大蛇の憂鬱
「……ふう……」
リグバルド帝国、その中核たる王城――〈白陽宮〉。見るものを圧倒するような世界有数の建築物であり、歴戦の兵士をして絶対に攻めたくないと言わせるほどの堅牢な城塞でもある。
そして、その一室で、クリードは武具の手入れを行っていた。歴戦の傭兵たる彼は、全身のあらゆる部位に様々な装備を仕込んでいる。
圧倒的な剣術を修めていようが、それに慢心することはない。己の力は誇りながらも、もしも、が何重にも重なったケースにまで備える。その周到さが、彼の最たる強みだ。
だが、そんな彼であっても、さすがにこの数ヵ月の状況は異例だと思っているより。
(まさか、城の一室をそのまま貸してくれるとは、なかなかのVIP待遇じゃねえか。後でまとめて取り立てるつもりじゃねえだろうな?)
彼は傭兵として多くの稼ぎを得てはいたが、さすがに王城での生活などとは無縁だ。豪勢な振る舞いは嫌いではないが、行き過ぎていっそ居心地が悪いとも言えた。
(……にしても、呑気なもんだぜ、この国の奴らはよ。おたくら、戦争ふっかけてんだぜ? 世界中に。いつこの街が燃えるとも分からねえってのによ)
自由な行動が許されているクリードは、城内を歩き回る――仮にここを攻めるならばどうすればいいかを、知識として仕入れるためにだが――他に、街にもよく出掛けている。そしてその風景は、拍子抜けするほどに普通だった。いや、それを通り越して、平和だった。
情報が規制されているのは間違いないだろう。皇帝はまだ、民の前では理想の姿を演じていると聞く。だが、クリードからすれば、間近で起きている変化に気付かない様は、さすがに鈍感すぎるだろうと映った。
(ま、気付いたとしてどうするって話だがよ。皇帝サマが世界を支配しちまえば、もしかしたら本当に平和になるのかもしれねえな)
やがて企みが表に出た時は、世界が統一されればどうなるか、その魅力を、美点を、皇帝は語るだろう。民にそれを信じさせるカリスマは、恐ろしいことに本物だ。
そして、リグバルドが勝利すればその恩恵は事実となる。戦勝国の王は、自国民にとっては英雄にしかならない。自らに被害がなく、むしろ恩恵を得られているうちは、民は逆らわないものだ。
(ま、この国は金払いが良いし、今んとこ敵対する理由はねえ。上手いこと稼ぎゃ、しばらく何もせずに遊んで暮らせちまいそうだしな)
今のところは居残るに十分なリターンがある。傭兵とは、自分の利益が大きくなることだけを考えるものだ。そしてそれは、雇い主からしても同じだとクリードも理解している。
いかに上手く利用するか、それが主と傭兵の関係だ。クリードもそれは認めている。ただ、度を越した相手への制裁を欠かさないだけである。それを放置すれば、今後は安く見られてしまうからだ。
だからこそ、ローリスクハイリターンなのは胡散臭くもある。特に相手は、あの皇帝であり、あの魔人なのだから。引き際を誤れば己が身を滅ぼすことになるかもしれない、それは頭に叩き込んでおく必要がある。
そんな中、ノックが聞こえてクリードは手を止める。訪ねられる立場というものにはいまいち慣れない。返事をすると、現れたのは彼の雇い主である、黒衣の道化であった。
「よう、旦那。直接訪ねてきたのは、初めてじゃねえか? 何か自分で動いてたとは聞いたがよ」
「くく、なかなか連絡が出来ず申し訳ありません。私としたことが、少々不覚を取りましてね。あなたが戦った、あの銀の狼……覚えていますか?」
「あの兄ちゃんか……確かに、良い腕前だったがよ。それでも、旦那が不覚をってのはいまいち実感が沸かねえな」
「彼はあれで、本来の力を発揮できていません。元々、一騎討ちであれば私にも劣らないですよ、彼は。……だからこそ、面白い。陛下に進言してでも、殺さない価値がある」
「何かに利用するつもり、ってか」
「くく。一言で言えば、その通りですよ。主にとって最も重要な目的の為には、やはり彼が欲しい」
その言葉に、クリードは腕を組む。マリクと皇帝は、世界の支配を謳っている。だが、彼らは実のところ、それとは違う場所を見ているように思えた。主の目的が何であれ自分には関係ないが、その過程で不利益が出るのならば話は別だ。
「ご心配なく、彼に肩入れしていることと、彼が敵であることは別の話です。彼と戦う時には負けて死ねなどとは言いませんし、むしろ殺していただいても結構です。この前は無茶をしていただいた結果、ジョシュア氏が捕縛されてしまいましたからね」
「ま、ありゃあいつの身から出た何とやらだがな。それはどうでもいいが、あの兄ちゃんに勝たせるような采配をわざとしたりはしねえって事でいいな?」
「ええ。間もなく、舞台は次のステージに進みます。ならばこそ、こちらの全力すら跳ね除けられないのであれば、そこまでという話ですよ」
「オーケーだ。報酬とリスクが釣り合ってる間は、俺からあんたらの雇われを辞めるつもりはねえよ。敵に回してたらめんどくせえ事になりそうだしな」
マリクは間違いなく、ごく自然に嘘を吐ける人種だ、とクリードは理解している。だが、しばらく観察してみると、それとは違う側面も見えてきた。彼は真実もよく語るのだ。嘘をつくのではなく、真実を巧みに操ることで他者を扇動する。嘘と真、両方を使いこなすその様は、まさに一流の詐欺師と言える。
少なくともマリクはクリードを評価している、それは確かだろう。ならばその真意はさておき、クリードは己にとって最良の立ち回りを考えるだけだ。天秤はまだ、マリク達への協力に大きく傾いている。