決壊
「……誰だ」
「あ、良かった、起きてる。入るね?」
瑠奈の声――それに全身がざわりとするが、そんな事を知るよしもない彼女は、そのまま入ってきた。濡らしたタオルを持っている。
「ガル、調子はどう? さっきまではよく眠ってたみたいだけど」
「……熱は、幾分下がった。明日には、起きられる」
「そう? でも、無理しちゃ駄目だよ。またぶり返してもいけないし」
「気にするな。そう何日も、休んでいられない」
俺を看病しようとして、来てくれたようだ。だが……先ほどまでの夢が、重なる。違うんだと分かってはいるが、心のざわつきが消えてくれない。
「ご飯は食べられそう? 大丈夫なら持ってくるけど」
「今はいい。落ち着いてから、自分で取りに行く」
「そう……? でも、取る時は呼んでくれていいよ。すぐに起きても良くないって」
棘のある言い方になっている自覚はあった。これでは駄目だ、落ち着いて、話さないと。
「今日の仕事は、大丈夫だったか」
「あ、うん。大した事もしてないからね。明日もこんな感じみたいだから、ほんとに無理しなくていいんだよ? ……ほら、さっきよりは確かにマシだけど、やっぱりまだ熱いし」
俺の頭を扱いながら、瑠奈は咎めるようにそう言ってくる。
「そういう訳にもいかない。何日も横になっていては、技が錆び付いてしまうからな」
「…………」
俺の答えに、瑠奈は少しだけ考え込むような素振りを見せる。そして次に、こう言った。
「ねえ、ガル……そこまで急いで頑張らなくても、いいと思うよ?」
「……何だと?」
「いや、ガルが色々と大変で、悩んでるのは分かるけどさ。何だか最近は、頑張りすぎてるんじゃないかなって、ちょっと心配なんだよ?」
――分かる?
分かると言ったのか、彼女は。俺の……俺が、何に悩んでいるのか。どうして、こんなに苦しいのか……彼女、に?
何気ない言葉。そのはずなのに、頭の中に反響する。分かっているのならば……どうして。どうして、君は――。
「私たちだって、頑張るからさ。だからガルだって、休んだ方がいい時ぐらいゆっくりと……」
「何が、分かると言うんだ」
「……え?」
熱い。俺は……待て。俺はいったい、何を。
「何が分かっているんだ。君が俺を分かっている? 笑わせるな。君が、俺の何を分かっていると言うんだ!」
「!」
違う。違うだろう。俺は、何を言っている?
「君は、記憶を失った事があるのか? 自分が何者かすらも分からない不安を味わった事があるのか? 自分の過去が、自分の、仲間の命まで脅かすかもしれない恐怖が……本当に分かったつもりでいるのか?」
「ガ……ガル……?」
「君に……分かるわけがない。分かっているはずがない! 勝手に理解者のような顔をするな! 何が、自分たちも頑張るだ。君は、俺の気持ちなど……何一つ、理解してくれていないじゃないか!」
そうじゃない。こんな事を言うべきじゃない。彼女は、倒れた俺を気遣って、看病しようとしてくれていたんだ。俺を心配してくれていたんだぞ。それなのに……どうして止まらないんだ。身体が熱い。全身が震えている。
「ガル……だって、私は……どうして、そんな……」
「勝手に期待を押し付けないでくれ。俺は、君が思っているような男ではない! 俺は、そこにいるだけで争いを呼び込む存在だ。ただのろくでなしなんだ!」
「そ……そんな事は、ない!」
「あるだろうがッ!! 現に、俺が現れてから、君の日常はどうなった! ずっと、ずっと普通に暮らしていた君たちの平穏を! 幸せを! 俺が、全て壊したんだ!!」
熱い。熱くてたまらない。抑えられない。溜まっていた何かが、どうしようもなく荒れ狂っている。
「どうして……どうして、今さらそんな事を言うの!? あなたがいなければ、私たちはあの時に死んでいた! 何度も言ったじゃない!」
「マリクは、俺があの会場にいた事を最初から知っていた! ティグルにあの大会を標的とさせたのも、俺のせいだとすればどうするんだ!?」
「そうやって、何もかも自分のせいにして! あの人たちは、あなたがいなくても色んな国を襲っているんだよ! アガルトの事まで自分のせいだって言うつもり!?」
「そうではないと、言い切れるか!? 俺が行ったから、マリクが現れ、より本格的な作戦を実行したとしたら! 俺がいたから、砦におびき寄せ戦闘させたのだとしたら!」
「そんな……いくらなんでも、馬鹿げてる!」
「ああ、我ながらそう思うさ! だがな、そんな馬鹿げた妄想が……俺のせいでもたらされる悲劇が、いつ現実になってもおかしくはないんだ!!」
これから、リグバルドは本格的に動く。それに相対する彼らも、また。ならば、俺の存在に彼らが干渉する事も増えるかもしれない。俺を生かしている理由のひとつには、リグバルド相手に利用する事はきっと含まれている。
かもしれない、可能性の話だ。だが、0%でないのならば……それを笑って切り捨てて、悲劇が起こったとしたら……。
「敵は、国なんだ……途方もなく大きい、軍事国家なんだ! 君は、分かっていない。それがどれだけ絶望的な話であるのか! なんとかなると、君たちはそう楽観視しているだろう!?」
「そうじゃ、ない……私は、ただ、あなたと、みんなと一緒なら、って……!」
「それが楽観視と言っているんだ!! 俺がいたから、何が変えられる……! 数名が力を合わせたところで、どこまで抗える!」
そうだ。当たり前のことだ。強くなる? 護りきる? 本当は、とっくに分かっていたはずだ。そんなこと……一人でどうにかできるものでは、ないのだと。
「護りきれるはずなんて、ない」
「え……」
「どうしてあの時、俺は感傷に流されたのだろうな。君たちの優しさに甘えてしまった結果が、この体たらく……国との戦いにまで、君たちを巻き込んだ。護るだと? 馬鹿げている。……俺は、最初から君たちを頼るべきではなかった。こんなところまで、連れてくるべきではなかった!」
「……ガルフレア。自分が何を言ってるのか、分かってるの……?」
瑠奈の声が、掠れていた。……駄目だ。言ってはいけない。これは、彼女たちに対する最大の侮辱だ。言うな。止まれ……。
「君たちをこの国に連れてきた事そのものが間違いだ、と言った。子供の覚悟を真に受けて、それに甘えた俺は、本物の馬鹿だった、とな」
「――――――」
瑠奈が、ついに言葉を失った。……急に、全てがどうでもよく感じた。何も考えたくなかった。誰の顔も見たくなかった。
「俺の心を、弄ぶな。俺をおかしくするな。俺を……俺は!」
知りたくなかった、こんな暮らしを。こんな安らぎを。知らなければ、ここまで苦しまずに済んだのに。
「出ていってくれ。一人に、してくれ」
「ガル。私、は……」
「二度言わせるな!! 出ていけ!!」
まだ追いすがろうとしていた彼女に向かって声を張り上げ、俺はそのまま背を向けた。……少しして、外に向かっていく足音が、続けて部屋の扉が力なく閉まるのが聞こえた。
それでも、振り返る気にもなれなかった。ベッドに横になり、目を閉じる。当然ながら、眠れるはずもなかった。
「………………」
様々な感情が頭の中を駆け巡り、自分でもわけが分からない。頭の中で、自分が何人にも分かれてしまったかのように、整理がつかない。ただ、どうしようもない程の後悔は、すぐに沸き上がってきた。
「……最低、だ」
こんなこと、八つ当たりではないか。何もかも上手くいかない現状への苛立ちを、彼女にぶつけた。そうして、あんな心にもない事を……。
「…………は」
心にも、ない? そうではないだろう。自分まで、誤魔化そうとするな。
そうだ。俺は確かに、彼女に苛立っていた。その甘さに、優しさに、どうしようもないくらいに焦がれると同時に……俺の中のどこかは、やはりその甘さを見下していた。その矛盾に、俺は苛立っていたじゃないか。
「俺は……彼女の隣には、立てないのに」
……きっとその苛立ちの中には、この上なく自分勝手な感情も含まれている。こんなに求めているのに、どうして自分は彼女に想いを告げられないのか。どうして彼女は……俺の想いに、気付いてくれないのか。どうして、想いすら告げられないような形で、俺たちは出逢ってしまったのか。
俺は、彼女を失いたくない。しかし、俺と関わり続ける事で彼女が命を落としでもしてしまえば、結局は……。
「……く。はは……」
滑稽だ。笑うしかない。失いたくない、だと? 何を傲慢なことを。彼女は、俺のモノではないだろう。
――だから、俺のモノにしたいんだ。
――だけど、俺にそれを望む資格は無いんだ。
「そうだ。そんな資格は、俺にはない」
最初から、分かっていた事ではないか。俺の住む世界は、彼女のものとは違うと。中途半端に希望を抱くから、こうなるんだ。
「俺には……彼女の隣にいる資格など、ない」
扉の向こうで、少女の泣き声と、他にも誰かの声が聞こえた気がした。だが、俺にはもう、何をする気にもなれなかった。