第9話 防災知識は役に立つ
……不幸中の幸い、というべきだろうか。
この世界の人たちの言葉は、ちゃんと理解できる。
意味が通じる。会話が成立する。
これだけで、生存難易度はだいぶ下がっているはずだ。
「……こうなったら、誰かに頼み込んでみる?」
頭に浮かんだ案を、私はそのまま口に出し——そして即座に首を振った。
「……いや、待って。冷静になろう、私」
知らない街。
知らない文化。
知らない社会情勢。
そんな中で、身元不明の人間が突然、
「すみません、今夜寝る場所がなくて……」
「あと、できれば食べ物も……」
って言ってきたら?
「……相手がどんなに善人でも、普通に怖いよね?」
むしろ、警戒しない方がおかしい。
この街には貧困層が存在している。
さっき見た裏通りの光景が、それを如実に物語っていた。
つまり、「困っている人」は私だけじゃない。
善意には限界があるし、助ける側にも余裕が必要だ。
「……私、今“助ける側”じゃなくて、
“助けられる側”ですら怪しい立場だし……」
下手をすれば、
詐欺師。
浮浪者。
怪しい女。
そんな認識をされても、おかしくない。
「……ダメだな。これは」
私は、無意識に腕を抱えた。
頼るという選択肢は現時点ではリスクが高すぎる。
じゃあ、次の案。
「……最悪、この体を売り物にしちゃう?」
思考がそこまで行った瞬間、私は自分で自分の頭をはたいた。
「ダメダメダメダメ!!」
何を考えているんだ、私は。
確かに、世の中にはそういう生き方もある。
否定はしない。
でも、それは——
「“選択肢を理解した上で選ぶ道”であって、
“追い詰められて飛び込む道”じゃない」
ましてや私は、ここまでこれ以上ないくらい健全に生きてきた。
夜遊びもしてない。
危ない橋も渡ってない。
バイトだって、塾講師とかコンビニとか、超安全圏。
「そんな私が、異世界来た初日に夜の世界とか……
世の中舐めすぎにも程があるでしょ」
しかも冷静に考えて。
「……私に需要、ある?」
鏡代わりにガラスに映る自分をちらっと見る。
華奢。
地味。
清楚寄り。
色気? 知らない子ですね。
「……ないな」
あったとしても、それはそれで怖い。
そして何より、そのルートの先に見える未来は——
「……バッドエンド一直線」
身体も心も削れて、最後は助けたい人を助けられなくなる。
「……うん、ナシ。完全にナシ」
私は深く、深く息を吐いた。
残る選択肢は——
「……野宿、か」
覚悟を決めるしかない。
嫌だ。
怖い。
不安。
でも、他に安全な手段がない。
「……野宿って言っても、場所が問題だよね」
人目につかない。
でも、危険すぎない。
雨風を多少は防げる。
治安が最悪じゃない。
私は頭の中で、知識という名の引き出しを必死に漁った。
キャンプ。
災害時マニュアル。
サバイバル番組。
「……地面はダメ。体温奪われる」
石畳は論外。
冷えるし硬いし、体が悲鳴を上げる。
「……風が直撃する場所もダメ」
体温低下は免疫低下。
免疫低下は感染症。
今の街でそれは致命的。
「……水場の近くも危険」
湿気。
虫。
最悪、夜中に人が来る。
「……できれば、建物の陰」
倉庫の裏。
使われていない路地。
人通りが少なく、でも完全に隔絶されていない場所。
「……街灯の明かりが、ほんのり届くくらいが理想」
完全な暗闇は危険。
でも明るすぎると目立つ。
私は、ロストンの街を歩きながら、条件に合いそうな場所を探した。
そして、見つけた。
港から少し離れた、古い石造りの建物の裏。
壁と壁の間にできた、風を遮る細長い空間。
上には張り出した屋根。
地面は石だけど、隅に木箱と麻袋が積まれている。
「……ここ、悪くないかも」
私は周囲を確認し、そっとその場に腰を下ろした。
次は、寝床作りだ。
正直に言えば、「寝床作り」なんて言葉を自分が本気で使う日が来るとは思っていなかった。
せいぜいキャンプでテントを張ったことがある程度で、しかもそれだって説明書と友達に頼りきりだった私が、異世界の裏通りで野宿の準備をしている。人生、どこでどう転ぶかわからない。
私はまず、周囲をもう一度じっくりと観察した。
石造りの建物の裏手。
昼間は目立たなかったけれど、夜になると人通りはほとんどなく、港の喧騒もここまでは届かない。潮の匂いは薄く、代わりに石と埃の乾いた匂いが鼻をくすぐる。
完全な暗闇ではなく、少し離れた街灯の明かりが壁に反射して、ぼんやりとした影を作っている。
「……真っ暗よりは、マシ」
現代日本で見聞きした防災知識が、脳裏をよぎる。
暗すぎる場所は危険。
人の気配が完全に途絶えている場所も危険。
でも、人目につきすぎる場所もまた危険。
この場所は、その中間だ。
誰かが通れば気配は分かるし、かといって目立ちすぎもしない。
次に、地面を見る。
石畳は冷たそうで、見ただけで体温を奪われる未来が想像できた。
地面に直接寝るのは論外。これは災害時マニュアルでも、サバイバル番組でも口を酸っぱくして言われていた。
「地面と体の間に、何か挟む」
私は積まれていた麻袋を引き寄せた。
恐る恐る中を覗くと、幸いなことに中身は空っぽ。穀物の匂いがほんのり残っているけれど、湿ってはいない。
「……よし」
麻袋を二つ折り、さらに折りたたむ。
厚みは心許ないけれど、石の冷たさを直接感じるよりは、何倍もいい。
「簡易マット、完成」
声に出して言うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
こういうときは、作業を「工程」として認識するのが大事だ。
不安を感情で処理すると押し潰されるけれど、行動に分解すると耐えられる。これは、医学生として学んだことでもある。
次は風対策。
夜風は、思っている以上に体力を奪う。
特に背中と首元。ここを冷やすと、一気に体温が下がる。
私は近くにあった木箱を動かし、背中側に配置した。
完全な壁にはならないけれど、直撃する風は防げる。
「……風除け、ヨシ」
少しだけ、キャンプをしていた頃の記憶が蘇る。
焚き火のそばで友達と笑っていた夜。
あの頃は、寒さも不便さも「イベント」だった。
「……今は、イベントじゃないけど」
私は苦笑して、最後に周囲を見回した。
食べ物はない。
水もない。
荷物もない。
持ち物チェックは、一瞬で終わった。
「……何もないな」
思わず笑ってしまうくらい、見事に何もない。
でも、体はある。
服もある。
そして、考える頭もある。
私はチュニックの裾を整え、できるだけ体を小さく丸める。
膝を抱え、背中を少し丸める姿勢。
これは、体温を逃がさないためだ。
「……低体温症、ダメ、絶対」
医学部で習った言葉が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
首元を守るため、腕を胸の前に回し、顎を軽く引く。
地味だけど、こういう細かいことの積み重ねが、生死を分ける。
「……ほんと、災害時マニュアルありがとう……」
誰に向けた感謝なのかは分からない。
中学の授業か、大学のオリエンテーションか、それともテレビの向こうの誰かか。
私は小さく息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
怖くないわけじゃない。
むしろ、普通に怖い。
知らない街。
知らない世界。
知らない明日。
胸の奥がきゅっと締めつけられて、不安がじわじわと滲んでくる。
でも——
「……今日一日、よく頑張ったよ、私」
声に出して、そう言った。
異世界に来て。
混乱して。
迷って。
それでも、逃げずに考えて、生きる選択をした。
拠点も。
仕事も。
身分も。
全部、明日でいい。
「……今日は、生き延びた。それで十分」
石と木と麻袋で作った、頼りない寝床。
ロストンの夜風は冷たいけれど、私はそれを受け入れるように静かに身を委ねた。




