つながった、心
「…………」
「…………」
少しだけ、会話が途切れた。別に気まずいわけではないのだが、向かい合ってみると、どう切り出したものだか分からなくなる。今さらと言われるかもしれないが。
だが、俺とは違って、彼女はどうやら何か躊躇っているようだ。
「……ねえ、ガル。あまり、聞かない方がいいのは分かってるけど……ミーアさんの事……」
「……いや。気になっているならば、話すよ」
何となく、察していたようだな。確かに、これを誤魔化していたままでは、俺たちは先には進めないだろう。
「お前の考えている通りだと思う。かつて俺たちは……恋人だったよ。彼女は俺を愛していると言ってくれたし、俺も彼女を愛していた」
「……過去形、なんだ?」
「俺たちの関係は、はっきりと終わりを告げられた。それは、最初に言っておこう」
ミーアが俺に与えてくれた、最後のもの。俺が余計なことで躊躇わずに済むように、彼女は俺の背を押してくれた。
「まだ、記憶が全て戻った訳ではない。だが、君は視たはずだ。俺が、どのような事をやってきたのか。大義の為に、どのような手段をとっていたのか。……その時に、俺が何を感じていたのかも、伝わっていたんだろう?」
瑠奈は頷く。自分の心まで見られているという事実、少し情けなくもあるが、話は進めやすい。
「俺は、自分を押し殺した。誰かがやらねば、無駄な犠牲が増えるのだと。こいつらを放置すれば、どこかで悲劇が起こるのだと。仕方ない、と言い聞かせて……多くの命を斬った」
仕方ないはずはないのだ。だが、その考えは、逃避の役には立った。そうしなければ、壊れてしまいそうだった。壊れてしまった方が楽なのかもしれなかったが、俺はそれが怖かった。もしかしたら既に壊れているのかもしれない……そう思いながらも、自分の根幹までは、望みまでは無くしたくなかった。
「だが、限界はあった。心は次第に磨り減った。だから俺は……それを、慰めてくれる存在を探したんだ」
「それが、ミーアさん?」
「ああ。俺とミーアは、互いにそういった存在を求めていた。その結果として惹かれあった。傷を舐め合い、拠り所と出来る存在として、互いを必要とした」
彼女の過去は分からない。本人は、必要のないものだと語っていた。俺たちも、詮索はしなかった。そこに辛い記憶があることだけは、分かったから。
「都合が良かったのだと思う。俺たちは、どこか似ていたからな。互いに求めているものとして在ることは、確かに安らげる関係であった。それが歪で、偽物であることに、二人とも気付いていたとしてもな」
「偽物って……」
「惹かれ合ったから愛したのではなく、惹かれ合える存在が欲しかったから愛したんだ。ぬるま湯のような奇妙な心地よさに溺れて、そこから出るのが怖くて……そういった利害関係で結ばれていたんだ、俺たちは」
支えあえる恋人がいる、自分はひとりではない……そう思い込めるだけでも、楽にはなった。どこか空虚さを感じることもあったが、それでも熱に溺れているうちは誤魔化せた。
「それでも……始まりがどうだったとしても、好きだったんだよね?」
「……そうだな。それは、否定しない」
瑠奈は鋭い。愛そうと努力をした結果の関係であっても……確かに、全てが偽物というわけではなかった。
「だが、やはり俺たちは、互いの理想を演じ続けていたんだ。愛したかったから愛した……その始まりがある限り、俺たちの関係は偽物以外になり得なかった。もしも俺が組織を裏切らず、全てが終わった後……一度関係を断ち切ってしまった後であれば、本物の恋人にもなれたのかもしれないがな」
「……よく分からないよ。複雑すぎて」
「俺も、そう思うよ。人の心は、複雑だ。時に、自分の心すら分からなくなるほどにな」
俺は、彼女との思い出を捨てることはない。偽りの関係でも、この思い出は本物なのだから。そこに未練を残すことはしないがな。
「彼女は、俺の事をよく分かってくれていた。だから、なのだろうな……背中を押されてしまったよ。今、俺の心がどこにあるかを考えろ、とな」
「…………ガル」
どれだけ言葉を並べたところで、俺が彼女を置き去りにしたのは事実だ。そこに言い訳はできない。だが、他ならぬ彼女に押された以上、踏みとどまるのは余計に侮辱だろう。
だから、ここからは……未来のための話だ。
「なあ、瑠奈。覚えているか? 君が、記憶を失った俺を家に迎え入れようとしたときに、何と言ったのか」
「……うん。私にとっても願掛けみたいな言葉だしね、あれ」
困ってる人に優しくするのは当たり前……当時は瑠奈の複雑な内面など知るよしもなく、その言葉は文字通りに受け取った。それはあの時の俺にとっては衝撃であり、初めはきっと、彼女に抱いたのは単なる興味であった。
今にして思うと、そうやって手を差し伸べてくれる存在の暖かさを……あの時のエル兄さんや院長を……心のどこかで覚えていたからこそ、俺はその手を拒絶しようと思えなかったのかもしれない。
「エルリアでの生活は、とても平穏で、暖かかった。教師としてみんなと関わる時間は充実していた。仕事から帰れば、楓の料理が迎えてくれた。君や暁斗と共に語らった。慎吾は色々と無茶もしてきたが、教師の件も含めて本当によく面倒を見てくれた」
俺は、幸せというものをふつふつと感じていた。だからこそ、比例するように過去への恐怖が沸き上がってきていたのも覚えている。
「興味が、友情に、信頼になっていき……そしてきっと、共に月を見たあの夜が、この想いが芽生えた瞬間だと思う。苦しんでいた俺を、君の言葉は救ってくれた。……俺を俺として受け入れてくれた君に、それ以上の気持ちを抱いたんだ。だが、俺は……」
そして……大会で俺は記憶の一部を取り戻した。過去から逃げることもできないと悟り、一人で旅立とうとした俺を、みんなは追い掛けてきた。最初はそれを喜び、だけれど次第に恐れるようになった。
「ずっと……怖かったんだ。俺が、君たちの全てを無理矢理に変えてしまったのではないかと。俺のせいで、君たちを死なせてしまうのではないかと。だからこそ俺は、どこかに壁を作ってもいて……だけどな、瑠奈。情けない本性を見せるなら、それもまた言い訳のひとつだったんだ」
「言い訳……?」
「もちろん、みんなのことも大事だ。だが、俺は何よりも……君を失うことを恐れていた。それは、戦いの話だけではない。君の心が俺から離れてしまうことが、君と共に過ごせなくなることが。……君に嫌われてしまうことが、俺は怖かったんだ。その恐れを誤魔化すために、最初から自分を下に置こうとしていた……俺のような男に、君が心を向けてくれるはずがない、と」
最初から期待をしなければ、少しは楽になる……そんな、情けない理論でしかなかった。だけど……だから、今は。
「言えなかった。大事で、愛おしくて、たまらなかったから。だが……もう限界だよ。我慢していたのに、他ならない君が、俺を引っ張ったんだぞ?」
あの時……あの空間で、俺を叱責した瑠奈。彼女は、俺の心から現実へと戻るその瞬間、その言葉を口にした。……それを聞かされてもなお、そんな諦めに逃げることは、俺にはできない。
「もう、目を背けられない。俺は、そこまで無欲になどなれない。自分の最も望んでいるものに手が届くと分かったのに、見ない振りを続ける事など、耐えられない」
何よりも愛しくて、何よりも大切なもの。俺に……居場所を与えてくれた人。君のことが、俺は。だから――
「君が好きだ、瑠奈」
――あの時から、ずっと溜め込んできた想い。それは、とても単純な言葉になって、溢れる。
「仲間として、友としての信頼、それも勿論ある。だが、それ以上に、一人の男として。君という女性のことが、好きなんだ」
「……ガル、フレア……」
ずっと躊躇っていた事が馬鹿らしくなるほどに、すんなりと出てきたその言葉。俺は、半ば無意識のうちに、彼女をそっと抱き寄せていた。
「君といると、俺は貪欲になる。……死にたくないと、本気で思った。最悪の場合は、俺が死んでも君が生きていればいい……そんな自己犠牲は、嘘っぱちでしかなかった。生きていたい。生きて、君と共に過ごしたい。そう、思ったんだ」
もしも昔の俺ならば、与えられる死を受け入れていたかもしれない。だが、今の俺には無理だ。知ってしまったから、この幸福を。大切な者と共にある安らぎを。
「死にかけて、ようやく気付いた。……幸せなんだ。幸せで、たまらないんだ。君と共に過ごす時間は、何よりも。自分がどれだけ満たされていたのか、無くしそうになって分かったんだ」
これを無くすと思ったら、耐えられなかった。幸せになる資格がないなどと、今さら言えない。求めていいのならば、いくらでも願いはあるのだと気付いた。
「いつか、君は言ってくれたな。俺もまた、君の日常の一部なのだと。俺がいない日常は、もう考えられないのだと……俺にとっても、そうだった。君がいない日々など、俺にはもう有り得ない。君がいてくれたから、俺は……ここにいる」
他のどんな理由でもない。俺が、そう望んでいる。だから。
「……もう、離せないからな。君に伝えたい言葉がある。君と作りたい思い出がある。君と為し遂げたい夢がある。どれだけの時があろうと足りないほどに、いくらでも。だから、これからもずっと、君と共に生きていきたいんだ……俺は、君の隣にいたいんだ!」
……語り尽くせないこの気持ち。それでも、伝えるべきことは、伝えたと、思う。
少しだけ、静寂が部屋に満ちる。抱き締めている彼女の鼓動が、伝わる。きっと俺の鼓動も……この胸の高鳴りも、伝わっているのだと思う。
「……あなたは暖かいね、ガルフレア」
ぽつりと、瑠奈はそんな事を口にしながら、俺の胸に体重を預けた。
「あなたが側にいてくれるとね、私はすごく安心できるんだ。あなたは逞しくて、優しくて……とても、暖かい気持ちになれる」
「……瑠奈」
「……私もさ、ずっと怖かったんだ。私は大した力もなくて……あなたみたいな強い人に、受け入れてもらえるのかって。だからずっと、気付いていない振りをしてた。自分にまで嘘ついてた。それを認めちゃったら……今まで通りにいられない気がしてさ」
「……そう、だったのか。いつから、だ?」
「きっと、凄く早い段階から。少なくとも、大会であなたに助けられたあの時にはもう、本当は気付いてたかな」
つまりは、自覚したのはお互いにあの時、か。
「……よく考えたら、現実ではちゃんと言ってないんだよね。改めて、になっちゃうけど……」
瑠奈は、うっすらと笑って、俺を見た。俺の大好きな、とてもいとおしい、彼女の笑顔。
「私も……あなたの事が大好きだよ、ガルフレア。家族だとか、もう一人のお兄ちゃんだとか、そういうので誤魔化してきたけど……そうじゃなかった。私はあなたに……ガルフレアって男の人に、恋しちゃってたんだ」
あの空間でも囁かれた、俺に向けられた好意の言葉。そう、あの時、彼女はこう言ったんだ。『私は、あなたを愛している』と……ああ。今、俺はとても……満たされている。
「何故だろうな……二回目だと言うのに、とても新鮮だ。何度でも、聞かせてほしくなる」
「……私は、まだ信じられないくらいだよ。ずっと、片想いだって……考えてたからさ」
「ふふ……酷いものだな、本当に。君以外の全員がすぐに気付いてしまったと言うのに、当の本人がこれだ」
「それを言うなら、私だってコウには気付かれてたよ。たまに言ってたのだって、本当は本気だったんだから……お互い様じゃない?」
そこまで口にしてから、瑠奈は可笑しそうに笑った。
「お互いに、馬鹿だったんだね、私達。自分の事に手一杯で、相手の事に気付けなくてさ。しかも、どっちも同じような事考えて」
「そうだな……俺は、大馬鹿だ。ここまで来てくれた君達に対して、まだ、自分がここにいていいのか、などと考えていたんだからな」
答えなど、俺がひとりで考えるまでもなかったじゃないか。俺の居場所は……ずっと、ここに。
抱き締める腕に、力が籠った。瑠奈も、応えるように強く抱き返してくれた。
「ずっと……こうする事を望んでいた。本当に、ずっと」
「……うん、私も。あなたとこうしていられたら、どんなに素敵だろうって……ずっと、夢見てたんだよ?」
俺の望み、彼女の夢。それは全て、現実に。胸の中から、何かが溢れだしているような感覚だ。
「俺は、ここにいても良いんだな? 瑠奈……君の、側に」
「私こそ、だよ。ガルフレア……あなたの隣に、私はいたいんだから」
そして、俺たちはゆっくりと、導かれるように、互いの口を近付けた。触れあう感触。彼女の感触。とても、柔らかい。
「ん……」
獣人である俺と人間の瑠奈では、どうしても口付けは不格好になる。だが、それでも俺にとって、たまらなく甘美なものに感じられた。
それは多分、ひとつの形になったからだ。やっと、望んでいたものが手に入った、それを示すための、ある意味での儀式的な行為。
唇を合わせていた時間は、実際は数秒程度だと思う。俺からすれば、彼女を想い続けてきた時間と変わらない程に長く感じられた。
やがて、静かに離れた俺たち。瑠奈は照れたように笑っているし、多分俺も同じような顔をしているのだと思う。
「……ところで、今の言い種であれば、現実で先に告白したのは俺の方、という事で構わないか?」
「む。それはちょっとセコい気がするんだけど」
「悪いが、この部分はあまり譲りたくはないな。男としての矜持、と言うものだ」
「……ほんと、意外と子供っぽいとこあるよね」
「男はいくつになってもそういうものだ。下らないと思うような話でも、拘らずにはいられないのさ」
冗談めかして、そう答える。瑠奈は少しむくれていたが、そんな姿すらいとおしくて……気が付くと俺たちは、ほとんど同時に笑い始めていた。
「……ふふ」
「あはは……」
いつ以来なのだろうか。こうして、本当の意味で自分をさらけ出せるのは。
互いに理想化した姿でもなく、片意地を張るわけでもなく、自然な姿。そう考えると、俺は今までどこか、仲間に対しても、常に気を張り続けていた部分があったのだろう。
「一緒に、歩いていこうね、ガルフレア。きっとこれから、大変なことだっていっぱいあるけど……私たちで、分けあっていこう?」
「ああ。この先に何が待ち受けていたとしても、この赤牙のみんなとなら……そして君となら、俺はどこまでだって、突き進んでみせよう!」
手放してなるものか、この幸せを。この先に何があろうと、絶対に。
俺は、みんなと共に戦う。庇護の対象などではなく、一緒に苦難を背負い、乗り越える仲間として。
――俺の確かな居場所は、ここにあるから。俺の道標が、ここにいてくれるから。
俺はもう、迷わない。自分の道を、間違えはしない。皆で歩いていく世界のために、俺は戦おう。その先にある未来を、今ならば信じられるから。