ぜろ
事故のニュースを読むたびに、同じ言葉が使われる。
「いくつもの偶然が重なった結果」——。
都内で起きたサウナ事故も、そう説明された。設備の不具合、点検の遅れ、利用者の行動、管理者の判断。そのどれか一つが欠けていれば、起きなかったはずだという。確率論的には、ほとんど奇跡に近い連鎖だ。だが奇妙なことに、そうした“奇跡”は、定期的に、しかも社会の注意が別の方向を向いている時に起こる。
事故は、いつも「説明できる形」で起きる。
原因は複数挙げられ、再発防止策が示され、報告書は閉じられる。設備の経年劣化、点検頻度、現場判断という要因が積み重なった結果と整理された。単独では致命的でない要素が、同時に並んだときだけ起こる事象——そう定義すれば、確率論の範囲に収まる。
一月下旬、交通事故の報は連日続いた。北海道では踏切で遮断機を突破したトラックが列車と衝突し、死者と負傷者が出た。島根では横断歩道を渡っていた小学生が大型トラックにはねられ、運転手は現場を離れた。大阪では歩行者が約五百メートル引きずられるひき逃げが起き、神奈川では乗用車とトラックの正面衝突で二人が死亡した。東京・港区ではトラックがガードレールを突き破り、対向車線に侵入した。いずれも、個別に見れば「不注意」「判断ミス」「疲労」といった語で説明がつく。
同時期、経済面の片隅に小さな記事が載った。日本の半導体製造装置大手・東京エレクトロンをめぐり、営業秘密の不正取得に関するスパイ容疑での捜査が進んでいる、という内容だった。軍事転用可能性を含む技術情報が標的とされ、国外情報機関との関与が疑われる——表現は慎重で、断定は避けられていた。数行で終わる記事は、感情を喚起しない。
似た構図は他にもある。工作機械メーカーの機密情報が国外に流れたとされる事件。中国で「反スパイ法」を理由に拘束され、長期刑を受ける日本人の事例。法令や安全保障という枠組みで処理される一方、具体像は共有されにくい。難解で、時間を要し、即時の怒りに変換しづらいからだ。
対照的に、事故は分かりやすい。映像があり、被害があり、感情が集まる。注意は一斉にそこへ向かい、別の話題は沈む。偶然の重なりが説明として機能するほど、思考は早く終わる。再発防止という言葉は、納得の印として押される。
では、なぜ事故はなくならないのか。技術が進み、安全装置が増えても、同種の事故は繰り返される。偶然が重なっただけなのか。それとも、社会の注意が有限であるという前提の上で、見えなくなるものが常に生じているだけなのか。トラックへの衝突軽減装置などが追加されないのはなぜか?
証拠はない。結論も出ない。ただ、事故と同時期に、静かに進む出来事がある。その並びを「無関係」と呼ぶのは容易い。しかし、そう呼んだ瞬間、私たちは見なくてよいものを確定させてしまう。
今日もまた、説明可能な出来事が起きる。
そして、その説明の外側で、別の事実が進行している。




