至高の知
「どういうつもりなのだ?」
男の不機嫌な声が、薄暗い部屋の中に響く。
今、この部屋の中には二人がいた。片方は先程の言葉を発した男。短い金髪に眼鏡を着用しており、その目つきは鋭い。服装はスーツ姿であり、その出で立ちはさながらビジネスマンと言った所である。
そしてもう一人は、全身に黒衣を纏った、仮面の人物。大会の襲撃を操った道化、マリクである。
スーツ姿の男と、仮面の道化。端から見れば異常な組み合わせである。
それが、研究所めいた暗い地下室での会話であるのだから、なおさらだろう。
「小生は、貴公の頼みを聞いて、あの施設を廃棄したのだ。だが、あのような使い方をするとは聞いていないぞ」
「申し訳ありません。連絡が行き届いていなかったようですね」
「ふん。行き届いていなかった? するつもりが無かった、の間違いではないのかね?」
仮面の道化は笑った。それが意味するのは肯定だ。
「おかげでこちらは、事後処理に追われる羽目となったのだぞ。それに、ギルドにも目を付けられたであろう。件のギルドにはバルティスもいるからな」
眼鏡をかけ直しながら、金髪の男は冷たい視線を道化に向ける。
「まさか、この局面で小生を切り捨てるつもりではないだろうな?」
「切り捨てる? 御冗談を、アーネスト」
マリクは相手の態度を意にも介さず、そう告げる。疑念を投げかけてきた相手――クライン社代表取締役、アーネスト・クラインに向かって。
「詫びはしますよ。この度の騒動で受けた損害の倍の資金と、この実験で得たデータを全てお渡ししましょう」
「当然だ、その程度はなければ割に合わない。今後は事前に知らせて欲しいものだな」
「ええ、約束しましょう」
アーネストは腕を組む。マリクの約束ほど当てにならないものは無い、と言うのが彼の結論だ。自分は三枚舌だと言われていたが、ならばこの道化は百枚は舌を持っているだろうと考えている。
無論、そんなアーネストの印象は、マリクにとっても織り込み済みだ。
「私とて、あなたほどの逸材を、そう簡単に切り捨てはしませんよ。あなたの協力は、我々にとって大きな意味を持ちますからね」
「だが、いつか切り捨てるつもりなのは確かだろう? 我が兄ティグルのように」
再び、マリクは笑う。最後に付け加えられた言葉が、少し滑稽だったのだ。
「私には、あの男とあなたが兄弟だと信じられませんよ。同じ親から生まれ落ち、こうも出来が違うのか、とね」
「確かに、愚兄ではあったがな。だが、小生にも肉親の情が無いわけではない」
アーネストの表情は険しい。彼は兄を好いてはいなかったが、死んでしまえと思っていたわけでもなかった。
「貴公に兄がそそのかされ、命を落とした事実。良い気分はせぬな」
「では、あなたから手を切りますか?」
「そうではない。ただ単に、不快であることは伝えさせてもらうというだけだ。譲歩して飲み込むだけが、ビジネスではあるまい」
アーネストは、兄が己へのコンプレックスをこじらせ、ゆえに力を求めたのも理解している。つまり、間接的に自分が利用されたということでもあるだろう。それが心から気に食わない。
「言っておきますが、私がしたことは力を与えるまでです。それをティグルが正しく使えれば、勝者になれた可能性もある。あの結末を選んだのは、彼自身ですよ」
「ふん、誘導しておいてよく言う。もっとも、兄が自ら最悪を選んだのも事実だろうがな」
「彼は愚かでした。利用されていることに気付かぬまま思い上がり、そして裁かれるに至った」
「遺体は貴公が回収したそうだな。何に使ったかは問い詰めぬが」
「くく……」
マリクの声は、笑いさえ合成音声と化す。相手について何も見えないのは、アーネストにとっては不気味極まりない。
「あなたと彼の決定的な違いの一つ。それは、自分が利用されているのを自覚していることでしょう。隙あらば私を利用しようとしている辺りは一緒ですがね」
「小生は、貴公との化かし合いに勝てると思うほどに自惚れてはいないがな。簡単に化かされたのでは、面白くあるまい」
「だからあなたはやりやすいのですよ。変に取り繕う必要が無い」
「ふん……」
利用されていると分かっていても、彼と手を切るつもりはアーネストには無い。それほどまでに、彼がもたらすものが魅力的だからだ。
「貴公がいなければ、生涯をかけても得られなかったであろう知識。小生は、それを得ることができた」
「ええ。それがあなたとの約束でしたから」
クライン社の協力の代わりに、マリクが持つ知識を。それが、二人の間を繋ぐものだった。
「小生は、知りたいのだ。知識は、人をより高みへと導いてくれるからな」
そして、さらなる知を得るには、彼の存在が必要だ。だからアーネストは、マリクとの繋がりを絶ちはしない。
「私たちは似ています。飽くなき知への欲望、それこそが我らの糧」
「そうだ。だからこそ……む?」
何かの気配を感じ、アーネストは振り返る。そこには、いつからそこに立っていたのか、漆黒の竜人が静かに佇んでいた。
「戻りましたか、アイン」
「はい」
アインは静かに頭を垂れる。アーネストは、そんな彼の姿に眉を寄せた。
「相変わらず、神出鬼没な男だな」
「貴様こそ、この身の気配に気付けるのは流石だと言っておこう。社長の椅子に座らせたままなのが惜しいほどにな」
「ふん、ビジネスがふんぞり返るだけで成り立つとでも思っているのか? まあ良い」
アインはマリクの前まで歩いていくと、片膝をついた。
「頼んでいた仕込みは、全て終わらせましたか?」
「ええ。途中、六牙の妨害も入りましたが」
「そうですか。くく、少し向こうを刺激してしまいましたかな」
もっとも、彼にとってはそれも故意であるのだが。その方が、大きな変化をもたらすと考えているからだ。
「実験体を、一体だけギルド側に拾わせるのも忘れていませんね」
「ええ、丁度良い素体がいましたので」
「どういうことだ? ギルドがUDBを拾ったと言うのは聞いたが」
「それも当初の予定のうちなのですよ。その子には頑張ってもらわねばなりませんね」
「裏切らせる予定なのか? それとも、何か仕込んでいるのか?」
「いえ。強いて言えば、成長データを自動転送するようにはしていますが」
「…………?」
「私は知りたいのでよ。UDBが、人の中で暮らすことでどうなるのか。彼らの心が人に触れた時、何が起こるのか、をね」
UDBですら、彼にとっては研究対象でしか無い。本当に気に入った例外も、一体だけいるが。
「そして、Jが動いていました」
「ほう?」
その報告に、マリクが初めて少しだけ驚いたような声を上げた。
「それで、どうしましたか?」
「最終的には放置しました。必要以上に、向こうを挑発するのも不味いと判断しましたので」
「ええ、それで構いません。くく……そうですか。あれを動かしますか、彼らは」
「……何だそれは。J?」
「申し訳ありませんが、こればかりは教えられません。機密でもありますので」
「むう……」
はっきりと言われた以上、いくら聞いても無駄なのだろう。アーネストは、今回は聞き出すのは諦めることにする。
「他は、異常も無く実験を完了しました。データは後ほど纏めます」
「頼みますよ……ふふ。間もなく、全ての準備が整う。そう、全ては計画通りなのですから」
「………………」
仮面の男の不気味な笑いを聞きながら、アーネストは、背筋が凍り付くような感覚を覚えていた。