大切な日々を、また
「…………う……」
目を、開いた。ぼんやりとした明かりが、眩しい。
白い壁、うっすらとした明かり。……いつかも、こんな事があったような気がする。どうやら、あの時よりも状況は悪そうだが。
「こ、こ、は……ぐっ……」
胸の激しい痛みに、俺は牙を噛み締める。
心臓が、締め付けられるようだ。苦しい……息が、うまくできない。目が回って、まともに身体が動かない。言ってしまえば、最悪の気分だった。
それでも……生きている、のか、俺は。
「……ガルフレア……?」
「…………!」
聞こえてきた声に、俺は身体を起こそうとするが、上手く力が入らずに断念する。視線だけを動かすと、やはりそこには、俺のよく知る男が……深紅の狼人がいた。その顔は、憔悴しきっているように見えた。
「ウェア、ルド……」
「…………っ!!」
掠れてしまったが、かろうじて声は出せた。座っていたウェアルドは、まさしく飛び上がるような勢いで立ち上がった。
「ガル、俺が分かるんだな? ちゃんと見えているんだな? 身体は? 大丈夫なのか!?」
「……ひどく、苦しいが……どうやら……大丈夫、では……あるようだ、な……」
ウェアにしては珍しく……本気で慌てたような、その姿。徐々に回り始めた思考が、自分の様子を伝えてくれた。
身体中、ガタが来ているようだ。だが、あの攻撃を喰らった瞬間と比べれば確実に回復しており……意識も、はっきりとしてきた。
「……そう、か……俺は……助かった、のか……」
生きている。俺は、生きているんだ。致命傷を受け、卒倒して……みんなが、俺を助けてくれたのか。
自分が死にかけていたのだという事を改めて感じ、身震いしそうになる。――そんな思考が途切れたのは、雫が落ちてきたのに気付いたからだ。
「良かっ……た……」
「ウェア……?」
「お前が、いなくなって、しまうのでは、ないかと……俺は……」
ウェア。泣いているのか……?
「お前……あれから、三日間も……意識が、ないままで……このまま、目覚めなかったら、と……」
三日間も、か。あのような状態であったのだから、むしろ、三日程度で目覚めた方が奇跡的と言うべきかもしれない。
「ありがとう……ありがとう、ガルフレア……俺を……置いていかないで、くれて……」
「! …………」
置いていかないでくれた、その言葉が胸に残る。……彼は英雄だ。かつての戦いで、どれだけの経験をしてきたのかは俺にも想像すらつかない。だが、何度となく離別の経験があることは、簡単に予想できる。その姿と俺を重ねて……いや。
俺だから、彼は泣いてくれているのかもしれない。仲間として……そして……いや。これは、後だな。今は、それよりも、言うべき言葉がある。
「……あり……がとう……それを言うのは、俺こそ、だ。……心配を、かけて……すまなかった」
「……ああ、全くだよ! お前をどれだけみんなが心配していたと思っている? フィオなど自分も入院が必要な身体なのに、何度も様子を見に来て……本当に……本当に、世話が焼けるやつだ、お前は……!」
泣きながら、笑って、怒って。……この人も、こんな顔をするんだな……その事実が、とてもかけがえのない事を知れたように思えた。死の淵から帰ってきたばかりで、感傷的になっているのもあるかもな。
ふと、後ろから手を叩く音が聞こえた。
「ウェアルド、気持ちは分かるけれど、彼はいま目覚めたばかりなんだ。喋るのも辛いだろうに、無理をさせるものではないよ」
「は……そ、そうだな。済まん、ガルフレア」
「……いい、さ。嬉しい……からな……」
上手く笑えたかは分からない。だが、それでウェアの側も少しは落ち着いたようだ。次いで、俺の視界に先程の声の主が入り込んできた。
「ラッセ、ル……」
「あまり喋らない方がいい。つい先刻まで、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだから。……よく目を覚ましてくれたね、ガルフレア。私も嬉しいよ」
ラッセル・エルステッド。コニィの父。短い黒髪がその誠実な性格を表しているかのような、娘と同じく真面目な人間の男。それと同時に、優れた技術を持つ医者であり、バストールを訪れてからは、記憶の事も含めて様々な面で世話になってきた。今回も、助けられたようだな。
「ラッセル……ありがとう。ガルが目を覚ましたのは、お前のおかげだ」
「それが私の役目だからね、礼には及ばない。娘の友人を救い出せたのだから、それで十分だよ」
「と、こうしてはいられんな。早く他の奴らに知らせなければ……」
コニィの話が出たからか、思い付いたようにウェアルドは立ち上がる。――その瞬間。彼は、倒れ込んだ。
「……っ……」
「な……ウェア……!?」
「……君まで倒れるのは勘弁してもらいたいところだけれどね。三日間もあんな無茶を続ければ、当然の話だろう」
「……無……茶?」
ラッセルは溜め息をついた。どうやら、ウェアルドが倒れた理由に検討がついているらしい。ウェアはやはり、ひどく疲れたような顔をしていた。
「ウェアルドは、力を使ってずっと君の治療をしていたんだ。定期的に無理やり休ませていたけれど、そうじゃなければ本当に不眠不休で君の側にいようとしたからね」
「……ウェア、の……力……大丈夫、なのか?」
「……あまり気にするな。治癒は専門ではないが……ちょっとした、裏技のようなものだ。……身体の方も心配はいらん。少し目眩がした程度だ」
口ではそう言いながらも、起き上がったウェアルドはかなりよろよろとした動きで……ひどく憔悴しているとは思っていたが。基本的にPSは心身の消耗を招く。彼ほどの男がここまで辛そうだということは、よほど無理を続けたのか。
……ウェアの、力。俺を治癒した力、か。彼は、俺の命を救うことができる力を持っている……。
「ギルドの皆さんへの連絡は私がしよう。仮眠室を貸すから、君は少し眠ってくるといい。ついでにあの子を起こしてくればちょうど良いだろう?」
「……そうした方が、良さそうだな。ガルフレア……とりあえず、今はお互いに休もう。後で、ゆっくりと話せるんだ。いくらでも、な」
「………………」
声をかけようとして、止めた。ウェアの言うとおり、この話はじっくりと……時間があるときにしたい。今は正直、目を開けているだけでも辛いからな。
ゆっくりと、扉が閉まるまで、俺はその背中を見送った。
「さて……色々と気になっていると思うけど、細かい話は後の方がいいだろう。とりあえず、全員が無事に帰ってきている、というのは伝えておこう」
「……そう、か……良かった」
「一番重傷だったのは君だけどね。自分でも分かっているとは思うけど、さすがにしばらくは入院だよ。フィオも一緒だけれど、彼は頑丈だから、君よりは早く退院するだろうさ」
フィオは……恐らく、あの後アンセルと戦ったのだろうな。怪我はしているようだが、無事で何よりだ。そして、アンセルの側はどうなったのだろうか。……敵ではあるが、彼は俺を友と呼んだ。どこかで無事であってほしいと望んでしまうのは、おかしな話だろうか。
敵……友。そうだ、彼らは。
「……シグ、ルドと……ミーア、は……?」
「あの二人もまだ君の様子を見に来ている。色々と複雑な立場ではあるようだけれど……彼らの転移技術があったからこそ君を救うことができた。だから、赤牙の総意で、今はお互いに何もしないという話になっているそうだ」
そうか、傷付いた俺を空間転移で送ったのか。シグに救われたのは、大会も含めてこれで三回目になるな。ここにまだ残っているのは……俺の生死が影響する事柄が、多少なりともあるからだろうか。それ以外の理由があってくれれば嬉しい、などと、とりとめの無いことも考えてしまうが。
「何にせよ、あまり不安がる必要もない。あと、返事は無理にしなくていい。まだ息をするのも辛そうだ」
俺は、素直にその言葉に従って、ベッドに身体を沈めた。
ラッセルは、かいつまんで俺の状態を説明してくれた。自分でも何となくは理解しているが、心臓を筆頭に臓器が深刻なダメージを受けていたらしい。マリクのPSは、改めて恐ろしいものだった。
耐えられたのは……月の守護者のおかげか。記憶が戻った事で力を取り戻して、活性化を果たした俺のPS。それにより、奴に蝕まれた身体が多少なりとも動くようになった。
あの時の俺は、どう考えても動けない身体で立ち上がった。気合いだけでどうにかなるものではなかったのに、だ。ならば……生命力を高める力が強くなったおかげで、俺の残り僅かだった命を燃え上がらせることができたのだろう。そうでなければ、そのまま死んでいたかもしれない。
「ウェアルドと、それからコニィがずっと力を使い続けていたからね。それでもかなり楽にはなっているはずだ。昨日には容態も安定しはじめたから、コニィはウェアルドより先に休ませているけれど」
そうか……本当に、感謝しなければな。
「もちろん、二人だけではないよ。アゼル博士も君のために薬を作ってくれた。他のギルドメンバーだって、ずっと君の事を気にかけていた。私が止めなければ、全員でここに居座っていたかもしれないね」
「………………」
静かな時間が流れていく。俺はじっと天井を眺めていた。身体は休息を求めているのか、眠気が押し寄せてはいるが、まだ眠りたくはない。……本音は、少し怖かった。眠ってしまうと、そのまま目覚められないような気がして。生きているという実感を、もっと味わいたい。そのために。
「……ウェア、に」
「ん?」
「起こして、くれば……ちょうどいい、と言った。ギルドの誰かが……眠っていたのか」
電話をとって、恐らくはギルドに連絡しようとしていたラッセルに、そう尋ねる。
一刻も早く、仲間の顔を見たかった。そして、声を聞きたかった。一人でも多くに……俺がこの世界に生きている事を、俺の持つ繋がりを確かめたかった。
ラッセルは、俺の問いに優しく笑った。
「君の側に、どうしてもいたいと言われてね。彼女が代表として残ることになった。ただ、まともに休憩もしなかったから、無理やり休ませていたんだ」
「………………」
「さて……その表情を見る限り、誰のことかは予想できているみたいだね?」
そんな問いかけと、どちらが早かったか……病室の扉が、凄まじい勢いで開いた。
「…………!」
「気持ちは分かるけれど、病院内ではあまり慌てたら駄目だよ」
「ご、ごめんなさい……でも……」
現れた少女は、息を切らしてラッセルに謝罪をしながら、俺の方を見た。身体は起こせないが、視線が交差した。俺の目が開いていることを、意識が戻った事を、認識したらしい。
「……ガル……」
「……瑠、奈」
どこか、呆けたような表情を浮かべたまま……彼女はゆっくりと、俺のベッドの側まで歩いてくる。
「夢じゃ……ない、よね?」
「……夢、じゃ……ないさ」
夢みたいだ。だけれど、現実だ。それを確かめるために、俺は手を伸ばした。彼女と、手を繋ぐ。あたたかい。
「生きてる……生きてる、んだよね?」
「言った、だろう? お前と……生きて、帰ると……な。俺は……お前には……嘘は、つきたくない……からな」
危うく、引きずり込まれそうになった闇。だが、俺はまだ、何も成していないから。何も伝えていないから。だからこうして、帰って来た。彼女の元へ。俺の……大切な人の元へ。
瑠奈の瞳から、ゆっくりと涙が溢れ始める。
「あ……あれ、ご、ごめん、なさ……い。わた、し……」
「………………」
「ちょっと……ちょっと、待って……。あなたが……起き、たら……笑おう、って、決め……てたのに……」
俺は、ゆっくりと手を動かし、彼女の頭を撫でた。身体はきついが、今はとにかくこうしたかった。
「ごめん、な。心配を、かけて……でも、悪いけれど、俺は……嬉しい。君が、俺を心配して、いてくれたことが。俺のために、泣いてくれていることが」
彼女の全てが、一挙一動が、たまらなくいとおしい。慰めながら言うには少し意地が悪いとは思うが、この涙が俺のものだと、俺のためのものだと、そう思うと……。
「泣いていても、笑っていても……いいんだ。側にいてくれれば……それだけで。……ありがとう。俺を、待っていて、くれて」
「そんなの……当たり前、だよ! だって……ここが、ガルの、帰ってくる……場所なんだから……!」
俺の、帰るべき場所。ああ……そうだな。赤牙のみんなが、ウェアルドが……君が。それがきっと、あのとき手を伸ばした光。君たちという道標がいてくれたから、俺はここに戻ってこれた。
「ただいま……瑠奈」
「……うん。おかえりなさい……ガルフレア!」
ただいまと、おかえり。その言葉で、ようやく実感できた。
俺は……帰ってこれたんだ。また、この場所に……この、日常に。この手のぬくもりがあれば……俺は、この場所を見失わない。
訪れた安堵に押し寄せてくる眠気に、俺は今度こそ穏やかな気持ちで身を委ねたのだった。