第6話 お金がない
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少年の家を後にし、私はゆっくりと石畳の道を歩きながら、改めてこの世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
潮の匂いと、人の熱気。
どこかで焼かれている肉の香ばしさと、薬草の青臭い匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。
——ここは、ロストン。
ラント帝国南部に位置する海洋交易都市。
「北の門」とも呼ばれ、帝国と外の世界を繋ぐ重要な中継地だ。
——そう教えてくれたのは、さっきまで私に礼を言ってくれていた、あの少年の父親だった。
「ここはロストンだ。帝国の港町でな、北と南、東と西の荷が全部ここを通る」
彼はそう言いながら、家の前から見える港の方角を顎で示した。
「帝都から見りゃ端っこだが、商人にとっちゃ中心みたいなもんだ。
だから人も物も、良くも悪くも集まる」
ラント帝国の街でありながら、帝国の色だけでは語れない場所。
旅人や異国人が多い理由も、身分のはっきりしない人間が紛れ込める理由も、彼の言葉で腑に落ちた。
「困ったことがあっても、役所よりギルドに行け。
ここじゃ、金と信用がものを言う」
そう言って苦笑した彼の表情が、やけに印象に残っている。
——なるほど。
だから、この街はどこか雑多で、それでいて息苦しさが少ないのか。
私はその言葉を思い出しながら、改めて目の前に広がる街並みを見渡した。
地理的にも政治的にも、ロストンは特殊な立ち位置にある。
三つの国の勢力圏が交わる場所にあり、帝国の影響下にありながらも、完全な直轄領ではない。
形式上はラント帝国に属しているものの、実態は自治都市に近く、商人ギルドの力が非常に強い。
そのため、この街には——
商人、職人、船乗り、学者、旅人。
行き場を失った流れ者や、表の仕事では生きられない裏稼業の人間まで。
ありとあらゆる人々が流れ込み、溜まり、また去っていく。
「……なるほど。混沌としてるけど、生きやすそうでもある」
少なくとも、身分不明の異邦人が即座に排除されるような空気ではない。
それだけでも、今の私にはありがたかった。
私は歩きながら、周囲の街並みを改めて観察する。
「うわぁ……まさにファンタジーの世界……」
思わず、独り言が漏れた。
白を基調とした石造りの建物と、木造の家屋が混在し、屋根には青や赤の瓦が使われている。
窓辺には色とりどりの布や花が飾られ、風に揺れるたびに、街全体が生き物のように呼吸しているように見えた。
道は石畳で整備されているが、ところどころに古さが残っている。
それが逆にこの街が長い歴史を積み重ねてきた証のようで、妙な安心感を与えてくれる。
通りに面した市場は、特に活気に満ちていた。
木箱に山積みされた野菜。
見たことのない形をした果物。
乾燥させた薬草や、色鮮やかな香辛料。
売り子たちの声が、ひっきりなしに飛び交う。
「はいはい、新鮮な羊肉だよ! 今朝さばいたばかりだ!」
「魔法の灯りはいかがですか!? 夜でも使える不思議な光! たったの三銀貨!」
「旅人さん! 焼きパンはどう? 焦がしバターの香り、今が一番よ!」
「……」
私は思わず足を止めた。
……お腹が、鳴りそう。
いや、正確にはもう鳴っている。
さっきの少年の家では、ろくに食べられなかったし、ここまで歩いてきて完全にエネルギー切れだ。
「……ダメだダメだ。今は我慢」
食欲に引きずられるまま財布を出そうとして、私は現実に引き戻される。
——財布、ない。
というか、お金そのものがない。
「っていうか……この世界のお金の概念、どうなってるんだろ……?」
私は市場の端に立ち、さりげなく店先の値札を眺めた。
パン一斤が五銅貨。
果物が一銀貨。
魔法の灯りが三銀貨。
通貨は、銅貨・銀貨・金貨の三種類が基本らしい。
感覚的には、銅が小銭、銀が日常通貨、金は高額取引用……そんなところだろう。
「ふむふむ……」
私は頭の中で、必死に日本円換算を試みる。
——いや、無理だ。
経済基盤も物価も違いすぎる。
でも、相対的な価値は分かる。
パンが五銅貨で買えるなら、労働一日分がどれくらいなのか。
宿代はいくらくらいなのか。
「経済感覚をつかむのも大事だよね……」
医療知識も大事だけど、生きるためにはまず生活基盤。
医学生だろうが異世界人だろうが、空腹には勝てない。
私は再び歩き出す。
市場を抜けると、通りの雰囲気が少し変わった。
石造りの建物が増え、看板の文字も整っている。
商会の事務所。
工房。
倉庫。
「……ここが商業地区かな」
ロストンが「商人の街」と呼ばれる理由が、なんとなく分かる気がした。
この街は、動いている。
金も、人も、情報も。
そして——
「……ここなら、私みたいなのも、飲み込んでくれるかもしれない」
そんな根拠のない希望が、胸の奥に芽生え始めていた。
私はまだ、何者でもない。
名前すら、この街に刻まれていない。
それでも。
ロストンという街は、
そんな存在を拒絶せず、
ただ黙って「次はどうする?」と問いかけてくる。
私はその問いに、まだ答えられないまま、
再び石畳の道を踏みしめた。
——とりあえず、生き延びる。
そのための一歩を、確かめるように。




