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第4話 宿屋の前で出会ったものは、ベッドではなく“現実”でした



木製の扉は、見た目こそ年季が入っているもののきちんと手入れされているらしく、取っ手に触れてもぐらつく気配はない。

表面には細かな傷がいくつも刻まれているが、それは荒れ果てた放置の痕ではなく、「長年、多くの人間がここを出入りしてきた」という歴史の重みのようにも見えた。


この向こうには、確実に屋根がある。

少なくとも雨風はしのげる。

そして運が良ければちゃんとしたベッドがあって、最悪でも藁よりはマシな寝床があるはずだ。


――さらに欲を言えば、温かいスープ。

できれば塩味で、具が入っているやつ。

できればおかわり自由。


「……生き延びるための第一歩、だよね」


自分に言い聞かせるように小さく呟き、私は取っ手に手を伸ばした。

この扉を開けることが、今の私にできる最善の選択。

異世界生活、まずは生存ルート確保からである。


――そう思った、そのとき。


「あんた、それ以上咳するんじゃないよ! うつるだろうが!」


空気を切り裂くような鋭い怒鳴り声が、通りに響き渡った。


「くっ……ごほっ、ごほっ……っ!」


続いて聞こえたのは、明らかに苦しそうな肺の奥を引き裂くような咳。


私は反射的に手を止め、声のした方へ顔を向けた。


宿屋の脇、建物の影に隠れるような少し奥まった路地裏。

そこに、ひとりの男が蹲っていた。


着ている服はもともと何色だったのか分からないほど擦り切れ、肘や膝は破れ、ところどころに黒ずんだ染みが広がっている。

背中を丸め、地面に手をつき、まるで自分の身体を支える力すら失いかけているようだった。


咳をするたびに細い体が大きく前のめりに揺れ、苦しそうに胸を押さえる。

その動き一つひとつが、見ているこちらの喉まで締めつけてくる。


「……なに、あれ……」


気づいたときには、胸の奥がざわりと波立っていた。


この感覚には覚えがあった。

それも、嫌というほどに――。


医学生だった頃、実習先の病院で何度も見た。

救急外来のベンチ、夜間病棟の談話室、酸素のにおいが漂う待合スペース。

周囲と距離をとるように背を丸め、浅く不規則な呼吸を繰り返す人たち。

息を吸おうとしても胸郭がうまく広がらず、呼気が十分に吐ききれない。

喘鳴の音がかすかに混じる咳。

交感神経が優位になっているのか、わずかに震える手指と、蒼白な口唇。


――呼吸器系に明らかな異常兆候を呈している人。


診断がつく以前に、視診だけで分かる。

臨床の現場では、まず「この人は普通ではない」と、直感的に察知することが求められる。

そしていま目の前のその人も、まさにその“シグナル”を発していた。



「おい、あいつ疫病だろ……? 近づくなよ」


「ひぃっ、やめろ、逃げようぜ!」


周囲の人々は、ひそひそと声を落としながら距離を取り、男を遠巻きに囲んでいた。

その視線は同情よりも恐怖が先に立ち、まるで“触れてはいけないもの”を見るようだった。


誰も近づかない。

誰も声をかけない。

誰も、助けようとしない。


「……疫病……?」


その言葉が、嫌な重さを伴って胸に落ちてくる。


宿屋の扉にかけていた手をゆっくりと離す。

木の感触が指先から抜けていくのと同時に、足がほんの少しだけ前へ出ていた。

近づくつもりはなかった。

ただ、気づいたらそうなっていた。


頭の中ではっきりとした合図があったわけじゃない。

でも、確実に何かが切り替わったのは分かる。


考える前に、見てしまう。

見ないようにしようとしても、目が勝手に追ってしまう。

それは医学生として身につけた癖というより、もう体に染みついた反射に近かった。



医学生時代の記憶を呼び起こしながら、私は慎重に男の人の様子を観察する。

咳、顔の蒼白、衰弱した様子…… でも、発疹や出血は見られない。

これは……風邪やインフルエンザとは違う気がする。


「すみません! 彼はどんな病気なんですか?」


私は近くの店の主人に尋ねた。


「さぁな。最近、“黒死の病”って呼ばれる疫病が流行ってるって噂だ。かかったら終わりらしいぜ」


路地裏で聞いたその言葉に、私は思わず足を止めた。


「……黒死の病?」


「王国の医者どももお手上げらしい。治らねぇし、うつる。だから疫病持ちは放っておくしかねぇんだよ」


男は肩をすくめるように言った。


「そんな……」


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


日本で医学生だった頃、私は何度も思っていた。

——救えない命を、救える医者になりたい、と。


でも現実は厳しかった。

知識はあっても、判断力が足りない。

現場では立ち尽くすことしかできない自分。

結局、私は「何もできない側」の人間だった。


それなのに——


「……いや、待って」


私は、はっとして自分の手を見つめた。


「この世界って、魔法あるよね?」


エルフが歩いてて、獣人が商売してて、空気中に魔力っぽい何かが漂ってる世界だ。

だったら——


「もしかして……私、治癒魔法とか使えたりしない?」


ふと、そんな考えが頭をよぎった。


いや、待って。

これ、冷静に考えるとめちゃくちゃ都合のいい発想じゃない?


でも——ここは異世界だ。

エルフが歩いてるし、獣人が商売してるし、空気中に「魔力っぽい何か」が漂ってる。

だったら、ひとつくらい異世界転生特典があっても罰は当たらないはずだ。


異世界転生あるある。

記憶引き継ぎ+謎の能力覚醒。

医学生だった前世の努力が、ここで報われる流れ。


「……うん、期待しない方がおかしい」


私は自分を納得させるようにうなずいた。


「よし……試すだけなら、タダだよね?」


失敗したところで、恥ずかしいだけ。

成功したら……それはもう人生(第二幕)の大勝利だ。


私は路地裏の壁にもたれかかり、苦しそうに咳き込んでいる男の前に立った。

近づくと、熱っぽい息と汗の匂いが鼻をつく。


(うわ……これは普通にしんどそう……)


医学部時代、病棟実習で見た「体調悪そうな人」の典型例だ。

顔色は悪く、呼吸は浅く、全身がだるそう。


「えっと……」


私は少しだけ躊躇いながら、そっと手を差し出した。


(いきなり光らなかったらどうしよう……

 “何してんだコイツ”って顔されたら立ち直れない……)


内心で散々ビビりつつ、それでも覚悟を決める。


「……回復魔法!」


口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。

思ったより堂々とした声が出たからだ。


——その瞬間。


手のひらが、熱を持った。


「……え?」


次の刹那、眩い光が一気に溢れ出した。


「うおっ!? な、なんだこれ!?」


男が驚きの声を上げるのと同時に、光は彼の体を包み込んだ。

暖かく柔らかく、それでいて力強い光。


(ちょ、ちょっと待って……

 これ、想像の十倍くらい派手なんだけど!?)


心の中で全力ツッコミを入れている間にも、光は収まっていく。




そして——


「……あれ?」


男の咳が、ぴたりと止まった。


ゆっくりと背筋を伸ばし、深く息を吸う。


「……体が……楽だ……」


その声は、さっきまでの苦しそうなものとは別人のようだった。

顔色も、明らかに良くなっている。


「えっ……」


私は目を見開いた。


「……治った?」


「うおおおお!? すげぇ! 一瞬で治りやがったぞ!!」


周囲が一気にざわつく。


「おい見たか!?」

「聖女様じゃねぇか!?」

「奇跡だ……!」


「……ちょ、ちょっと待って!?」


私は思わず両手を見下ろした。


(え、なにこれ……

 私、今なにしたの……?)


確かに、治っている。

錯覚じゃない。

目の前で、…はっきりと。


「この力があれば……」


胸の奥がじんわりと熱くなる。


日本では知識があっても何もできなかった。

迷って、立ち止まって、無力さを痛感してばかりだった。


でも——


「この世界なら……」


私は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「本当に命を救えるかもしれない」


そんな確信(?)が、はっきりと胸に宿る。


そう思った、その直後だった。



「……あの……」



控えめな声がした。


振り返ると、上質なベストを着た中年の男が緊張した面持ちで立っていた。


「もし、よければ……私の息子も診ていただけないだろうか」


「息子さん……?」


「ああ。あの疫病にかかってしまって……」


私は、息をのんだ。


黒死の病。

不治の病。

でも——


「……行きましょう」


迷いはなかった。


男の人に案内され、息子さんがいるという場所へ向かった。


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