第3話 迷ったら交番へ!――なお異世界に交番は存在しない模様
人は、困ったときにこそ本性が出るらしい。
そして私は今、どう言い繕っても否定しようのないほどに、
「とても困っている人間」だった。
何が困っているかと言えば、まず場所。
次に立場。
そして決定的なのが、身分も金も未来の見通しも、すべてが存在しないという事実である。
……詰みでは?
いや、まだ早い。
落ち着け、私。
「……よし」
私は小さく気合を入れ、ロストンの中央広場を離れて石畳の通りを歩き始めた。
人の流れから少し外れた場所を選びながら、頭の中では必死に現実世界の記憶を引きずり出している。
こういうとき、日本ならどうする?
答えは、ほぼ反射的に浮かんできた。
——迷ったら、交番に行け。
財布を落としたとき。
知らない街で道に迷ったとき。
身分証もなく、完全に詰んだ気分になったとき。
とりあえず交番。
そこには制服を着た、だいたい優しい大人がいる。
最悪でも、地図くらいは渡してくれる。
そう、交番とは文明のセーフティネットなのだ。
「……うん、そうだ」
私は一人でこくりと大きくうなずいた。
周囲の人に見られていなかったことを祈る。
「この世界にも……交番的なもの、あるよね?」
だってここは、どう見てもそれなりに発展した都市だ。
港があって、商人が行き交っていて、物流も経済も回っている。
ならば治安を管理する組織が存在しないわけがない。
あるはずだ。
きっと、名前や形が違うだけで。
そう自分に言い聞かせながら、私は「それっぽい建物」を探すことにした。
最初に目に入ったのは、白い石柱が並び、正面に大きな紋章が刻まれた荘厳な建物だった。
どっしりとした佇まいで、明らかに街の重要施設であることを主張している。
「おっ……役所っぽい?」
希望が胸に灯る。
だがその希望は、数歩近づいた瞬間に消え失せた。
入り口の左右に立っているのは、全身を金属で覆った騎士さん。
フルプレートアーマー。
手には長槍。
視線はまっすぐ前方。
無表情。
圧が強い。
身長、でかい。
「……ちがうな」
直感が全力でそう告げていた。
これは交番じゃない。
これは絶対に、身分不明者が近づいたら「止まれ」と言われるタイプの施設だ。
交番というより、むしろラスボスの城に入る前のチェックポイントである。
私はそっと方向転換した。
次に目に入ったのは、人の出入りが激しく、建物の外壁いっぱいに掲示板が並んでいる場所だった。
紙や羊皮紙が何枚も貼られ、情報量が多い。
「……ここは?」
期待半分で近づいた瞬間、中から聞こえてきたのは、想像以上に生々しい音だった。
「それは規約違反だ!」
「だから言ってるだろ、税率が高すぎるんだ!」
怒鳴り声。
机を叩く音。
そして、金貨がぶつかり合う、乾いた音。
……商人ギルド。
「……ここで道聞いたら、契約書書かされそう」
しかも細かい字で。
しかも途中で条件追加されるやつ。
私は何も見なかったことにして、その場を離れた。
さらに歩く。
今度は石造りで、屋根の上に鐘が設置された建物が見えてきた。
ステンドグラスが光を受けてきらめいている。
「……教会?」
中をちらりと覗くと、
静かな空間に低い祈りの声が響いていた。
神官らしき人物が祭壇の前で手を組み、厳かな雰囲気が満ちている。
……空気が、重い。
「……うん、違う」
私が今求めているのは、
「困った人が駆け込む場所」であって、
「魂の行き先を問われる場所」ではない。
間違っても、「あなたは何者ですか」と聞かれて、
「異世界転生者です」なんて答えたくない。
ここまで来て、私はようやく気づいた。
——交番という発想そのものが、この世界では危険だということに。
交番は、国家と身分制度の上に成り立っている。
そして私は、そのどちらにも属していない。
つまり今の私は、
「身分不明のよそ者」
「無一文の流れ者」
「素性を証明できない存在」
……不審者じゃん。
医学生としての直感が、静かに警鐘を鳴らした。
ここで間違った場所に行けば、
助けを求めるどころか、拘束される可能性すらある。
私は歩みを止め、深く息を吸った。
現実世界の常識は、ここでは通用しない。
だからこそ、新しい“安全な場所”を探さなければならない。
「……ナナ、冷静に」
今は診察じゃない。
これは、人生のトリアージだ。
そして、そのときだった。
歩きながら考えごとをしていた私の脳内で、まるで試験中に突然ひらめくようにある致命的な事実が浮かび上がってきた。
「……あれ?」
交番って——
そもそも、国家の制度だよね?
警察って——
身分を前提に動く組織だよね?
……。
「……私、身分ないじゃん」
はい、詰みポイント到達。
心の中で、ゲームオーバーの効果音が鳴った気がした。
よく考えなくても分かることだった。
この世界に来てから、私は一度も正式に名前を名乗っていない。
というか、名乗る相手すらいない。
戸籍もない。
身分証もない。
住民登録? 何それ、美味しいの?
「……交番に行っても、
“あなた誰ですか?”で終わるのでは?」
いや、それで終わるならまだいい。
下手をすれば、
「怪しい浮浪者」
「素性不明のよそ者」
「厄介ごとの種」
として、
保護という名の拘束を受ける可能性すらある。
医学生として、
そして長年テストの地雷を踏み抜いてきた人間としての直感が全力で警告を発していた。
——それは危険だ。
「……ダメだ、交番発想は危険すぎる」
そもそも、この世界の治安組織って何だろう。
帝国騎士団?
自警団?
それとも、貴族直属の私兵?
どれにしても、
「身分不明・所持金ゼロ・職なし」の私が、
胸を張って相談できる場所じゃない。
相談したつもりが、即・事情聴取⭐︎になる未来しか見えない。
「……現実世界の常識、ここでは通用しない……」
私は思わず肩を落とし、そのまま人の流れに身を任せて歩いた。
街は相変わらず活気に満ちている。
人々は忙しそうに行き交い、
それぞれの生活を、当たり前のように営んでいる。
私だけが、世界から一歩はみ出した存在みたいだった。
やがて足が自然と港の方へ向かう。
潮の匂いが濃くなり、
魚を捌く包丁の音、
船員たちの荒っぽい怒号が耳に届く。
ロストン港。
巨大な倉庫が並び、
荷を運ぶ人々が忙しなく行き交っている。
空中には、クレーンの代わりに使われているらしい魔法装置が浮かび、重そうな木箱を軽々と吊り上げていた。
「……すご……」
思わず感心する。
「……ここ、働き口は多そうだけど……」
でも、問題はそこじゃない。
仕事があっても、雇われるにはまず「誰なのか」を説明しなければならない。
「私って、……“誰”?」
この事実は、思っていた以上に重かった。
現代日本なら、
最悪、マイナンバーがある。
学生証だってある。
でも、ここでは——
「……名前を名乗るだけじゃ、信用されない」
そんな当たり前の現実が、じわじわと胸に染みてくる。
私はふと足を止めた。
港の一角。
少し古びた石造りの建物。
派手さはないが、妙に落ち着いた佇まいをしている。
壁には、控えめな文字でこう書かれていた。
「診療」
「治療」
「薬」
……病院?
いや、病院というより、診療所。
規模は小さく、どう見ても個人経営だ。
「……医療施設……」
その文字を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
反射的に、
医学書の匂い。
白衣。
病室の静けさ。
そんな記憶がよみがえる。
でも、私はすぐに小さく首を振った。
「いやいや、今はそれどころじゃない」
今は、医者じゃない。
理想を語る段階でもない。
まずは、生きる基盤。
身分。
居場所。
医者云々は、そのずっとあとだ。
「……現実世界なら、
区役所 → 交番 → ハローワーク、なのに……」
この世界にハローワークは、たぶん存在しない。
なら、どうする?
答えを探して視線を巡らせた、そのとき。
「……あ」
目に入ったのは、
看板に大きくベッドの絵が描かれた建物だった。
宿屋。
旅人。
商人。
身分の曖昧な人間が、
とりあえず泊まれる場所。
「……ここなら……」
少なくとも、
話は聞いてもらえるはずだ。
追い返される可能性はある。
でも、捕まる可能性よりは低い。
「……よし」
私は深呼吸をひとつした。
現実世界の常識は、
ここでは通用しない。
だからこそ、
この世界で通用する“常識”を、
一つずつ探していくしかない。
「ナナ、落ち着け。
診断プロセスはまだ途中」
身分不明。
無一文。
異世界。
条件は最悪だけど——
「……なんとかなる、はず」
そう自分に言い聞かせながら、私は宿屋の扉にそっと手を伸ばした。




