第18話 揺れる水面の上で
夜明けは、いつも音を立てずに訪れる。
海と空の境目がほんのわずかにほどけて、色を変える。
深い藍が薄まり、灰色を経て淡い青へ。
その変化を誰かに教えられなくても、船の上にいると自然と分かってしまうのだから不思議だ。
《シーグリット号》の甲板は、夜露を含んでしっとりと冷たかった。
素足で立ったら、きっと声が出てしまうくらいだと思う。
木材はよく磨かれていて、古い船特有の軋みはあるけれどどこか落ち着く匂いがした。
潮と木と、ほんのりと残る油の匂い。
足元の板は硬くところどころ削れていて、長い年月ここで人が働いてきた痕跡がそのまま残っていた。
船体の内側――舷側には、網やロープが整然とまとめられている。
乱雑に見えて、実はきちんと決まった配置。
誰が見てもすぐ手に取れるように、絡まらないように、無駄な動きが出ないように。
(……ちゃんと“仕事の場所”だ……)
当たり前のことなのに、それがひどく胸に刺さった。
ここは生活の延長じゃない。
命と直結した現場だ。
船倉の入り口からは、まだ暗い内部がちらりと見える。
木箱、樽、予備の網。
そして、微かに漂う魚の匂い。
一日、あるいは何日も、この船の上で過ごす人たちの現実がそこに詰まっている。
海の方へ目を向けると、水平線が少しずつ輪郭を持ち始めていた。
夜明け前の海は思っていたよりも静かで、広い。
波は穏やかに揺れ、遠くで他の船の影が黒い線のように浮かんでいる。
「……きれい……」
思わず、そんな言葉が零れた。
隣でロープを点検していたトーマが、ちらりとこちらを見る。
「最初はな。慣れると、きれいとか言ってられなくなる」
……ですよね。
現実は、きっとこの景色の何倍も厳しい。
私は邪魔にならないよう甲板の端に立ちながら、船員たちの動きを目で追った。
誰もが無駄な会話をせず、淡々と準備を進めている。
それぞれの役割がはっきりしていて、声を掛け合わなくても次に何をするかが分かっている。
(……チームだ……)
大学の実習とは、全然違う。
ここでは誰か一人のミスが、そのまま全員の危険につながる。
そんなことを考えていると、不意に背後から声がした。
「なあ」
振り返ると、マレクが舵輪のそばに立っていた。
腕を組み、港の方を眺めながら、こちらに視線だけを向けている。
「お前、どこから来たんだよ?」
……来た。
一番、答えに困る質問。
喉が、きゅっと締まる。
「……えっと……」
言葉が出てこない。
頭の中では、いくつも答えが浮かんでは消える。
遠くから来ました?
旅の途中です?
身寄りがなくて?
どれも嘘ではないけれど、どれも核心からは逃げている。
マレクは私の沈黙を責めるようなことはしなかった。
ただしばらく待ってから、低い声で続ける。
「無理に答えなくていい」
……ほっと、胸が緩む。
「がな」
その一言で、また緊張が戻る。
「俺の船に乗るからには、生半可な気持ちじゃ困る」
マレクは、ゆっくりとこちらに向き直った。
その視線は鋭いけれど、敵意はない。
むしろ真剣そのものだった。
「理由があるなら、それでいい。逃げてきたなら、それもいい」
え……。
「だがな、せめて素性くらいは明かしてくれてもいいんじゃねーか?」
その言葉は責めるようでもあり、試すようでもあった。
私は思わず拳を握りしめる。
お金が欲しい――
それが一番の理由なのは、否定できない。
でもそれを言った瞬間、この場の空気がどう変わるかが想像できてしまう。
船乗りになりたいわけでもない。
海に憧れていたわけでもない。
正直に言えば、私はただ、生きる場所を探しているだけだ。
(……そんなの、理由として弱すぎる……)
口を開こうとして、閉じる。
何度もそれを繰り返す。
甲板に、沈黙が落ちた。
波の音だけが規則正しく響く。
ロープが擦れる音。
遠くで誰かが咳き込む声。
船員たちは私たちのやり取りを横目で見ながらも、何も言わず作業を続けている。
それが余計に、胸を締め付けた。
(……なんて言えばいいんだろ……)
本当のことを言えない。
かといって、綺麗な言葉も思い浮かばない。
私はただ俯いたまま、黙り込んでしまった。
マレクはしばらく何も言わなかった。
潮風が、私たちの間を通り抜ける。
この沈黙が私を船から降ろすための時間なのか、
それとも、待ってくれている時間なのか――
分からないまま。
私は、自分が何者かくらいは分かっているつもりだった。
少なくとも、昨日までの私はそう思っていた。
兎田谷 夏奈。十九歳。医学部二年生。
成績はまあまあ、要領はそこそこ、理屈は好きだけど実践はからきし。
「医者になりたい」と口では言いながら、その言葉の重さに押しつぶされそうになっていた、どこにでもいそうな女子大生。
今どこに立っているのかが分からなくても、自分が誰で何ができる人間なのかくらいは、説明できると思っていた。
……思っていた、はずなのに。
いつからだったんだろう。
昔は悩みなんて一つもなかった、なんて言うと嘘になるけど、少なくとも進むべき道は一本に見えていた。
小さい頃は、「お医者さんになる」と言えばみんなが褒めてくれた。
高校では、「医学部志望なんだ」と言えば、先生も友達も頑張れって言ってくれた。
合格したときなんて、まるでゴールテープを切ったみたいな気持ちだった。
でも、大学に入ってからだ。
教科書をめくる手が震えるようになり、実習室で患者さんの前に立ったとき、頭が真っ白になったのは。
「知識」と「現場」の間に横たわる、とてつもなく大きな溝を見てしまった。
そのときから少しずつ、自分の足場が揺れていることに気づき始めたのかもしれない。
目の前のマレクや船員たちを見ていると、そんな自分がひどく頼りなく思える。
ここにいる人たちは、きっと自分が何者かを分かっている。
果てのない海原の岸辺に立って、足場の揺れる船の上で視界がおぼつかなくても、それでも自分に何ができるのかを知っている。
この人は網を引ける。
あの人は舵を取れる。
別の誰かは風を読む。
役割があって、責任があって、それを背負っている。
それに比べて、私は。
(……私、何ができるんだっけ)
医学生。
でも、医者じゃない。
知識はある。けど、現場で即断できる自信はない。
異世界に来た。けど、言葉が通じるだけで、何の後ろ盾もない。
正直、状況が状況だっていうのもある。
異世界転生なんて、ファンタジー小説の中だけの話だと思ってた。
まさか自分がその当事者になるなんて、誰が想像できるっていうの?
異世界の人間である私が、どこをどう歩いていいのかなんて分かるわけない。
身分もない。家もない。保証もない。
でも――
そういう問題じゃない気もしている。
ここが異世界だろうが、日本だろうが、たぶん同じだ。
私はずっと、自分の立っている場所が分からなかった。
医者を目指しているはずなのに、「本当にそれでいいの?」ってどこかで問い続けていた。
誰かの命を救いたいと思いながら、「私にそんな資格あるの?」って怯えていた。
結局のところ、私は「医学生」という肩書きの後ろに隠れていただけだったのかもしれない。
ここには、それがない。
肩書きも大学名も、成績も、全部通用しない。
あるのはこの体と、この頭と、これまで積み重ねてきた知識だけ。
それなのにいざ「お前は何者だ」と問われると、言葉が出てこない。
私は、海を見た。
夜明けの光を受けて、水面がきらきらと揺れている。
果てが見えない。
どこまでも続いている。
まるで、自分のこれからみたいだ。
怖い。
正直、めちゃくちゃ怖い。
でも、逃げたら何も変わらない。
私はゆっくりと息を吸って、吐いた。
「……私は」
声が少し震える。
でも、止めなかった。
「医者を目指してました」
過去形にしてしまった自分に、少しだけ苦笑する。
「まだ医者じゃないです。落ちこぼれに近いし、現場経験もほとんどない。でも……人を助けたいって気持ちだけは、本当です」
マレクの目は、相変わらず真っ直ぐだった。
「ここに来たのは、船乗りになりたいからじゃありません。正直、お金も必要です。でもそれだけじゃなくて……」
言葉を探す。
「自分が何者か、ちゃんと確かめたいんです。肩書きじゃなくて、自分の力で立てる場所があるのかどうか」
言い終わって、少しだけ息が切れた。
かっこいいことを言ったつもりはない。
むしろ、ものすごく青臭い。
でも、これが今の正直な私だ。
私はまだ、なにも完成していない。
でも、何者にもなれないわけじゃない。
その途中にいる。
きっと、そんな気がする。




