第17話 場違い感ヤバくない?
「それにしても、“漁船”かぁ……」
それにしても――漁船、である。
《錨の歌亭》を出てから、ずっとその言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
漁船。
魚。
網。
海。
……うん、漠然としたイメージは、確かにある。
「昔、NHKでやってたなぁ……」
夜中にふとテレビをつけたら流れていた、マグロ漁船のドキュメンタリー。
荒れ狂う海。
揺れる甲板。
分厚いゴム手袋をはめた屈強な男たちが、血と汗にまみれながら巨大な魚と格闘する映像。
「……これはもう、完全に“男の仕事”だよね……」
画面越しに、どこか遠い世界を眺めながら、
「へぇ、大変そうだなぁ」
「絶対、人生で関わることないな」
なんて、軽い気持ちで思っていた昔の自分。
それが今や、
自分がその“漁船側”に足を突っ込もうとしているという事実。
「……人生、どこでどう転ぶかわかんないな……」
夜明け前の空は、まだ薄く藍色を帯びていた。
ロストンの港は昼間の喧騒が嘘のように静かで、代わりに規則正しい生活音が低く流れている。
木の桟橋を踏みしめる足音。
遠くで鳴く海鳥の声。
ロープが擦れる、きしりとした音。
潮の匂いは濃く、肺の奥まで染み込んでくる。
肌寒い空気が、眠気を一気に吹き飛ばした。
「……潮待ち広場、ここで合ってるよね……?」
小さく呟きながら、私は周囲を見回した。
《錨の歌亭》のママに教えてもらった場所。
“港の東側、倉庫が並んでる辺り。朝方になると人が集まるから、すぐ分かるよ”――そう言われていた。
実際、来てみるとすぐに分かった。
倉庫と倉庫の間が少しだけ開けていて、海からの風が抜ける小さな広場。
派手な看板も目印もないけれど、空気が違う。
……人が、いる。
すでに何人か、いや十人前後はいるだろうか。
全員分厚い上着を着て、黙って立っている。
年齢はバラバラ。
白髪混じりの人もいれば、私より少し上かな?って感じの若い人もいる。
でも、共通してることが一つだけあった。
――無駄な動きが、まったくない。
誰かと大声で話すわけでもなく、だらけている様子もない。
ただ立っているだけなのに、妙な緊張感が漂っている。
(……あ、これ、絶対“現場の人たち”だ……)
そう思った瞬間、場違い感が一気に押し寄せてきた。
私は無意識に自分の手を見下ろす。
細くて、白くて、昨日まで医学書をめくってペンを握っていた手。
……うん。
(場違い感、やばくない?)
ここにいる全員が“現場の人間”なのに、私だけ完全に違う世界から迷い込んできた感がすごい。
ママの言葉が、頭の中でよみがえる。
――「最初は誰だって浮くよ。でもね、ここは腕より“覚悟”を見る場所だよ」
覚悟、かぁ……。
正直、今すぐ逃げたい気持ちはある。
でも逃げた先に行く場所なんて、もうない。
昨日みたいに野宿する?
それとも、何もせずに時間だけ過ごす?
……無理無理。
「……ええい、もう考えても仕方ない!」
小さく呟いて、ぐっと息を吸い込む。
深呼吸深呼吸。
――と、その瞬間。
「おい」
低くて、よく通る声が飛んできた。
「ひっ……!」
完全に不意打ちで、思わず肩がびくっと跳ねる。
恐る恐る声の方を見ると、がっしりした体格の中年の男が腕を組んでこちらを見ていた。
日に焼けた肌に、短く刈り込まれた髪。
長年海風に晒されてきたんだろうな、って分かる深い皺。
目つきは鋭いけど、睨みつける感じじゃない。
「……見ねぇ顔だな」
ぎくっ。
「ここの住人じゃねぇだろ?」
……詰んだ?
一瞬、本気でそう思った。
どう答えるのが正解なの、これ。
「え、えっと……」
言葉が喉で引っかかる。
日本から来ました、なんて言えるわけないし、
異世界転生しました、なんて言ったら即アウトだ。
頭の中が高速で回転していると、男は私の様子をじっと見てから、ふっと鼻で笑った。
「ルーが言ってたやつだろ?」
――ルー。
一瞬誰のことか分からなくて、思考が止まる。
(ルー……? あ、ママ!?)
昨日お店の常連たちがママを見て親しげに呼んでた名前だ。
「彼女から要件は受け取ってる。話だけでも聞いてやって”ってな。まさか、こんな細っこいとは思わなかったが」
……細っこいは余計では?
内心ツッコミを入れつつも、状況が一気に理解できて、胸の奥がじわっと緩む。
「……はい」
小さく頷くと、男は顎で広場の奥を指した。
「青い帆の船のマレクだ」
――マレク。
ママが言っていた名前。
「ついて来な」
短い言葉。
有無を言わせない口調。
この人が信用できるかどうかなんて、正直わからない。
でも、今の私に選択肢はない。
「……わかりました!」
そう答えて、私はその背中について歩き出した。
男に先導されて歩き出すと、潮待ち広場から桟橋へと続く道がゆるやかに下っていった。
石畳は夜露を含んでしっとりと濡れ、足音がいつもより少しだけ鈍く響く。
空はまだ夜と朝の境目にあって、東の端がわずかに白み始めている。
ロストン港は眠りから覚めかけた獣のように低く、静かに息をしていた。
停泊する船の影が水面に揺れ、ランタンの灯りが波に砕ける。
ロープが軋む音。
どこかで誰かが咳き込む音。
海鳥の声が、まだ遠慮がちに空を横切る。
「……わぁ……」
思わず声が漏れた。
昼間に見た港とは、まるで別の場所みたいだ。
あの喧騒は影も形もなく、代わりに“仕事前の静けさ”だけが辺り一帯を支配している。
「ほら、あれだ」
男が顎で示した先に、一隻の漁船があった。
決して巨大ではない。
でも無駄がなく、よく手入れされているのが一目で分かる船。
船体は濃い木目のまま塗装され、船腹には白い文字で船名が刻まれている。
網や樽、木箱がきちんと固定され、甲板には余計な物が置かれていない。
甲板では、すでに何人かが準備を始めていた。
網を点検する男。
樽を運ぶ若い船員。
ロープをまとめながら、冗談を言い合っている二人組。
「……ここが……」
「《シーグリット号》だ」
男――いや、この人が船長なんだろうか――は短くそう言った。
「ルーの頼みだからしょうがねーが、…お前、力仕事は無理だろ」
いきなり、どストレート。
「は、はい……」
否定できない。
自分でも分かってる。
マレクは肩をすくめる。
「分かってるならいい。できることだけやれ」
そう言って、甲板に向かって声を張り上げた。
「おい、集まれ」
その一言で、船の周囲にいた人たちが自然と集まってくる。
「新入りだ」
え、新入り……。
一気に視線が集まって、心臓が跳ねた。
「……えっと、よろしくお願いします」
ぎこちなく頭を下げると、返ってきた反応は思っていたよりも穏やかだった。
「おー、女の子か」
そう言ったのは、背の高い痩せ型の青年。
日に焼けた肌に、少し眠そうな目。
「俺はトーマ。網の担当な」
「……あ、はい」
次に、腕が丸太みたいに太い大男。
「バルドだ。樽運びと荷締め担当」
無表情だけど、声は低く落ち着いている。
その隣で、年配の男性が咳払いをした。
「オルドだ。船の整備と道具管理をしてる」
最後に、小柄で動きの軽そうな獣人の青年が尻尾を揺らす。
「リオ。雑用全般」
……雑用って言い切った。
みんなそれぞれの役割がはっきりしている。
そして、その中に私は――
「お前は補助だ」
マレクが言った。
「網の修繕、道具洗い、飯の準備。できる範囲で」
「……はい」
それでいい。
むしろ、ありがたい。
空を見上げると、夜の色はすっかり薄れ、港全体が青白い光に包まれ始めていた。
東の空から淡い橙色が滲む。
それを合図にしたかのように、港がゆっくりと動き出す。
他の漁船でも人影が増え、声が交わされ、水面を叩く櫂の音が響き始める。
ロストン港は生きている。
この街は、海と一緒に目を覚ます。
「……すごい……」
思わず呟くと、トーマがくすっと笑った。
「最初はみんなそう言う」
「え?」
「で、三日目くらいから腰と腕が悲鳴を上げる」
……笑えない。
マレクは甲板を見渡しながら言った。
「夜明け前が一番大事だ。頭を使え。焦るな」
その言葉を聞きながら、私は深く息を吸った。
医学部の講義室とはまるで違う世界。
白衣も教科書も、ここにはない。
あるのは海と、船と、そして“生きるための仕事”。
「……私、やれるかな……」
小さく呟いた言葉は、潮風に溶けて消えた。




