世界の向かう先は
「こちらにいらっしゃるのは久しぶりですな、マリク殿」
城の一角、訓練施設――マリクが従える魔獣のために、地下に作られたものだが――を訪れたマリクを出迎えたのは、褐色の毛並みを持つ大柄な獣人であった。剣を手に、ひとり修練に励んでいたその男は、主の姿を認めると、武器をしまい一礼を返してくる。
「顔を出せずに申し訳ありません、事後処理が山積みでしたので。どうやら、身体の調子も大分戻ってはいるようですね、アンセル」
「頑丈さこそが我が肉体の取り柄ですが故。恥ずかしながら、さすがに数日は不調でしたがな……マリク殿こそ、傷は問題ありませぬか?」
「ええ。私もまた、普通の肉体ではありませんからね」
フィオの捨て身の一撃により内臓にまで届く深刻なダメージを負い、さらにウェアルドにより全身を斬り刻まれたアンセル。さすがに一日はほぼ動けずにいたそうだが、翌日には訓練を再開したというのがアインの報告だ。
「ふ。その身の入れようを見るに、さらに火がついたようですね?」
「我は彼らに対して、連敗を喫しております。休息も鍛練には必要なれど、あの戦いの感覚を忘れぬうちに動いておきたかったのです。……次こそは、あなたの期待を裏切らぬようにせねば、申し訳が立ちませぬ」
「いえ、あなたはよくやってくれていますよ。こればかりは私の本心です。いささかイレギュラーには遭いやすいようですが……それについて責められねばならないとすれば、私の采配の方でしょう」
事実、アンセルの存在はマリクに期待以上の結果をもたらしていた。きっかけは、ただ気紛れに引き入れただけの魔獣、単なるひとつの手駒程度に考えていた。しかしその在り方は、マリクが知りたかったものを見せてくれるようになった。
無論、彼は戦力としても期待以上の存在であった。もしも彼以外の牙帝狼ならば、フィオに勝利できていた可能性は低い。日に日に強くなっていくなど、既に成体となったUDBには、本来は考えられないことだ。
「と、私が言ったところで納得しないのがあなたですか。くく、そのプライドの高さは高位生物であるが故でしょうか? それとも、逆に……ヒトに近くなりすぎたのかもしれませんね」
「……どうなのでしょう。しかし、己の思考がかつてと違うことは、何となしに理解はしております。そして今の我は、それを好ましいとすら思うのです」
だからこそこうして、彼はヒトの似姿を得た。そこに嫌悪を持たず、むしろこの姿での技をも磨こうとしている自分に、誰よりも驚いているのは彼自身だ。
「アンセル。もしも、あなたに今すぐ力を授ける手段がある、と言えば、あなたはどうしますか?」
「……それが忠義の証、何もかもを捧げる覚悟を示すためのものであれば。……と、言うべきなのかもしれませぬが。申し訳ありませぬが、我は自らの力でこそ高みを目指したい。誰かに与えられた武で勝利したところで、意味はないのです」
戦いに意味を求める。それこそが獣にあるまじき考えであることを理解しながら、アンセルは続ける。ヒトでない自分だからこそ、ヒトに強く影響を受け、その在り方に強く憧れているのだと。
「我が儘であることは承知しています。しかし、それは我が敗れ、死した後にしていただければ有難い。あなたならば、屍から兵器を生み出すことも可能でありましょう」
「否定はしませんよ。ええ、それに、その我が儘こそが好ましい。そして、それを曲げた時には、あなたはきっと弱くなる。だから良いのです、我が儘で。むしろ、その我が儘を貫くために必要なものがあれば、遠慮などせずに要求してください」
マリクは、日に日に自我を確立していくアンセルを拒否しない。それこそが、彼の知的探究心を満たしてくれるが故に。アンセルとてそれは理解しており、だからこそ己の心に従い行動するようになっている。
しかしこの時は、常に威風堂々とした彼にしては珍しく、少しばかり言い淀んだ。
「ならば……マリク殿。我は、書物を読みたいのですが……」
「書物? 武術についてでしょうか」
「いえ……無論、それらにも興味はあるのですが。そうではなく、ありとあらゆる本を、無尽蔵に。学術書、専門書……雑学、物語。とにかく多くの本に触れる機会を得たいのです」
その要求には、さしものマリクも即答しなかった。単に、アンセルの言葉が彼にとっても意外だったからだ。その様子を見て、アンセルは言葉を続けた。
「興味が、あるのです。ヒトの築いてきた文化に。それに手早く触れるには書物が良い、とゲイン殿に言われましてな……」
アンセルは、此度の潜入に際して最低限の知識を得た。そのために文字を学び、読み書きもできるようになっている。そして、彼は知った。知識を得ることの喜びを。それはマリクの予想を超えて、彼に影響を与えていた。
しばし沈黙していたマリクだが、やがてこらえきれなくなったようにせせら笑い始める。
「くく……はははは、そう来ましたか! あなたが、力を得ることを生き甲斐としていたあなたが! 文化を得たいと、娯楽を知りたいと、そう言うのですか!」
「……申し訳ありませぬ。やはり、そのような時間は……」
「ああ、いえ……誤解しないでいただきたい。私は、嬉しいのです。あなたがそこまで変化したことが。いいでしょう、アンセル……いえ、アンセル・ベオルフ卿。ならば、あなたにも都合の良い話を伝えるとしましょう」
潜入の為に与えられた姓。孤高の戦士を冠した、捻りも何も無い、しかし彼に相応しき名。それを改まって呼ばれ、アンセルはたじろぐ。その反応を面白がるように、マリクは仰々しくその宣告を行う。
「あなたにはこれから、表舞台に出てもらいます。リグバルド帝国新生軍を率いる、ベオルフ将軍として、ね」
「我が……将、ですと? それは……ヒトの前に立ち、ゲイン殿やクライヴ殿と肩を並べろ、と?」
「ええ。あなたにはそれだけの力があり、器もある。意外と、傭兵の方々と比べればすぐに受け入れられると思いますよ? そうすればあなたは自由に外を歩ける。書物にも、それ以外の文化に触れるのも容易になるでしょう。不服ですか?」
「い、いえ……ですが、さすがに予想だにしておりませんでしたが故に」
「くく、時が来たと言うことです。あなたにはこれから、軍会議に参加していただきます。その場をもって、あなたにその身分を与え、知らしめる。月並みな言葉ではありますが、あなたの力が我らには必要なのですよ」
「……我の、力が」
「おだてているわけではありません。あなたにそんなものは不要でしょうからね。ですが、あなたは私の期待を超え、強さを得た。ならばこそ、私はあなたにふさわしい立場を与えます。そうして、あなたは真の意味で私の剣となる。力を貸してくれますね? アンセル・ベオルフよ」
「………………」
最初はただ驚愕していただけのアンセルも、主より与えられたその命令に、そして期待の言葉に、ゆっくりと口元を上げた。利用されているだけでもいい、それが自らを高める礎となるのならば。
「御意。我は、あなたの剣だ。それを振るう機会を与えていただけるならば、我が全てをもって応えましょう!」
その返事を聞き、仮面の奥でマリクはまた笑う。心から面白いと、そう思えた。
「……影の剣も動き始めた。ニールは天才だ。こと、何かの改良においては、私を上回っている。これからは、私でも全力で対処せねばならない事態も増えるでしょう」
だからこそ、使える力は全て使う。遊びの多いこの男も、己の目的のため、主のため、その信念だけは曲げる事はない。
「そして〈図書館〉……再び決起した英雄たち。小さくとも鋭い天の光。世界の流れは十分に加速した。火種は散りばめられた。ならば次は、炎を上げるのみ」
今までのような、生ぬるい遊びではない。これからは全力と全力がぶつかる、混沌の時代が始まる。
「期待していますよ、皆さん。私に……私と主に、我らの予想を上回るものを見せてください」