決別は口付けと共に
「どうやら、本当に迷いは無くなったようね。この前のあなたならば、言い負かされていたかもしれないけれど」
シグルドが去って、黙って俺たちの話を聞いていたミーアが口を開く。……二人きり、か。
「まだ、どうするべきかは定まっていないがな。それでも、一人で考え込んで動けなくなるのは、もう止めたい。俺はただ、正しいと思った通りに進むだけだ」
「正しいと思っているだけで、間違えているかもしれないわよ?」
「そうだな。だが、それを言っていたら、何もできなくなってしまう。だから、その時に正しいと思えることを、信じていく。何が正しいか、何をしたいのか……それを考えることを、止めずにな」
生きている限り、選択は必要だ。少なくとも、間違えるかもしれないと恐れて、何もしないのは違う。下を見続けるよりは、前を向いて歩いていきたい。
「……ふふ」
「どうした?」
「あなた、変わったわね。でも……それと同じぐらい、変わらないわ。私が愛したあなたのままよ」
「………………」
胸に、ちくりと棘が刺さる。俺は……恋人であった彼女にも、何も言わずに離反した。無論、離反の計画など周囲に漏らせる筈もなかったが、それでも。
「君には……どれだけ謝ったところで、許されないとは思っている。何を言っても、言い訳になるだろうが」
「そうね。隠し事をするなと言っていたのに、黙って私を置いていった。あなたは酷い男よ、ガルフレア。そして……あなたがどんどん思い悩んでいる事に気付いていながら、それを止められなかった私も、酷い女ね」
くすりと笑うミーアの言葉は、俺には意外なものだった。彼女には恨む権利があるだろうに、自分に非があるような言い回しをするなどと。
「ある意味では、お互い様なのよ。私たちは、互いに理想になろうとして、けれどなれなかった。もしも私があなたの理想になれていたら、また違っていたのかもしれない」
「……だが、行動を起こしたのは俺じゃないか。恨んでは、いないのか?」
「難しい質問ね。あなたの離反は、私たちの計画に大きな影響を与えた。けれど、その一方で、どこまでもあなたらしい行動だと納得もしてしまったわ。赤薔薇としては恨んでいるけれど、ミーアとしては恨んではいない、とでも言うべきかしら」
「………………」
「勘違いしないで。恨んではいないけれど、怒ってはいるわよ。何しろ、それで新しい道を進もうとしながら、また同じ失敗をしようとしていたんだから。あまりにも見ていられなくて、発破をかけに行ってしまったわ」
先日の、ギルドでの会話か。あの時に彼女が語っていた男は、やはり俺だった。改めて考えると、それを張本人に向かって語った彼女は、いったいどのような気持ちだったのだろうか。
「あなたは本当に世話の焼ける男よ、ガルフレア。人一倍優柔不断なくせに、いざという時は腹立たしいほどに行動力がある。自分の身には何があってもいいと考えていて、言ってしまえば自虐的で自己中心的。それが周囲にどう思われるかなんて顧みもせずに、あなたは自分を苦しいところに置いてしまう。隣にいるのはとても大変だったのよ?」
「……返す言葉もないな」
「ふふ。そんなあなたを愛してはいたのだけれどね。でも、あなたと私の関係が元通りになる事は、決して無いのでしょう? 敵だとか、味方だとか、そういう事の前に……あなたは、本物を知ってしまったみたいだから」
「ミーア、俺は……」
「言ったでしょう? 私は、あなたの事を、よく知っているもの。あなたが寝ているうちに、あの子とも話をした。分かるわよ、そのぐらいは」
ミーアは、気付いている。エルリアに転移した後の時間を過ごしてきた俺が……彼女に心を奪われてしまった事に。
……記憶が無かったとは言え、それは男としては最低の行為だろう。恋人がいながら、他の誰かに惹かれるなどと。
「言っておくけれど、余計に思い悩まないことね。私の記憶が無かった以上、それを不誠実とは思わないわ。ふふ、本音を言えば、忘れないでいてくれると嬉しかったけれど……偽物の恋仲でそれは高望みと言うものね」
「……偽物、か……」
「自分の心に素直になりなさいな。私のことを思い出した今、あなたの心はどこにあるの? それが答えではないかしら」
俺の、心……俺の、居場所。
「真面目すぎるのも困りものね。私たちの関係がどういうものだったかなんて、始めから分かっていたでしょうに」
「……それでも俺は、君の恋人だったんだ」
「そうね。だからこそ、半端なことはしないでちょうだい。あの子は、あなたの隣にいることを望んでいる。私を理由に泣かせるのなど、それこそ怒るわよ。そこまで都合のいい女になるつもりはないわ」
「……済まない……」
都合のいい……か。そう、だな。お互いに、都合のいい女で、都合のいい男だったのだろう。ただ……それで終わりたくなかった、と思う程度の特別な気持ちは、確かにあったんだ。
そうして、俯いていたものだから。彼女が近付いてきていたことにも、気付くのが遅れた。
「そんな顔をするものではないわ。本当に、仕方のない人ね……」
「……ミーア? 何、を――」
さすがに、その次に彼女がしてきたことは、予想だにしていないものだった。
おもむろに、ミーアは俺の頭を抱き寄せ……俺に、口付けをしてきたのだ。
「…………ん……」
俺は思わず目を見開くが、それを払いのける気にはならなかった。力を抜いて、身を委ねる。かつて……そうしていたように。
数秒の後、ゆっくりと離れるときに感じた寂寥は、彼女と過ごした過去に対する未練だったのかもしれない。
「これは、私の最後の心残り。同時に、あなたに最後にしてあげられる事よ」
「……ミーア……」
「さようなら、ガルフレア。意味は、分かるわね?」
たまらなく優しい、決別を告げる言葉。彼女の意図は、確かに伝わった。俺もまた、彼女の事をよく知っているから。
……本当に情けない男だな、俺は。全て、彼女に任せてしまった。ならば、せめて……最後くらいは、俺も。
「ミーア。俺たちは、確かに偽物だったのかもしれない。だが、俺がお前を愛して、お前も俺を愛してくれた、あの時間は……偽りではないよな?」
「そうね……」
「それなら、良いさ。記憶のない俺が言うのも変かもしれないが……俺は、君との時間を二度と忘れはしない。だから……さようならだ、ミーア」
ああ。これは、精算だ。彼女は、俺に精算させてくれたのだ。それは彼女自身の精算でもあるのだろうが……一方的なものではなく、双方の合意での別れ。これからを歩んでいくための、儀式。
ミーアはただ、静かに笑った。その笑顔は、薔薇のように妖艶で……とても美しかった。
「ガルフレア。あなたがどのような道を選んでいくかは、好きに決めるといいわ。でも、私たちの覚悟は甘くはない。それは忘れないことね」
「分かっているさ。ならば俺は、諦めずに向かい合い、考え続けよう。俺たちはまだ、ここにいる。道は、選べるのだからな」
夢物語だと言われるかもしれない。だが、俺は知った。夢を切り捨ててしまえば、本当の望みなど叶えることはできないと。だから俺は、願い続ける。いつか、彼女たちともまた、共に生きることができるのだと。
「ふふ。次に会うとき、敵か味方かは分からないけれど……また会いましょう、ガルフレア」
「ああ。君も元気でな、ミーア。……ありがとう」
見ていろ、シグルド、フェリオ、ミーア。俺は、あがき続けてみせる。俺が望む、俺の未来、理想の世界。それを現実とするために。