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幼馴染の元カノを大事な家族だと言うのなら、私は不要ですよね。

掲載日:2026/04/06

「……カイン様、今日でここへ来るのは最後になります」


 飲み干した紅茶のカップを静かにテーブルに置きながら、私はその言葉を絞り出す。


 温かな日差しが差し込む、春の昼下がり。

 私たちは中庭で、いつもの、二人だけのお茶会を楽しんでいた。


 ただ違うのは、今日が最後だということだけ。


 ここへ来て、目の前に座るカインにそのことを告げる。

 それは数日前からずっと練習してきたことだった。


 私にとって終わりを告げるその言葉は、何よりも重い。

 練習でも何度も言葉を詰まらせ、泣いてしまっていた。


 だけどその甲斐あってか、本番は声こそ少し震えてはいるものの、マトモに言えた気がする。


 それでも彼の顔を見ることが出来ずに、下を向いたまま、ただ返答を待った。


「おてんば娘も、とうとう父上に怒られたのか? いくら婚約者がいないとはいえ、年頃の娘が男のもとへ通ってはいけないと言っておいただろう」


 私の気など知らぬとばかりに、カインはいつもの軽口を返す。

 

 私と彼の付き合いは長い。

 カインは今年十八になる私より十五歳年上で、母の友人だ。


 母たちが結婚したのとあまり変わらぬ頃に結婚し、その後母と同じ流行病で奥様を亡くされた。


 初めは最愛の母と妻を亡くしてしまった者同士、傷を癒やすための交流だった。


 だけどそれがいつしか、私にとって初恋に変わってしまった。


 でも所詮それは一方通行でしかない。


 カインにとっての最愛は亡くなった奥様でしかなく、私はいつまで経っても友人の娘でしかないのだから。


「そうではなくて……」

「ん? どうしたリュシカ。何か困ったことでも起こったのか? 誰かにいじめられたり、陰口を言われたのならばすぐに言えと言っているだろう。いつだって俺がやっつけてやるんだからな」


 いつもだったらクスリと笑ってしまうであろうその言葉も、今日は涙を堪えるだけで必死になってしまう。


 自分が今、どんな表情をしているのか分からない。

 だけどそれでも真っすぐにカインを見た。


 がっちりとした体格に、褐色の肌。

 筋肉はかなり多い方なのに、引き締まっているせいか太っているという感覚はない。


 やや癖のある長めの黒髪に、切れ長のルビーのような瞳。

 そのどれもが、私には完璧だと思えた。


 ちゃんと顔を見なきゃ。

 もう今日で本当に最後なのよ。


 こんな風に会うことも出来なければ、会話だって出来やしない。

 言いたいことはちゃんと言わないと……。


 そう思えば思うほど、言葉が出てこない。


「そうではなくて……」

「じゃあ」

「婚約が決まったんです」


 言い切ったあと、私は貴族令嬢たるものと家庭教師から何度もたたき込まれた笑顔を作った。


 ぎこちない笑顔だということは、自分でも理解している。

 何度やったって、家庭教師から合格は得られなかったから。


 だけど仕方ないじゃない。

 泣いて迷惑をかけるよりは、これが一番マシなんだもの。


 そうなんとか、自分に言い聞かせる。


「……そうか」


 カインから返ってきた言葉は、どこまでもあっさりしていた。


 別に期待していたわけではない。

 だってそんなものに意味はないから。


 だけど引き留めてはくれなくても、ほんの少しくらいは寂しがってくれるかもしれない。


 そんな風に思っていたのも事実だ。


 一緒に過ごした時間が長かったから。

 愛はなくても、情くらいは湧いてくれているんじゃないかって思っていたのに。


 でも返ってきた言葉は「そうか」だけ。


 知ってはいても、自分とカインの温度差に胸が痛くなる。


 そしてその辛さから息を吸うことすら忘れた体が震え出した。


 泳いだ視線がバレないように下を向いて冷静を装う。

 始まることすら許されなかった恋に、私は一人打ちひしがれていた。



     ◇     ◇     ◇



 そこからどうやって自宅に帰ってきたか、まったく記憶がない。

 気づけば自室のベッドで突っ伏し、夜になってしまっていた。


 途中何度かメイドたちが声をかけに来てくれた気はする。

 だけどどこまでも重い体を動かすことが出来ずに、夕飯も食べられなかった。


 心が重いと、こんなにも体が重くなるなんて思わなかったわ。


 やっとの思いで寝返りをうち、横を向く。


 もう何時間、このベッドの上にいるのか分からないが、きっと父は私を心配しているだろう。


「困らせるつもりなんてなかったのにな」


 父も、カインも。

 だっていつかは婚約しなければいけないことだったから。


 彼と結ばれるということは決してない以上、避けられない道だもの。


 だけど母を亡くし、不安定な私のために父は私が十八を迎えるまで婚約者の件は我慢してくれていた。


「あーあ。もう少しまともな挨拶がしたかったのになぁ」


 最後だからこそ、ちゃんとしたかった。

 顔をしっかり見て笑って、いい思い出にしたかったのに。


 いい思い出になんて、そんなに簡単に出来るものではなかったみたいね。

 

 我が家は男爵家とはいえ、しがない地方貴族だ。

 嫁ぎ先は同じ男爵家だけど、向こうは王都に住まう貴族。


 立場的には、向こうの方が格上らしい。

 だけど王都に住んでいるからこそ、うちよりは貧乏だとかなんだとか。


 田舎の方が土地がたくさんあるから領地も広く、また特にうちは肥沃な大地と観光資源がある。

 

 お金だけはあり都会と結びつきたい父と、都会だけど貧乏な貴族との結婚か。


 言葉だけにしてしまえば、ちょっと難ありよね。


 だけど父はちゃんと私を愛してくれていて、私が不自由なく暮らせるかだけを考えて相手を選んでくれたのも分かっている。


 顔は絵姿でしか見たことはないけれど、歳は私の二つ上で優しそうな人ではあった。


「明日から向こうの屋敷で花嫁修業か……」


 地方と向こうとでは、細かいマナーなどがまったく違うらしい。

 結婚したら王宮に出入りすることもあるため、学び直しは必須。


 だから婚約と同時に向こうの家に入るのだ。


 いきなり厳しいことはないと思うけど、どこまでも体が重く感じる。


 普段、休暇の時だけ別荘のあるこっちに戻ってくるカインとも距離が近くなるというのに、全然うれしくはないわね。


「愛し合うことなんて、本当に出来るのかな」


 政略結婚でも、父と母がそうだったように。

 いつかこの胸の痛みを忘れられる日が来るのかな。


 窓の外がだんだんと白く明るくなってくる。

 どこからか、鳥たちが羽ばたく音も聞こえた。


 考えてもどうしようもないことは諦めよう。

 気だるい体を起こし、体を引きずりながら鏡台へ向かった。


 鏡の中の私は、青白い顔で、目の下には薄く隈が出来てしまっている。

 泣きはらしたせいで瞼も腫れ上がり、元より薄い唇が血色をなくしていた。


「お化けみたいね」


 そう呟けば、ほんの少しだけ笑えてくる。


 母によく似たピンクブロンドの長い髪と、この薄紫の瞳だけは、なんとか自分でも可愛く思える。


 メイドたちに頼んで、今日は目いっぱいお化粧をしてもらおう。

 そうすれば、この惨めな顔もなんとかなるでしょう。


 ドレスだって、一番いいやつにしなくちゃ。

 去年、カインが一度だけ綺麗だと言ってくれたやつ。


 大丈夫。なんの問題もない。

 ただそう自分に言い聞かせながら、私は支度を始めた。


 そして父との別れを済ませたあと、私は我が家の馬車に揺られ王都へ。


 領地から王都までは半日ほどかかり、ようやく婚家となる屋敷につく頃には、お昼をとっくに過ぎてしまっていた。


「お腹空いた……」


 感情とは裏腹に、空腹を訴える腹を擦った。

 しかしいくら擦れど、昨日から何も口にしていない腹は鳴り止むことはない。


 着いたら失礼かもしれないけど、お茶をもらえばいいわ。

 なければメイドたちが鞄の中にお菓子を少し入れてくれたのがあったはず。


 家から持ってきたのは、今手に持っている鞄と、荷物が二つほど。

 そのほとんどが愛用している日用使いの物や服ばかり。


 こっちに来たら買えばいいと、父からはお金を持たされてはいるけれど。


 あくまで私の目的は花嫁修業なのだから、買い物に行く時間などあるのかな。


 屋敷の前で横付けされた馬車。

 御者が扉を開けてくれる。

 

 本来ならば屋敷の者が迎えに出てくれるはずなのに、馬車を降りて見ても、待てど暮らせど誰も出ては来ない。


 私は自分の背よりも高い玄関を見上げてみた。

 玄関上の部屋は、カーテンが閉まっていて、中の様子を窺うことは出来ない。


 そこは地方であっても都会であっても、人が来れば使用人か誰かがすぐに玄関まで駆けつけるはずなのに。


 人の気配もしなければ、待っていても開く様子はない。


 気づいていないなんてことはないと思うけれど……。


 あまりいい予感がしない男爵家の玄関を、私はため息一つついたあと、一人叩いた。


 中から聞こえてくる可愛らしくも涼やかな声は、ある意味残念な始まりを告げていた。



     ◇     ◇     ◇



「はぁい」


 玄関から顔を出したのは、その家のメイドではなく一人の少女だった。


 ブロンドに見えなくもないベージュの髪に、藍色の瞳。

 歳は私と同じくらいだろうか。


 ぷっくりとした唇と血色の良い頬が、少し幼くも見える。

 

「あ、あの」


 えっと、この人は誰かしら。


 着ているものはドレスに近いワンピースであることからしても、メイドではないわよね。


 だけどこの男爵家に女性がいるという話は父から聞いていない。


 確か前男爵の妻である母親と、現男爵である私の婚約者だけがいるとのことだったわよね。


 そうなると、この方は親戚……とかかしら。


 いや、でも親戚だとしてもよ?

 その人に玄関まで出させるって一体どういう状況なの?


 言葉に困り固まっている私を、なぜかその女性は下から上まで観察するように眺めたあと、フッと鼻で笑った。


 え、今のはどういう……。

 どういうというより、なんだろう。

 すごく悪意がある気がするのは。


 しかし確認する間もないまま、彼女は玄関の扉を大きく開け、私を招き入れる。


「どーぞぉ。今日来るって聞いてましたよー。リュシカさんでしたっけ。キー君の婚約者になるっていう」


 小首を傾げながら言う姿は、好意的に見れば小動物のようなのだろう。

 だけど初対面の同性からしてみれば、本当に意味が分からない。


「キー君って? あ、あの貴女は……」

「あー! あたしマチュって言いますぅ。よろしくね」

「マチュ、さん? あの、貴女は、その」


 思い出したように挨拶をする彼女。

 だけどそれだけでは、状況がまったく理解できずに疑問符がいくつも頭の中に浮かぶ。


 名前も大事だけれど、それよりも私が聞きたいのはそこではない。


 この人が誰で、今がどういう状況かっていうことだ。


「さーさー。キー君と、お母さまはこっちですよー。二人ともすごく待っていたんですから」

「え、あ、はい」


 疑問をぶつける隙もなく、ニコニコしながら早足で歩く彼女について行くのが私には精一杯だった。


 そして客間らしき部屋に、そのまま彼女と共に通される。


 途中気づいたことがある。

 玄関先には、二階へ続く大階段があったものの、掃除が行き届いていないのかその端には綿埃が溜まってしまっていた。


 それだけではない。

 おかしなことに、客間までの道中にも誰一人使用人がいないということも。


 屋敷の大きさはうちとさほど変わらないくらい大きいというのに、どこかひんやりとした空気のこの屋敷には人の気配がまったくなかった。


 まさかね……いくらお金がないとはいえ、そんなはずないわよね。


 この規模のお屋敷ならば、最低二十名ほどの使用人がいてギリギリ回るレベルのはず。


 屋敷の外門が錆びていたし、馬車から見える中庭は手入れが行き届いていないようにも見えたけれど。

 でもきっと事情があるのだろう。


「ほらほら、早く入って」


 彼女に促されるまま入れば、客間のソファーには二人の人間が腰掛けていた。


 そしてこちらを見定めるような目で、ただジッと見ていた。


 おそらくこの二人が、私の婚約者とその母親だろう。


 よく似たモスグリーンの髪に、褐色の瞳。

 もらっていた絵姿よりは、目がやや細くきつい。


「初めまして。リュシカ・シモンと申します」


 あまり不躾にジロジロ見ているわけにもいかず、挨拶をする。


 初めが肝心よね。

 私は田舎者って思われなくない一心で何度も練習をした、カーテシーを見せた。


 右足をやや左足の斜め後ろの内側に引き、両手でドレスの裾を少しだけ摘んで持ち上げる。


 そして腰は曲げずに膝を折りながら、腰を落とすのだ。


 大事なのは視線。

 ここでブレてしまっては意味がない。


 そしてあくまで優雅に、ドレスは花が開くようなイメージで。

 笑顔を忘れずに微笑めば、もう完璧よね。


「お目にかかれて……」

「ブッ」


 完璧なる挨拶が終わらぬうちに、私の少し前で扉を開けたまま立っていたマチュが吹き出しながら笑い出す。


 私は驚いて顔を上げた。


「やだぁ。リュシカさんって、なんだかお硬いのね」


 ケラケラと笑いながら、彼女はそのまま正面に座る私の婚約者と思われる男性の隣に座る。


 硬いって、なに?

 私、何を間違えたの?


 それにしても、二人の距離感はどうなの。

 自分の間違いよりも、そっちの方が気になってしまう。


 完全に密着とまではいかないまでも、足と足がぶつかってしまうような距離だ。


 うちでは親戚同士であったとしても、その距離感は怒られるだろう。

 仮にも男女なのだから、と。


 だけどこの場にいる人間は、誰もそれに対して疑問を持っていないようだった。


「堅苦しい挨拶はいい。君はうちの嫁になるんだろう」

「本当にうちくらいなものよ。そこまで堅苦しくない家なんて」


 矢継ぎ早に、婚約者とその母親が声を上げた。

 言いたいことは、たくさんある。


 あるがあえて口には出さずに、私は笑顔を作って見せた。


「ちょっとキー君、まずは挨拶くらいしてあげないとぉ」


 先ほど私にかけた時よりも、かなりの猫撫で声で隣に座る婚約者の袖を摘み引っ張りながらマチュは言った。


「ああ、それもそうだな。ぼくはキーシスト。このテムラン男爵家の主で、君の婚約者だ」

「はい、キーシスト様。お会い出来て光栄です」


 やはりこの人が私の婚約者であることは、間違いないらしい。

 では、その隣のマチュは何だと言うの。


 私の視線の先に気づいたのか「ああ」と言わんばかりに、キーシストはマチュに目をやりながら答える。


「彼女はマチュ。元貴族でぼくの幼馴染だ。幼い頃に両親が亡くなって家が没落してしまったんだ」

「マチュはわたくしの親友の娘で、行く当てがなかったから引き取ったのよ」


 二人ともさも当然。そしてそれが自慢であるかのように言えば、マチュはただニコニコしながらこちらを見ていた。


「やっだぁ、そんな顔して。もしかして、もうヤキモチ?? 大丈夫よ、マチュは家族だもの」


 何がそんなに可笑しいのか。

 マチュは、隣に座るキーシストの腕をバンバン叩きながら笑っていた。


 家族の定義って、なんだっけ。

 少なくとも私が知っているモノとは、かなり違うことだけは間違いない。


「ああ、そうだ。マチュは家族なんだから何も気にすることはない」

「……そう、なのですね」


 こう返すだけで、今の私には精一杯だった。

 それでも笑顔を崩さなかっただけ、まだマシだと思ってほしい。


「それにしても随分あなたのうちから、ここまではかかるのね」


 テーブルに置かれた紅茶を傾けながら、義母となる人が声をかけてくる。


 今はそんな話などと思いつつも、うちの領地を知ってもらわないと、という義務感にかられる。


「馬車で半日ほどでしょうか。朝出発したのですが、なにぶん休憩も挟みますので」

「あまりに遅いから辻馬車で来たのかと思ったぞ」

「キー君やだぁ、貴族が辻馬車なんて」


 声を出しながら笑う二人は、どこまでも醜悪なものに見えてしまった。

 

 この人たちは辻馬車に乗ったことはあるのだろうか。

 私は子どもの頃、何度か興味があって父にせがんで乗せてもらったことがある。


 確かに乗り心地は極端に悪い。

 座席はただの木でしかなく、クッション性がないため慣れないと揺れ具合から酔ってしまう。


 それに途中途中で人を乗せるため、目的地までたどり着くのにはかなりの時間を要する。


 それでも楽しいのは、自分の目的ではない場所を見られることだ。

 普段行かないような離れた村や、変わった目的地。


 そして会う予定もなかった見知らぬ人たちと見知らぬ景色は、本当に刺激的だった。


 もっとも、貴族たちがそれに乗りたがらないのは理解できる。

 時間の無駄だと思う人もいるだろう。


 だけど今問題なのはそこではなく、田舎と辻馬車を馬鹿にされていることだ。


「二頭立てのちゃんとした馬車ですわ。ですが、急いで無理をさせますと馬も可哀そうですし」


 私の言葉にマチュはあからさまに眉間にシワを寄せ、嫌そうな顔をした。


 元貴族なら分かるでしょう。

 嫌味に嫌味で返したことくらい。


 基本普通の貴族が乗る馬車は、馬一頭で走らせるやや小ぶりのものだ。


 だが、うちはあえて二頭立ての大きな馬車を使っている。


 もっともただ裕福だからという意味ではなく、何かあった時などに急ぎ大人数でも移送出来るようにしているためなんだけど。


 でも二頭立てだと言えば、普通の貴族なら大金持ちアピールしていると思うでしょうね。


 別にそんなことまで言う必要性はどこにもないのだけれど、大切なモノを馬鹿にされたような気がして言ってしまった。


「リュシカさんのとこって、お金持ちなんですねー」

「それほどではないと思いますが、領地は広いですから」

「ふーん。でも、そんなお金持ちのお嬢さまに、花嫁修業とか大丈夫なのかなぁ」


 マチュはそう言いながら、ちらりと母親の方を見た。

 

「そうねぇ」


 品定めするかのようなその視線が、何とも居心地悪い。

 

「まぁ、やってないと何とも言えないけれど。うちは王都の由緒ある男爵家ですから? しっかりしてもらわないとね」

「まぁまぁ二人とも。今日はまだ来たばかりなんだ。明日からで構わないだろう?」


 まるで助け舟だと言わんばかりに、キーシストが立ち上がった。


 そして私の正面まで来ると、そっと私に手を差し出す。

 エスコートしてくれる気はあるらしい。


 私はその手にそっと自分の手を添える。


「まずは部屋に案内するよ。夕食の時間まで、ゆっくりするといい」

「……はい。ありがとうございます、キーシスト様」


 この場からほんの少しでも離れられることに、私はホッとしつつ、彼と共に歩き出した。



     ◇     ◇     ◇



 客間を出たその瞬間に、ため息をつきそうになる自分に少しだけ驚く。

 初めて来た人の、しかも婚約者の家でこんなにも疲労するなんて、思ってもみなかった。


 まだ客間は人がいたせいもあるのか、日が差し込み明るかったものの、廊下はどこまでも暗い。


 締め切ったカーテンのせいだろうか。

 辺りにはどこからも、日が差し込んではいない。


 なぜにここまで暗いのかしら。

 そもそもこんな陽気のいい日に、カーテンを開けない理由が分からない。


 別に隣の屋敷がすぐ近くで、のぞき見されるなんてこともないでしょうに。


 なんというか、その締め切った感じに息が詰まる。

 それに匂いも少し異様だ。


 生活臭というよりは、粉っぽくホコリっぽい感じ。


 ずっと住んでいる人間には気にならないのかもしれないけれど、少なくとも私は気になる。


 そしてやはり、どこにも人の気配もなければ、すれ違うこともない。


「あの、キーシスト様、お聞きしてもいいでしょうか?」

「ん? どうした?」


 私がおずおずと尋ねても、彼は嫌な顔はしない。

 質問さえ間違えなければ、この感じだと大丈夫そうね。


「使用人の方たちをお見掛けしないのですが」

「あー。うちは倹約家でね。基本的に自分たちのことは自分たちで行うようにしているんだ。とはいっても、最低限の使用人はちゃんといるけどな」

「そうなのですね」


 ドヤ顔でそう言う彼に、どう反応していいか分からず、私はただまた笑顔を作って見せた。


 するとその反応に気を良くしたのか、いかに倹約が大事なことなのかを力説してくれる。


「貴族だからといって、何もかもを人任せにするのはよくないことだ」

「はい……そうですね」

「自立とは、自分でやるからこそ身につくこと。花嫁修業にもそういったことが盛り込まれているんだ」


「そうなのですね」

「ああ、そうさ。うちの人間になるのだから、しっかり学んでくれないとな」


 言っていること自体は間違っていないから否定は出来ないのだけれど、何かが違うのよね。


 自分のことを自分でやるのは、別に悪いとは言わない。


 百歩譲ってそこはいいとしても、こんな広い屋敷の管理を自分たちだけでは出来ないだろう。


 だってそんなことにすべての時間を割いてしまえば、領地の経営やその他の仕事は誰がやるというのかしら。


 最低限の使用人がいるということは、たぶん洗濯などをしてくれる使用人と、料理人、あとは買い出しなどを行う外回りの人くらいってことよね。


 屋敷内を少し見た感じでは、掃除はほとんど行われていないみたいだし。

 きっと掃除まで行き届くほどの使用人がいなさそうだ。


 それってもう、最低限以下なんじゃ……。


「屋敷のことや花嫁修業については、母とマチュからよく聞いてくれ」

「マチュさんから……ですか?」


「ああそうだ。彼女はこの屋敷に来て長いからね。なんでも知っているのさ」

「ですが」


「マチュに任せておけば、大丈夫だよ。彼女はちょっと病弱なところもあるがしっかりしているし、とても優しい人だからね。きっと君もすぐに彼女を好きになるはずだよ」

「そう、ですね」


 私にとって彼女は見ず知らずの人だ。


 夫となる人の幼馴染だからと言われても、なんだかしっくりはこない。

 

 友だちには、努力すればなれるのかもしれない。

 だけど、少しそれも違う気がする。


 あの距離感。そして私を見下したように笑う感じ。


 たとえ私から彼女に寄っていったとしても、仲良くなれる未来は今のところ見えない。


 それに結婚しても、彼女はずっとああいう感じなのよね。

 ……なんか嫌だな。


 でもそれを口に出すことは許されないと思う。

 だって彼らはずっと、家族なんだからと主張していたから。


「さぁ、ここが今日から君の部屋だよ。一応必要なものは中に揃えておいたって、マチュが言ってたから問題ないはずさ。好きに使ってくれ」

「ありがとうございます」


 一階の廊下の一番奥。

 日当たりはもう、廊下自体が真っ暗なため分からない。


 だけど普通に考えて男爵家の妻が使うとは思えない部屋の位置に、私は案内された。


 たぶんカーテンを全て開けたとしても、方角的にここは日は当たらないだろう。


 うちでは物置になっている場所だ。


 ああ、ダメね。

 一度悪い方に考え出すと、どうも卑屈になってしまう。


 もしかしたらこの部屋を選んだのだって、何か理由があったのかもしれないし。


 中に入る前から、変なことを考えるのはやめよう。


「疲れただろうから、夕飯までは好きにするといい。夕食は皆で食堂で食べよう」

「はい。ありがとうございます、キーシスト様」

「では、またあとで」


 キーシストは私の手の甲にキスを落としたあと、手をひらひらと振りながら来た道を戻って行く。

 

 一人残された私は、深いため息をついたあと、その部屋に入って行った。 



     ◇     ◇     ◇



 薄暗い部屋の中は、廊下よりもさらに酷い匂いがした。


 質感でいうと部屋の中は廊下よりもややジメジメした感じがする。

 そのせいか、どこか空気は重い。


 私は目を凝らしながら窓まで進むと、カーテンと共に窓を開けた。


 窓枠には灰色のホコリと、黒いカビのようなものがべったりくっついている。


 それに触らないよう注意を払いながら窓を開けようとしたものの、長年開けていないせいか、ぴったりとくっついてしまっている。


「固すぎる……」


 それでも私は、全体重をかけるように必死に窓をこじ開けた。


 どれくらいの時間、それと格闘していただろうか。


 指先が真っ赤になった頃、窓は不快な異音を上げながらようやく開いた。


 外からやや温かい風が入り込み、なんとか息をつく。


 先ほどまでの臭い匂いが和らぎ、私はそのままボーっと外を見ていた。


「庭……酷いわね」


 バラか何かで作ってあったであろう、中庭の回廊は見る影なく雑草の生い茂る惨状だ。


 それに至る所に枯れ木も見える。

 冬の間に手入れせず、そのままにしたのだろう。


 自分たちのことは自分たちで、か。


 でもそれって、結局こういうことでしょう。

 貴族の家なのに、こんな状態だなんて。


 誰もこの屋敷には呼べないだろうし。

 交流などはどうしていたのかしら。


 人様の家のことに口出しすべきではないのだろうけど、これからは私の家にもなるのよね。

 

 大丈夫なのかしら。

 ……私、やっていけるのかな。


「汚いとかそういうのより……」


 思い浮かぶのは、他でもない彼女だ。


 マチュ。元貴族で、今は平民。

 確かに親が亡くなり家が没落してしまって、身分を無くしたことには同情しかない。


 だけど、それとこれとは別でしょう。


 あんなにもキーシストとの距離が近いし、彼女は家族という言葉を使って遠慮する気もなさそう。


 キーシストもキーシストだ。

 幼馴染だから、仲がいいのは分かるけれど。


「仮に、よ。……もし私がカイン様とあんな風に接していて、家族だからなんて言ったら、彼は気にしないでいられるのかしら」


 そこまで言って、自分の発言のあり得なさに笑えてくる。


 幼馴染とは違う関係であったけど、おそらくあの二人よりも私とカインとの時間は長い。


 だけどあんな風に接したことなど一度もなかった。


 彼はいつも距離を保っていたし、私だってある程度は弁えていた。


 それが普通なんじゃないのかな。

 

「……カイン……様……」


 思い出すだけで苦しくなるのに、それでも今ある現実よりは幸せだなんて。


 なんだか皮肉ね。


「はぁ」


 私は顔を両手で覆い、また大きなため息を一つつく。


 そして現実と向き合うために振り返った。


「……」


 ある程度予想はしていたものの、その酷さに言葉すら出ては来ない。


 部屋の広さは元々自分が使っていた実家の半分もないだろうか。


 さっきの話では、この部屋はマチュが整えてくれたということだったけど。


 部屋にあるのは簡素な木製のベッドに、小さな丸テーブルとイスがあるだけ。


 鏡台はなく、クローゼットに辛うじて鏡がついている。


 小物などは何もなく、味気ない簡素な部屋。


 そして歩くたびにホコリが舞い、足元が気になる。


 ベッドは確かに整えられてはいるものの、夏用なのもあってか寝具は総じて薄い。


 これだとベッドが木製だから、背中が痛くなりそう。


 それこそ辻馬車の中で寝ているのと同じじゃないかしら。


 もちろんクローゼットの中身もない。

 

「ああ、暖炉のとこに水差しだけがあるわね」


 中身はないけれど。

 自分で汲めということなのかしら。


 だけど勝手知ったる自分の家なら、どこに何があるか分かるけれど、ここはそうではない。


 水は調理場まで行かないともらえないわよね。

 しかも、食堂の場所も聞くのを忘れていたわ。


 さすがに呼びに来てくれるかしら。

 まぁ、時間になったらそれは考えればいいわ。


「それよりも、玄関に置いてきたもう一個の荷物を回収してから、着替えて掃除をしてしまいましょう」


 私は腕まくりをしたあと、もう一度部屋の中を見渡し持っていた荷物を一番マトモそうなベッドの上に置き、動き始めた。



     ◇     ◇     ◇



 部屋の中は何年掃除していなかったのかと思えてしまうほどの汚さだった。


 途中忙しなく動くメイドをなんとか廊下で捕まえ、掃除道具の場所を教えてもらった。


 ホウキに雑巾、そしてバケツ。

 掃除用の水は外の(カメ)から(すく)うように言われて、それも汲みにいった。


 途中重たい水をこぼしそうになろうとも、誰も助けてくれる人などいない。

 今日ほど使用人のありがたさを思い知った日はない。


 それに朝からの長時間移動と慣れない掃除。

 部屋の中が何とか生きていけるほど綺麗になったところで、私は力尽きてしまった。


 もう限界。ちょっとだけ休憩しよう。


 そう横になったベッドで、気づけば小一時間ほど気絶するように眠ってしまっていたらしい。


 窓から吹き込む風が冷たくなったことで、私はようやく目を覚ました。

 窓の外に見える景色はもう暗い。


「いけない。もしかして、寝過ごしてしまったかしら」


 だけど変ね。

 部屋には誰かが呼びに来た感じはない。


 おそらくいい時間だと思うのに、夕飯はまだなのかしら。

 家によって食事の時間が違うのは分かるけど、それにしても遅いんじゃない?


 昨日から何も食べていないせいか、お腹が音を立てるほど空いてしまっている。


 いやそれ以上に、空腹で気持ち悪くなってきたかも。


「とにかく食堂に行ってみよう」


 もしかしたら誰かが起こしに来て、疲れて眠っている私を気遣ってくれたのかもしれないし。


 なるべく悪い方には考えないようにして、私は部屋を出た。


 しかしすぐに後悔することになる。


 何も持たずに出たせいで、昼間すら薄暗かった廊下は真っ暗だった。


 足元もおぼつかなければ、前もよく見えない。


 急いで進もうにも、見えない状態ではそれすら不可能で、手を前に伸ばしながら驚くほどゆっくりしか進めなかった。


 そしてダイニングの場所も分からず、ただ人の声を頼りに部屋を探す。


 一階のドアの隙間から、光と声が漏れている場所が目に付く。


 急ぎノックして入室すれば、そこには先ほど見た時よりもピッタリとソファーに座るキーシストとマチュがいた。


「キーシスト様……」


 あまりの光景に言葉を失った私に、マチュがただ微笑む。


 勝ち誇ったようなその笑みに、胸の中が重くなる。


「ああ、遅かったじゃないか」

「……すみません。疲れて寝てしまったようで」

「そうか」


 私がこの光景を見ても何も思わないと思っているのか、どこまでもキーシストは自然体だった。


 家族だからだっけ?

 あんなにピッタリとくっつくことが、普通?


 やっぱりあり得ないと思う。

 それに……少なくとも私は嫌だ。


 自分の夫となる人が、いくら家族と認定されているからって同世代の異性で本当の家族でもない人とあんなに親密だなんて。


 それに最初から思ったけれど、マチュの表情などを見ていると、少なくとも彼女は私に対して当てつけのようにやっているとしか思えないのよね。


「リュシカさんって、どんくさいタイプ?」

「え? いや、そんなことはないと思うのですが」


 急になんでそんなことをマチュは私に尋ねるの?

 聞いてきた言葉の意味が分からず、私は曖昧に言葉を返す。


「んー、そうなんだぁ。じゃあ、この男爵家を見下しちゃってる感じ?」

「な、どうしてそうなるんです!?」

「だってぇ、挨拶に来るのもすごく遅かったしー。初めてのお夕食だって、あたしたちと一緒にしなかったしぃ」


 どこをどうしたら、そんな解釈になるのだろう。


 うちの領地からここまでは遠かったって、さっき説明したわけだし。


 お夕食に遅れたのは、指示がなかったから。


 確かに時間を確認しなかったのも、疲れて眠ってしまったのも私が悪いけれど。


 それでどうしたら、そうなるのかしら。

 全然話が違うじゃない。


 『違います』と否定する前に、キーシストが声を上げる。

 

「そうなのか? うちになど嫁に来たくもなかったってことなんだな」


 彼の言葉は、どこまでもマチュの言葉を鵜呑みにしてしまっているようだった。


「違います! そんなことありません。領地までは本当に遠いですし、お夕食は寝ていて気付かなかっただけですわ」

「……」


 必死に否定したものの、キーシストはただジトリとこちらを見ている。


 どうしてマチュの言葉は簡単に信じるのに、ちゃんと本当のことを話している私のことは少しも信じてはくれないのだろう。


「信じて下さい」

「信じるか信じないかは、これからの態度によるんじゃないかなー?」

「ああ、そうだな。マチュの言う通りだ」

「……信じてもらえるよう、努力します」


 こんな言葉を返したかったわけじゃないのに、それ以外の言葉は思いつかなかった。


 ややうつむく私の耳に、小さく笑うマチュの声が聞こえてくる。


 泣いてしまわぬように、私はただ唇を噛んだ。


「あーそうだ。リュシカさん来なかったから、お夕飯片づけちゃった」

「!」

「明日からはちゃんとして下さいね」

「……はい」


 この屋敷は誰が中心で、どんな風に回っているのか。

 

 マチュを見ていると、何となくそれが分かってしまった気がした。

 


    ◇     ◇     ◇



 お腹が空いたまま部屋に戻り、眠ろうとしたものの空腹からか環境のせいなのか。


 ムカムカする胸が気になり、どうすることも出来なかった。


 うちの侍女たちが持たせてくれたたくさんの菓子たちのうち、半分だけを食べた頃、ようやくうとうとと眠りにつくことが出来た。


 目が覚めて、自分の部屋ではないと気づいた瞬間、泣き出しそうになった。


 こんなんじゃダメだよね。

 分かってはいても、逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。


 でも父の期待もあるし。

 カインにも宣言してしまったのに……今更引き返せないよね。


 だいたい貴族の結婚に愛がないことなど、私だって分かっていたじゃない。


 ちょっと……だいぶ相手の家族が気に食わないだけで取りやめてたら、どうしようもないじゃない。


「しっかりしなくちゃ」


 今まではマチュ中心に家の中が回っていたとしても、結婚するんだもの。

 

 少しずつ変えて行ってもらえればいいものね。


 そのためにも、まずは私がこの家の習慣に慣れないと。


「朝ご飯の時間も分からないし、とりあえず食堂に向かうしかないわね」


 一人で身支度を済ませると、私はダイニングへ向かった。


 しかしいくら待っても、キーシストたちは現れなかった。

 

 手持ち無沙汰の私は、仕方なくダイニングの掃除を始める。


 テーブルの上も下も、綺麗そうに見えてやはり掃除は行き届いていなかった。


 ある意味不衛生な場所で食事をしていても、気にならないのかしら。

 いや、こういうのも慣れなのかな。


 昨日使用人の一人にもらった雑巾は、元の色も分からないくらい真っ黒になってしまっている。


 何度水洗いしてもダメだから、一日しか使っていないのに、ある意味もう寿命かも。


 昨日の今日で新しい雑巾って、もらえるのかな。


「それにしても誰も来ないわね」


 いくら私が早起きだったからって、それにしても遅いんじゃないのかな。


 窓の外から見える日差しはとっくに高くなってきているし、昨日の夕飯だってかなり時間は早かったはず。


「普通ならお腹が空かないとは思えないんだけど」


 あれ、もしかして……。


 私は何となく嫌な予感がして、厨房へと早歩きで向かった。


 屋敷の一番奥。

 中庭とは勝手口で繋がった場所にある厨房は、すでに火を落としていた。


 もしかして、もう料理人すらいないのかな?


 そう思いながらも、私は声をかける。


「あの、すみません」


 すると奥から一人の料理人がのそりと出て来た。


 歳は父と同じくらいだろうか。

 背は見上げるほど高く、白く威厳のある髭がとても立派だった。


 私はあまりの大きさに、一歩後ずさりしてしまう。


 しかし眼光も鋭いものの、その男性の声はどこまでも優しかった。


「どうした? 見たところ新しい使用人……ではなさそうだな」

「あ、はい。キーシスト様と婚約させていただいた、リュシカと言います」


「ああ、あんたが婚約者様か。すまない、敬語は苦手すぎてしまって」

「いえ。そのままで全然大丈夫ですよ。私は気にしませんから」

「そうか」


 どことなく、カイン様の雰囲気に似ている気がするわね。


 ああ、カイン様というか騎士団の人たちに、という感じかな。

 みんな敬語が苦手で、よく注意を受けていたっけ。


 懐かしいなぁ。

 子どもの頃は、カイン様が騎士団の稽古などにもよく連れて行ってくれたのよね。


 大きくなってからは、淑女なんだからダメだと言われてしまったけど。


 ここの人たちはどこか余所余所しいから、これくらいの距離感の方がむしろ安心するわ。


「その婚約者様は、こんな遅い時間に何しに来たんだ?」

「ああ、それが、朝ご飯って皆さんはどうされているんですか? ダイニングで待っていたんですが、誰も来なくって」

「あんた、何も聞いていないのか?」


 料理長は心底呆れたような顔をしていた。

 

 この感じ……。まさかとは思ったけれど、どうやら予想は悪い方に当たっていたみたい。


「はい。昨日の夕飯の時間も聞いていなくて……」

「そりゃ、腹が減っただろ」

「……すみません」

「もうほとんど残ってはいないが、ちょっと待っててくれ」


 そう言うと、そそくさとあり合わせで食事を出してくれた。


 私はトレーに載せられた小さなパンにサラダとお肉を挟んでくれたものを受け取る。


 冷めてはいても、とても美味しそうに思えた。


 嬉しい。ここに来て、最初の食事だわ。


「朝ご飯はその日出来たものがこの厨房に置かれていて、食べたいモノだけを適当に自分の部屋に持って行く仕組みだ。夕飯はダイニングだが、呼びに来る使用人はいない。時間を見計らって行くことだ」

「そうなのですね」


 昨日は寝てしまって遅くなったから、今日は時間に気を付けないと。


 でもそれにしても、私が夕飯も食べていないことなどキーシストもマチュも知っているはずなのに。


 朝ご飯の仕組みまで教えてくれないなんて。


 でもきっと、それを正面から抗議したところで教え忘れたとか、聞かなかった方が悪いと言うんでしょうね。


「今、使用人は極端に少ない。まぁ、知っていると思うが、この男爵家は金が回っていないんだ」


 よほど不服そうなのが顔に出てしまっていたのか、料理人は優しくこの屋敷の状況を説明してくれていた。


 自分のことは自分でなんて言っていたけど、やっぱり結局はそうなのね。

 

 この家にお金がないとは父からも聞いていた話だけど、ここまでだなんて。


「前の主人が生きていた頃はまだ良かったんだ。だけど、今の次男に変わってからココはもう駄目さ」

「前の……確か、長男さんが事故で亡くなったと聞いていますね」

「事故、なぁ」


 なんだか歯切れの悪い返事と表情。


 でも、事件などではなかったはずだけど、本当は違うのかな。


 しかし今の私が勝手に聞いていいような感じではなく、それ以上聞き返すことは出来なかった。


「とにかく婚約者様も、いろいろ考えた方がいい。おれも先々代からの付き合いで残っているだけで、他の使用人たちもほとんど辞めてしまったからな」

「そうなのですね……。でも、まだ来たばっかりですし、もう少しだけ頑張ってみます」

「そうか」


 私はお礼を言うと、食事を持って部屋に帰った。


 人とマトモな会話をすることで、ほんの少しホッとする。


 そして彼の作ってくれた料理を食べると、まだ続けられそうな気がしてきた。



     ◇     ◇     ◇



 気を取り直し部屋で一人食事をしていると、短いノックのあと、私が返事を返す間もなくマチュが入室してきた。


 そして入ってくるなり、パンを頬張る私を見て、彼女は心底残念そうな顔をしている。


 感情をまったく隠さない辺りが、なんというか。

 何とも貴族令嬢らしくはない。


 私が困っていないところが、よほど面白くないみたいね。


 って、どういう性格なのかしら。

 こういうタイプの子って、今まで周りにいなかったからよく分からないわね。


「あの、何かありましたか?」


 あくまで彼女の思惑など気づかないフリをして、仕方なくこちらから声をかける。

 

 するとマチュはやや不貞腐れながらも、ココへ来た用件を話し出した。


「こんなに遅い時間にのんびり朝ご飯なんか食べちゃって、さすが田舎時間は違うわね。まったくリュシカさん、キー君からちゃんと聞いていないの?」

「えっと、すみません。何のことだか分からないのですが」


 この際嫌味は無視して、何に対してのことをマチュは言いたいのかしら。

 食事の件は聞いていなかったし、今日の予定だって何もないはず。


 昨日キーシストと二人で歩きながら話していたのは、この屋敷のことぐらいよね。


 詳しくは母親かマチュから聞く様にとは言われていたけど、別に聞いて何かをするように指示されたわけでもない。


 だいたいここへ来た目的は、王都の貴族としての礼儀やマナーを習うためと王都での生活に慣れるため。


 母親から聞くなら分かるけれど、マチュは元貴族とはいえ今は平民。


 それに関係性から言っても、マチュからマナーなどを習うっていうのはどうなんだろう。


 アリかナシかということではなく、感情論として嫌でしかない。


「もーさぁ、そういうやる気のない態度ダメだと思うょ?」

「すみません」

「この男爵家の嫁として頑張るつもりあるの?」

「すみません」

「だいたいキー君は積極的な女性が好きなんだから、もっとちゃんとしないと愛してもらえないぞ」


 表面上謝ってはみたものの、これって私がいけないのかな。


 それにだいたい、なんで赤の他人から「愛してもらえない」なんて言われなくちゃいけないんだろう。


 忠告? それとも警告?

 だいたい何目線なの? 幼馴染ってこんな感じなのかな。

 もっとも、                                                                   どっちにしたって、いい気はしない。


 腕を組みながら見下している感じからして、たぶん自分だけは知っている情報を教えてやっているって感じなのかな。


 何目線なのか知らないけれど。

 でももし仮に私がカインのことを誰かに語るとして、こんな風に言うかしら。


 何かちょっと違うのよね。

 二人の距離感もだけど。


「マチュさんとキーファスト様はとても仲良しなのですね」

「まぁ、そうね。だって、あたしたち昔は付き合っていたくらいだし」

「……家族なのに、ですか?」


 見当違いな返しだとは分かっていても、彼女の言葉の意味が分からずそう返してしまった。


「今は~よ。だってねぇ」

「平民になったからですか?」

「なぁに。嫌味?」

「いえ、純粋な疑問です」

「恋人以上になれたんだから、あたしは満足よ?」


 確かに恋人や婚約者などよりも、家族の方が近い存在よね。

 だから上から目線ってことか。


「幼馴染で恋人……で今は家族」

「そーよ。これで分かった?」


 分かったとは、私の立ち位置がってことよね。


 どこまでいっても格下だとでも言わんばかりに、マチュはニタリと笑った。


「キー君のこと、知りたかったら教えてあげるけど?」


 馬鹿にしてる。

 どこまでも、どこまでも。


「いえ。キーファスト様に聞きたいことは自分で聞くので大丈夫です」

「あら、そーなのぉ? それならいいけど」


 聞いて欲しいみたいね。

 聞いて私に絶望でもして欲しいみたい。


 ああ、もう本当にこの子嫌いだわ。


 ため息をつきそうになるのを、必死に抑え込む。


「あのそれで、今日は何を?」

「んー。今日はこの屋敷のことをしっかり学んでもらおうかな。場所もそうだけど、嫁としてしっかりやってもらわないとってお母さま言っていたし」

「……分かりました」


 彼女に言われるまま、私たちは部屋を出た。


 場所やその他を教えるというのは、ようはこの屋敷の使用人要員としてこき使うためのもの。


 どこをどう掃除して、どこは立ち入ってはいけないなど。


 夕方遅くまで指示され続けた挙句、彼女の監視の元に使用人同然で働かされた。


 その間、キーファストも彼の母親も私を見になどこなかった。


 おそらくこのことを知っているのだろう。

 そしてその上で助けるつもりはない。


 そんなことがありありと分かる一日だった。



     ◇     ◇     ◇



 貴族令嬢らしからぬとは思いつつも、背に腹は代えられない私は夕方、廊下に聞き耳を立てていた。


 そして部屋からキーシストたちが出て来る足音に合わせて、私も部屋を出た。


 ぴったりと寄り添うように彼の隣を歩くマチュが、嫌そうな顔をしていても、もう気にならなくなっていた。


 自分は元カノだなんて自慢する割に、私がキーシストに近づくのがよほど嫌みたいね。


 取られるって思っているのかしら。


 でも結婚してしまえば取られるもなにも、家族としてこの屋敷に残れたところで肩身が狭くなるだけじゃないのかしら。


 私が彼女の立場だったら、惨めだなって思うけどな。


「リュシカ嬢、今日は時間ピッタリだったね。マチュから説明を受けたのかい?」


 私の少し先を歩くキーシストが振り返りながら声をかけてきた。


「え、ええ」


 本当は食事の時間など説明されてはいないものの、まさか聞き耳を立てていましたとも言えずに、そう返す。


「そっか。二人が仲良くしてくれてよかったよ。家族は仲良くが一番だからな」


 悪気なく笑うキーシストを見ていると、ある意味このいびつな関係性に何の疑問も持っていないのだろう。


 むしろ本当に、このまま家族四人で仲良く暮らせると思っているみたい。


 彼女が私にどんな仕打ちをしているのかも、元カノだったと告白したこともきっと知らないのでしょうね。


 彼の笑みはそんな笑みだ。


 もしかしたらキーシストは悪い人ではないのかもしれない。

 私が今まで出会って来た人とは、まったく違うけれど。


「今日はいい話があるんだ」


 考えごとをしたまま歩いていると、短い廊下は終わり、あっという間にダイニングへたどり着く。


 扉を開けたキーシストはマチュを席にエスコートした後、きちんと私もエスコートをしてくれた。


 順番の問題じゃないのだけど……やっぱりなんだかなぁ。


 いつこの話を切りだしていいものか考えあぐねるうちに、あっという間に料理が運ばれてくる。


 肉はほぼないものの、サラダにスープ、パンなども並ぶ。


 うちと比べてはダメよね。

 朝ご飯にもらったサンドイッチもすごく美味しかったし、味は期待できるもの。


 フォークとナイフを手に取り、メイン料理に手をつけようとした瞬間、遅れて義母が入室してきた。


 義母は私を見て眉をひそめたものの、特に何も言わずに席につく。


「みんな揃ったね。実は、城で明後日行われる夜会へ行こうと思っているんだ」


 キーシストはワイングラスを持ちながら、嬉しげに声を上げた。


「まぁ。夜会なんていつぶりかしら」

「そうだね、母様。中々忙しくて行けてなかったからね」


 二人の喜びように、私の正面に座るマチュがなぜかその怒りを私に向ける。


 今にも食ってかかってきそうな鬼の表情で、私を睨みつけていた。


「リュシカ嬢は初めての王宮での夜会かな?」

「え、ええ。そうですわね」

「ぼくの婚約者としてみんなに紹介しようと思っているんだ」

「ありがとうございます」


 私が微笑みながら返せば、彼は満足げにグラスのワインを一気に飲み干した。


 王宮か……。

 カインはさすがにいないわよね。

 爵位はあっても、夜会なんて堅苦しいところは大嫌いだって言っていたし。


 だいたいまださほど時間が経っていないとはいえ、今さらどんな顔をして会えばいいか分からないわ。


 私にはもう婚約者がいるんだし。

 もしカインがキーシストを見たら、何ていうのかな。


 「おめでとう」と言うのかしら。


 その言葉を言う彼の姿を想像しただけで、息が出来なくなる。

 

 私、ダメね。

 まだ好きみたいだ。


「でも大丈夫かなー? だって、初めての王都での夜会でしょう?」


 急に声を上げたマチュの声で意識を浮上させる。


 先ほどまでの怒りではなく、ニタニタした顔で彼女は私を見ていた。


「あの、大丈夫とは?」

「マナーとかも心配だけど、それよりも服装よね。田舎臭い格好をしたら、あっという間にこの男爵家が笑いものにされてしまうしー」


 田舎臭いって。

 ドレスは父が王都で注文してくれたものばかりだし、別に時代遅れの物なんて持ってはいないはずなのに。


 何かにつけて馬鹿にしたいみたいね。


「ドレスは……」

「確かにそれは言えているわね。さすがマチュだわ。そうね、行く前にチェックした方がいいかもしれないわね」


 反論しようとした私の言葉を、義母が遮った。

 そしてマチュの意見がさも当然かのごとく、納得している。


「ドレスは王都で買い付けたものですので、問題はないかと」

「でもぉ、センスとかってこっちと向こうでは全然違うかもよ?」


 まったく、なんなの?

 ここへ来た時の服装だって、変だったらもっと言われていたはずじゃない。


「何にしても、この由緒正しき男爵家の恥になると困りますからね」

「……」

「マチュの言うことはもっともだし、マチュはセンスがいいからドレスを選んでもらおうよ」


 さすがに私が怒りそうな雰囲気に気付いたのか、妥協案だと言わんばかりにキーシストが声を上げた。


 私としては全然妥協でもなんでもないと思うのだけど、これ以上食事の雰囲気を壊したくない私は渋々納得してみせた。


 あとになって思えば、これが間違いの始まりだったと言えるだろう。


 初めからドレスを選ぶとマチュが言い出した時、なんとなく嫌な予感はしていた。


 だけどあの場ではどうすることも出来ないし、別にドレス自体はちゃんとしたものしかないから、嫌味を言われるようなことはないだろうと思ったのだ。


 だからこそ、彼女の狙いに気付くのが遅れてしまった。


「わー。リュシカさん、ドレスたくさん持っているんですね」


 マチュはクローゼットから、ドレスをいくつも取り出しベッドの上に並べる。


 普通ならばそのまま合わせればいいと思うのに、彼女はいくつも取り出しては何かを考えているようだった。


「これならば夜会に出ても問題ないんじゃないか?」


 マチュと一緒についてきたキーシストも、きちんとしたドレスたちを見て安心したように頷く。


 実家からは全部は持ってこられなかったけど、侍女たちがまだ袖を通していないものからお気に入りのものまで厳選して入れてくれたのだ。


「んー、でもぉ、初めての夜会であんまり派手過ぎても」

「そうなのか?」

「だって、他の令嬢よりも目立ったらやっかみされるかもしれないのよ?」

「ああ、そういうものなのか」


 誰がどう着飾ったって、褒められるようなことはあっても、派手だとけなされることなんてあるのかしら。


 確かに私にとって、王宮での夜会は初めてのことだけど。

 キーシストの婚約者として他の貴族に紹介されるのならば、むしろ良い物を着て行かないとダメなような気がするわ。


「そうよぉ。いきなり田舎から来て目立つだなんて、上の方たちに目を付けられたら大変よ?」

「ああ、それは困るな」

「そうでしょう。あー、このドレスならいいかも」


 そう言いながら、マチュは私の手持ちの中で一番地味なドレスを指さした。


 色はグレーがかった、マーメイドのドレス。

 裾には宝石がやや散りばめられているものの、他のふわふわしたレースをふんだんに使ったドレスたちよりはかなり見劣りする。


 だいたいあれは、夜会などに着て行くようなものではない。

 普段使いや、街などにお忍びで行く場合にと一応入れてもらったもの。


 むしろあんな地味なモノを着て行ったら、余計にジロジロ見られるんじゃないかしら。


 手持ちにはいくつか宝石はあったけれど、ここでは侍女もいないから髪型も自分でセットしなければならない。


 自分ではうまく髪に宝石も付けられないし、どう頑張っても夜会で一番地味になってしまうわ。


「さすがにそれでは地味すぎて、浮いてしまうかと」

「そーかなぁ」

「ええ。あまり地味にしてしまって、変に思われたら男爵家にも申し訳ないですし」

「でもさぁ、リュシカちゃんがキー君よりも目立った方がおかしくない?」

「え?」


 そこまでは考えていなかったけれど、そういうものなのかしら。


 一緒に行く人とは、衣装を合わせたりするものだとは聞いていたけれど。

 確かに二人一組なのに、片方だけ華美だったら浮くかもしれない。


 でも……。


「それならせめて、これくらいならどうでしょう?」


 私はマチュが選んだドレスよりも、少し格上のピンクのドレスを指さす。


「んー、この色だとキー君には合わないんじゃないかな?」


 キーシストはモスグリーンの髪に褐色の瞳。

 ピンクだったら、別に合わない気もしないけれど。


「ぼくもマチュが選んだ方がいいと思うな。マチュのセンスはいつも抜群だから」


 キーシストの答えに、マチュはにたりと笑った。


 どうしよう、このままだと本当にこれを着ていかなきゃいけなくなっちゃう。


 言い訳を探そうと考えているうちに、なぜかマチュは私のドレスたちをいくつも自分の体に当てて姿鏡に映していた。


「ねー、リュシカさん。これとこれとこれ、貸して?」

「え? あの……」

「だってぇ、あたしは夜会には行けないし、これを着て街に出たいな」

「で、でもサイズが少し違うのでは……」


 マチュは私よりも背が低い。

 私のドレスたちはオーダーメイドだから、たぶん裾を引きずってしまうはず。


 しかも彼女が指定したドレスは、私の一番のお気に入りか高い物たちばかり。

 

 貸したくないなんて言ったら、意地悪になるのかな。


「丈は侍女に直してもらうからだいじょーぶ」

「でもそれでは」

「えー、リュシカさんは貸したくない感じ?」


「そうではなくって、丈を詰めてしまったらまた直すのが大変なんじゃないかと」

「そんなのはあたしわかんないし」


 分かんないって。

 他人から借りるのにそれはダメでしょう。


「ねーキー君、明日街へお買い物行きたいな。最近ずっと体調が悪くてどこへも行けていなかったでしょう?」

「ああ、確かにそうだな。マチュは明後日の夜会にも行けなくて可哀想だし、明日は目いっぱい楽しもう」

「きゃー、やったぁ。行きたいお店いっぱいあるんだ」


 子ウサギのように、私のドレスを持ったままマチュがぴょんぴょんとその場で飛び跳ねた。


 キーシストはその姿を嬉しそうに見たあと、彼女の頭を撫でる。


「ふふふ。デート嬉しいな」

「ああ、そうだな」


 デートか。

 そんな言葉を言って、私が何も思わないと思っているのかしら。


 本当に、この人たちはどこまでも私を馬鹿にしているのね。


 ……私、なんでこんなに頑張っているんだっけ。


 惨めさが、思わず零れ落ちそうになる。


「そのドレスだけは止めて下さい」

「えー、なんで? これが一番いいのに」

「それは私にとっても大切なものなのです」


 そう。

 唯一のカインとの思い出だ。


 何があっても、このドレスだけは手放したくない。

 だって貸しても返ってくる確約はないのだから。


「リュシカさんって、優しくないのね。あたしは平民落ちして、こんなにも惨めな人生を歩んでいるのに。たった一度ドレスすら貸してくれないなんて」


 マチュはドレスを握りしめながら、顔をそれで隠しすすり泣き始める。


 どこをどうしたら、そんな話になるというの。


「そのドレスでなければ、他のならば……」

「リュシカ嬢がここまで冷たい人間だとは思わなかったよ。家族であるマチュを大切に出来ない人など、今後のことを考えさせてもらわないといけないな」


 キーシストはマチュの肩を抱き寄せながら、私を睨みつけた。


 やっぱりどこまでいっても、私が悪者みたい。


「貸さないとは言っていないではないですか。他のならば構わないので、それは嫌だと言うのもいけないことなのですか?」

「たった一度貸すくらいで、何をそこまでムキになるのかまったく理解できないな」


 その言葉をそのまま返したい気分だった。


 他ならいいと言っているのに、なぜ人が嫌がる物を貸して欲しいとせがむのか。

 私にはさっぱり理解出来ない。


 でも私が折れなければ、きっともっとキーシストは激高するのだろう。


 どうでもいいわけではないが、これ以上言い争うことに疲れてしまった私は、貸し出すことを了承した。

 

 すると泣きまねだったであろうマチュがすぐさま顔を上げ、勝ち誇ったように笑う。


 そしてそれでも怒りの収まらないキーシストは延々と文句を言いながら、マチュの肩を抱いたまま部屋を出て行った。


 一人部屋に残された私は、悔しさよりも空しさで胸がいっぱいだった。



     ◇     ◇     ◇



 翌日、二人は楽しげに出かけていった。

 手をしっかりつなぎ、はしゃぎながら、あのドレスを着て。


 誰から見ても、お似合いの恋人同士というところだろう。


 それなのになぜか、夜会へ向かう馬車には私とキーシストがいる。


 結婚って、こんなものなのかな。

 諦めかけているのに、それでもいろんな思いが胸をよぎる。


「昨日一緒に行けなかったことに、拗ねているのか?」


 向かいの席に座るキーシストが、馬車の窓から外ばかり見ている私に声をかけてきた。


 正直、まったくもって拗ねてはいない。

 だけど帰宅後もドレスの返却がなかったことは、本当に悲しかった。


 あんなことになるのなら、思い出のまま実家に置いてきてしまえば良かった。


 そうすれば、綺麗なまましまいこむことが出来たのに。


「いえ、そういうわけでは」

「はぁ。まったく、この前も言ったがマチュと仲良くしてもらわないと君が困ることになるんだぞ」


 私の返答が気に食わなかったのか、キーシストはムッとした表情をする。


 正直、なぜここまでこの人が彼女にこだわる理由がまったく理解できない。


「どう困るのでしょう」

「だから家族だと何度も言っているじゃないか」

「ええ。それは何度も聞いております。ですが家族であっても、全員と仲が良いかと言われれば、そうでもないですよね」


 私は思いのままに、つらつらと言葉を返す。

 本当はそこまで言うべきではないのかもしれないが、一度思いが口から出ると止めることは難しかった。


「確かにみんな仲が良いのは理想ではありますが、兄弟や姉妹だって全員仲が良いわけではないですよね」

「ああ、それは確かにそうだな……。ぼくも兄貴と仲が悪かった」

「ではなぜそこまで仲良くということにこだわるのです?」


 私の問いに、嬉々として理由を話し出した。


「確かに兄弟などはそうかもしれないが、マチュには子どもが生まれたら乳母になってもらうつもりなんだ」

「乳母……ですか? ですが乳母って、子どもにお乳をあげるのですよね? マチュさんが未婚ではそれは無理なのでは?」

「もちろんマチュにはいい縁談を持ってくるつもりだ。まぁ、今は人工のミルクもあるようだし、問題ないだろう」


 問題ないって……。

 どう考えても問題しかないじゃない。


 しかもこの言い方だと、もうこれは決定事項ということよね。

 

 産むのは私だと言うのに、私には何の断りもなくそんなことまで決めていたというの。


「あとそうだ。もう名前も考えてある!」

「名前……ですか」

「ああ。男ならマシル、女ならマリアンヌだ」

「その名前も、マチュさんと考えたのですか?」

「良い名だろう? マチュはセンス抜群だからな。彼女に任せておけば、何も問題ないのさ」


 息を吸っても吸っても、なんだか頭が回らない感じがする。


 めまいとは違うけれど、うまく考えがまとまらず、ぐるぐると回っている感じ。


 彼の中の決定事項は、もうどこから否定すればいいのか分からないぐらいだ。


 子どもが生まれても、自分で育てることも名前を付けることも出来ない。


 それを当たり前だという。


 この人の中で私って……。


「キーシスト様にとって、私はなんなのですか?」


 その問いと同時に、馬車は王宮に到着する。


「ん? ああ、着いたみたいだな」


 そう言いながらすでに馬車から降りようと動き始めるキーシストを止めた。


 どうしても今聞きたかった。

 彼の婚約者として、他の人たちに紹介されてしまうまでに。


 そうではないと、もう私は進むことが出来なかったから。


「答えて下さい、キーシスト様。あなたにとって、私はなんなのですか?」

「この話は帰ってから、ゆっくり話し合おう。もう夜会が始まってしまっているよ」


 王宮前に横付けされた何台もの馬車。

 開け放たれたドアの向こうからは、楽し気な音楽も聞こえてくる。


「今知りたいんです」

「いい加減しつこいぞ」


 キーシストはムッとした表情のまま、馬車を一人下りる。


 エスコートすらする気のない彼に続いて下りた私は、彼の服の袖を掴んだ。


「そうやって逃げるつもりなんですね」

「なんだと?」


 私のその言葉に、ようやくキーシストはこちらを向く。


「家族が大事だ大事だと言って、所詮嫁はその中には含まれないのですよね?」

「どう考えたらそうなるんだ。被害妄想もいいところだぞ」

「被害妄想? 幼馴染の元カノを屋敷に住まわせ、何よりも彼女を優先し、彼女の意見しか聞かないのに、被害妄想ですか?」


「だからそれはマチュが……」

「没落したから? 可哀そうだから? 家族だから? そんなに彼女のことが大切ならば、私など不要ですよね」

「いい加減にしろ」


 キーシストはそう言いながら、私の頬をはたいた。


 一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。


 理解したのは、他の令嬢たち。

 痴話げんかを始めた私たちを遠巻きに見ていた令嬢が、キーシストの行動に驚き悲鳴を上げたのだった。

 

 痛いか痛くないかと聞かれれば、たぶん後者なのだろう。


 さほど力が入っていたわけでもないし、彼の腕力からいってもこんなもんなのだろう。


 ただイラっとして、はたいただけ。

 でもそれは許せない。


 言い返せないからと言って、手を出すのは絶対に違う。


 私はずっと我慢してきた。

 結婚なんてこんなものだって。


 でも本心はそうじゃない。

 我慢したのは、そこではないんだ。


 キーシストとマチュの関係を見た瞬間から、結婚なんてしたいとは少しも思わなくなっていた。


 だけど呆気なく失恋してしまって、カインは引き留めてもくれなかった。

 

 それどころか、たぶん私の気持ちなんて子どもの一時の感情だなんて思っていたのだろう。


 だからこそ、意地になってしまっていた。


 結婚して幸せになって、少しぐらい「惜しかった」って思って欲しくて。


 そのためだけに頑張って。そのためだけに我慢したけれど、もう限界だと思う。


 周りの目と、キーシストを非難する声。

 彼はおろおろと、辺りを気にしながら私にではなく周りに弁明を始める。


「いや、これはそうではなく……彼女が……」


 どこまでも馬鹿にする人と結婚したところで「惜しかった」なんて思ってももらえないでしょうね。


 本当、馬鹿みたい。

 いや、初めからずっと馬鹿だったのよね。


 こんな動機で結婚しようとしていたのだもの、ある意味私も自業自得だわ。


 キーシストに絶縁をつき付けようとした瞬間、どこまでも聞きなれた声が王宮へ上がる階段から聞こえてくる。


「リュシカ!」

「……カイン……様」


 それはどこまでも会いたかった人で、今一番会いたくなかった人。


 こんな惨めな姿、絶対に見せたくなかった。


 そう思った瞬間、ぼろぼろと一気に押さえていた涙があふれ出す。


 ああ、最悪だわ。

 あの日も酷かったのに、今日はそれ以上。


 自分の顔がどこまでも不細工なのが分かる。


 だけど涙は嗚咽となり、もう止めることは出来ない。


 幸せになった姿を自慢したかったのに。

 全然真逆じゃない。


 最悪だ。もう消えたい……。

 消えたいのに、もう一度だけ抱きしめて欲しい。


「リュシカ!」


 視界が涙でぼやけ、彼の顔を見ることも出来ない。

 だけど怒りと同時に焦ったような声を上げながら、近づいてくれているのは分かる。


 私はおぼつかない足取りのまま、それでも一歩一歩カインに向かって歩き出した。


 しかしそんな私を、焦ったキーシストが後ろから抱きしめるように止める。


 キーシストにとって、私がカインと合流するのは不味いと思ったのだろう。


 自分のしたことが私の父にもバレてしまうし。


 そうでなくとも、今この場には彼の味方をする人間など一人もいなかったから。


「お、落ち着くんだリュシカ嬢。ちょっと見解の相違があっただけで、君はぼくの大切な婚約者なんだ」


 大切な婚約者? こんなことをしておきながら?

 一度だって私の方を向くことも、意見を聞くこともなかったというのに?


 結局はこの言葉だって、家族のためなのでしょう。


 家族のために、お金を持って自分たちの言うことを素直に聞く嫁が欲しいだけ。


 キーシストにとって私にはそれくらいしか価値がないように、自分の心の中を認めてしまった私にも、もうキーシストには価値がない。


 それに目の前にはカインがいる。


 もうここに留まる必要なんて、どこにもないのだ。


「こんな痴話喧嘩など、恥ずかしいだろう? ほら、みんなも見ているし、ちゃんと謝って誤解を解かないと」


 この期に及んで自己の保身に走るとはね。


 気づけば、もう涙すら止まっていた。


 そして目の前にいるカインを見る。

 表情こそ出していないものの、カインは怒っているように思えた。


「リュシカ、こっちに」


 どこまでも優しい声でカインはそう言うと、私に右手を差し出す。


 私は微笑み返すと、そのままの体勢でキーシストの足をヒールで踏み抜く。


「ぐ、ぁぁぁぁぁ!」


 いきなりの攻撃に意味が分からないキーシストは、私をその腕から解き放つ。


 自由になった私はそのまま右ひじを一気に後ろに引き、肘を彼の鳩尾に極める。


「ぐっは!!」


 非力な私の攻撃とはいえ、鳩尾にそのままめり込んだ肘はかなりの痛みがあったのだろう。


 吐くように口を開け、上を向きながら地面にキーシストはうずくまる。


 だけどまだカインの元には行けない。


 そうこれは彼や騎士団の人たちと何度も練習をしたことだ。


 悪漢に襲われた時の対処法。


 少しくらい相手が怯んだからといって、攻撃の手を止めてはいけない。


 女だからこそ、相手が沈黙するまで徹底的に。


 そう何度も言い聞かされてきたことだ。


 私は鳩尾を抑えてうずくまるキーシストの首元めがけて、思いきり踵を落とす。


 踵がほんの少し当たった瞬間、後ろからふわりと抱きかかえられる。


 いつものムスクの匂い。

 振り返らなくても、誰か分かる。


「カイン……様、私、私……」

「よく我慢してきたな」

「だってちゃんと幸せにならなきゃって、幸せになって忘れなきゃって……」


 私は抱きしめられたまま、上を見上げた。


 見たコトもないような表情だった。


 どこか観念したような、それでいて困ったような顔。


「もういいんだ」

「でも」

「いいんだ、リュシカ。俺が悪かった」

「カイン……様?」

「本当にすまない。俺が悪かったんだ」


 カインが何に対して謝っているのか分からず、私は首をかしげる。


「カイン様……何を?」

「君を手放すべきじゃなかったんだ」


 その口からは、後悔が溢れていた。


「ずっと君のことは思っていた。だけど親子ほど年の離れた娘に恋をしているなど認めてしまっては、ダメだってセーブしていたんだ」

「……恋」

「ああ。だから君を狙う騎士団の奴らは遠ざけ、なるべく他の男の目に入らないようにして……いつか本当にいいと思った男に譲るつもりだった」


「私が騎士団への訪問を止めたのは、淑女になったからではなく」

「醜い嫉妬だ。譲るなんて思いながらも、あの日君が婚約することになったと言われ動揺してしまった」


 あの日、私はただ呆気なく突き放されたのだと思っていた。


 私になんてやっぱり興味などなく、親か兄としての役目が終わったくらいにしか思ってないんだって。


 でもそうじゃなかったんだ。

 

 カインの言葉と、この表情を見ていたら、どちらが真実かなんて考えなくても分かる。


「それでも君の幸せを祈って諦めようと思った。その結果がこれだ」

「でもそれはカイン様のせいではないじゃないですか」

「いや。俺はあの時ちゃんと止めておけばよかったんだ」


 そう言い切ったあと、カインは私を真っすぐに見た。

 

 私はきちんと彼の方に向き直る。


「リュシカ、俺は君にずっと惚れていた。………君が好きなんだ。年甲斐もないし、許されないことかもしれないが……。俺と結婚して欲しい」


 カインは私の前で跪く。

 そして、私にもう一度手を差し伸べた。


 あんなに惨めだった思いも、怒りも悲しみも、もう訳が分からないほどだ。


 何が起きたんだろう。


 そう、その一言に尽きる。


 あれだけ欲しくてももらえなかった言葉も、大好きな人も目の前にいる。


 私、幸せになってもいいのかな。

 こんなの許されるのかな。


「リュシカ」

「カイン様、嘘だとしてももう撤回させませんから」


 私は一度手を掴んだあと、そのまま彼の体に抱きつく。


「嘘じゃないよ」


 カインはそう言いながら軽々と、片手で私を持ち上げた。


「ちょ、ちょっとさすがに降ろしてください。もう子どもじゃないんですから」

「ああそうだな。子どもじゃないのは知っているよ。俺の可愛い姫が疲れ切っているんだ。歩かせるわけにはいかないだろう」


 私の抵抗などまったく気にすることなく、カインは呼び寄せた自分の馬車に私を担ぎ入れる。


 見ていた観客たちからは、黄色い声援や拍手が飛び交う。


 さすがに一気に恥ずかしくなってしまった私は、カインの肩に顔を埋めたのだった。



     ◇     ◇     ◇



 あれから父以外にも、騎士団の方や王族の方まで巻き込んで、結婚の話は一気に進んだ。


 通常半年以上かかるであろう式も、ほぼ一か月で行われたほどだ。


 あの日夜会の前に起きた事件は、恥ずかしくも記事になってしまったから。


 民衆まで広く、私の婚約破棄の暴れっぷりと、カインの求婚は話題となったらしい。


 いろんな人に祝福されるのは嬉しいことだけど、我を忘れて暴れるのは金輪際やめなくてはと思う。


「ですが、まさかキーシスト様が犯罪を起こしているとは思ってもみませんでした」


 飲み干した紅茶のカップを静かにテーブルに置きながら、私は目の前に座るカインに話しかける。


 結婚式を終えて、今日で半月ほど経っただろうか。


 温かな日差しが差し込む、春の昼下がり。

 私たちはカインの別荘の中庭で、いつもの、二人だけのお茶会を楽しんでいた。


「君との婚約が決まった時に、すぐさま調べ出したんだ」


 カインや騎士団たちの調べで、キーシストが実の兄を殺害しているということが判明したのだ。


 どうやら原因はマチュだったらしい。


 いつまでも屋敷にマチュを囲うことに反対した兄を、キーシストが偶発的に、ということらしい。


 彼はその後、貴族殺害の罪で死刑となった。


 そしてお家は取り潰しに遭い、没落。


 マチュは二度目となる没落を味わったらしい。


 もっとも、元々もう平民だった彼女にはさほどダメージはないのかもしれない。


 ただ寄生先がなくなったというだけで。


 あれだけ大切だった家族なのだから、きっと残った二人で肩を寄せ合って生きていくでしょう。


 私にはもう関係のないことだ。


「さすが優秀なんですね」

「いや、もしなかったらでっち上げてでも、追放していたところだ」

「んんん?」


 今さらりと、不穏なことを聞いた気がするけれど、これは聞かなかったことにしよう。


「とにかく君を取り戻せて良かったよ」


 あの日最後だと思ったこの景色は、ある意味永遠になった。


 私とカインの二人だけの空間。

 あんな馬鹿みたいなことに意地を張って我慢したことは、どこまでも苦しかったけれど、今があるからもう十分すぎる。


 きっとお互いの気持ちを確かめるための、必要な通過点だったのね。


「私もカイン様とこうやって一緒にいることが出来て幸せですわ」


 そう微笑めば、カインはテーブル越しに身を乗り出し、私にキスをしてくれた。

 

「でももう半月もお仕事に顔を出さなくても平気なのですか?」

「いいんだ。新婚だからな」


「ですがつい先日も、王都から騎士団の方が困ってやって来たではないですか」

「だが君にもしものことがあると困るから、離れるわけには」


 珍しくカインが口を尖らせる。

 いくら新婚だとはいえ、さすがにこれだけ休んだら騎士団に迷惑がかかってしまうのに。


 何度大丈夫だと言い聞かせても、カインは首を縦に振らなかった。

 

 ここへ来る前もそうだが、求婚されてからというもの、カインの過保護っぷりは増すばかり。


 転ぶといけないからとすぐに抱っこしようとするし。

 私の実家が近い方が私が安らげるだろうという理由で、王都の屋敷にも一緒に帰ろうともしない。


「私にこんなに過保護だと、子どもが生まれたらどうするんですかね」


 ふと思った疑問を口に出す。


 するとカインはスッと勢いよく立ち上がった。


「娘なら絶対に嫁にはやらん!」

「あの、まだ妊娠してもいないのですが」

「いや、絶対にダメだ。君に似た子ならば、絶対に可愛いに違いない。誘拐でもされたら困る。そうだ。子どもが出来たら仕事を辞めよう。そうしよう」


 片手で拳を作り、カインが何度も頷く。


 まったく、これでは本当に先が思いやられるわ。

 結婚するまでは、こんなに過保護に愛してくれる人だなんて思いもしなかった。


 だけどその過ぎるほどの過保護さが、今の私には心地いい。


 さぁ、なんと言いくるめて王都へ戻ろうかしら。


 今はかけがえのない二人の家族だけど、それが増えるのはそう遠くない未来かもしれない。


 どこまでも温かな日差しの中、一人暴走するカインを見て、私は幸せを噛みしめていた。

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