を垂らしたジャッカル。ソレは引きちぎった腕を放り投げると、その手をジャッカルの背中に突き立てた。あっさりと、爪が胸まで貫通する。ソレの手には、器用にむしり取られた、先ほどまで男の命を支えていた心臓が握られていた。
「………………っ」
開かれた口は、何かを言おうとしたのだろう。だが、それはもはや、声になることはなかった。彼が最期に残そうとしたものは、痛みへの絶叫か、助けを請う悲鳴か、それとももっと別の何かだったのか。それが明らかになることは二度となく、全身から完全に力が抜けた。
隊長である彼女には、何もできなかった。助けることも、逃げることも。それ以前に、身体が言うことを聞かない。全てがバラバラになってしまったかの如く、指先ひとつまともに動かない。
「なんで……どうして、こんな……?」
あまりにも唐突だった。あまりにも理不尽だった。部下は皆殺しにされ、自分も間もなく死ぬのだろう。それがどれだけ絶望的なものでも、理由を問わずにいられなかった。
「――くく。食事をすることに、腹が減った以外の理由などないが……」
ここに来て、初めてソレは口を開いた。あれがヒトだと、彼女は思いたくなかった。――むしり取った心臓を文字通りに喰らっているその化け物を、ヒトであるなどと認めるわけにはいかなかった。
「貴様を最後に残したのは、貴様が女だからだ。分かるだろう?」
言いながら、それは一歩ずつ彼女へと迫ってくる。食欲と、もうひとつ大きな欲求の炎をその瞳に宿し、舌なめずりをしながら。
「なに。大人しくしていれば、最後まで優しく喰ってやるとも。もちろん、抵抗したければしてもいいぞ? それはそれで、ねじ伏せるのも一興だからな」
逃れられない、決して覆らない己の運命を悟り――アレシア少尉はそこで、全ての思考を放棄した。
――その、凄惨たる食事が終わった後。
アレシア少尉だったものの残骸を投げ捨てて立ち上がったソレは、口を開く。
「お目付け役にしては、動くのが遅かったではないか?」
そして、それに応えるように、彼の背後に黒衣の仮面が姿を見せた。
「止めるまでもないと判断しただけのことですよ。いずれにせよ、事態は間もなく動きますからね。しかし、妙な遊びにふけっていたかと思えば、随分と派手にやったものだ」
マリクにしては珍しく、やや呆れたような口調だった。もっとも、ソレが意に介する様子は微塵もないが。
「当然、あなたの事ですから、こういう行動をすることは折り込み済みですがね。満足はしましたか?」
「冗談を言うな。どちらの意味でも、まだまだ喰い足りん」
「程々にしておきなさい。好きに暴れる機会はすぐに迫っているのですから。腹を適度に空かせておくのも、ディナーのために必要なスパイスですよ」
「分かっているさ。だからこそ、最低限の約束は守っているだろう? まだ連中に手を出さぬことも含めてな」
そう言いつつ、ソレはまた舌なめずりをした。目の前に迫った馳走が待ちきれないとでも言うように。
「それとも、なんだ。まさか、俺に忠誠を求めているわけではないな、マリク?」
「私は無意味なものを求めるほど暇ではありませんよ。私があなたに期待しているのはただ一つ。誰にも予想できない、イレギュラーを起こすことです」
「そうか。例えば、ここで貴様の喉笛をかき切るような、か?」
「ええ。それが可能なだけの能力は与えたつもりですよ」
平然と答えた道化に、それは鼻を鳴らした。
「忌々しい爆弾も仕込んでおいて、よく言う。まあ、今回に関して言えば、そのつもりはない。貴様に与えられる戦いも報酬も、なかなかに満足しているからな」
「よく言う、はお互い様ですよ。満足していようと気紛れに喰らうのがあなたで、その気がないと言いつつすぐに気が変わるのがあなたでしょう?」
「くくっ! 正解だ。もっとも、貴様がそう簡単に隙を見せんのは理解しているさ、忌々しいがな。俺が牙を剥くのは、お前が俺に喉笛を見せた瞬間だ。その時まで、せいぜい俺を飼い慣らしてみせるんだな、飼い主サマ?」
俺は行くぞ、と言い残して、ソレはその場から姿を消した。残されたマリクは、残された惨状を一瞥して、呟く。
「クリードの言うとおり、さすがに我ながら悪趣味ですね、これは」
もちろん、そこに情や良心があるわけではない。ただ事実として、悪辣であると思えただけだ。
「クク。ですが、だからこそ……あれは、全てを壊してくれる。ルールなど無用の、ただ全てを食らい尽くすだけの狂犬。盤面を吹き飛ばすだけの暴力装置。さて、これがいったい、何をもたらすのでしょうね?」
それが自分の望むものか、望まないものかはマリクにも分からない。ただ、新たな刺激が得られることだけは確実で――それを笑いながら、道化もまた、その場から姿を消した。