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第16話 今は考える時間



温かいスープをゆっくりと口に運びながら、私は自然と呼吸を整えていた。


豆の柔らかな食感と、香草のほのかな苦み。

派手さはないけれど、体の内側に「ちゃんと栄養が入ってきている」という実感がある。

空腹が満たされていくにつれて、張りつめていた神経が少しずつほどけていくのが分かった。


――落ち着け。

――今は、考える時間だ。


私はスプーンを持つ手を止め、ぼんやりと店内を見渡した。


港に近いこの辺りの街並みは、今日一日歩いたおかげでなんとなく頭に入ってきている。

どの通りが明るく、どの路地が暗いのか。

人が多く集まる場所と、そうでない場所。

潮の匂いが強くなる地点は港に近く、逆に香草や煙の匂いが混ざる場所は市場や酒場が多い。


……とはいえ、それもあくまで「なんとなく」だ。


地図があるわけでもないし、地名を正確に把握しているわけでもない。

迷子にならない程度、昨日よりはマシ、というくらいの理解度。


「……先は、長いなぁ……」


思わずため息がこぼれる。


正直なところ不安しかない。

今日の日雇い仕事だって、たまたま運が良かっただけかもしれない。

明日も同じように仕事がある保証は、どこにもない。


体力には限界があるし、怪我をすれば終わり。

病気になったらなおさらだ。


(……医学生なのに、自分の生活すら安定してないとか……)


自嘲気味に心の中で突っ込みを入れつつ、スープをもう一口すする。


この世界で生きていくためには、

「毎日運に任せる」状態から少しでも抜け出さなければならない。


――継続性。

――最低限の収入源。

――安全。


そんな言葉が、頭の中を巡る。


「……」


私は、カウンターの向こうで鍋の様子を見ている猫族のママをそっと見上げた。


この人はきっと知っている。

この街のことも、港で生きる人たちの現実も。


そう思うと、自然と口が開いていた。


「あの……ママ」


「ん?」


彼女は優しく返事をしながら、こちらを向く。


「日雇いの仕事って……毎日あるものなんですか?」


声はできるだけ平静を装ったつもりだった。

でも内心では必死だ。


ママは一瞬考えるように目を伏せ、それから正直な口調で答えた。


「ある日もあれば、ない日もあるよ」


……やっぱり。


「港はね、船次第さ。入港が多い日は仕事も増える。逆に嵐続きや情勢が悪いと、ぱったり途切れることもある」


彼女の言葉は淡々としているけれど、そこには長年見てきた現実の重みがあった。


「市場の掲示板や潮待ち広場に人が集まるのは、そういう不安定さがあるからだよ。皆、その日を生きるために集まってる」


私は小さく頷いた。


「……やっぱり、安定はしないんですね」


「しないねぇ」


ママは苦笑する。


「日雇いは、あくまで“繋ぎ”だよ。体が動くうちはいい。でも、体力や気力がしっかり備わってないと続かない。歳を取ったら、もっと厳しい」


その言葉に、昼間見た港の老人や壁にもたれていた人たちの姿が重なる。


「じゃあ……他には、どんな仕事が……?」


恐る恐る続けると、ママは指折り数えながら話してくれた。


「女手なら、洗い場、縫い仕事、宿の手伝い。

字が読めるなら、商会の下働き。

腕があるなら、職人の弟子。

あとは……裏の仕事も、ないわけじゃないけどね」


最後の一言は、少しだけ声を落として。


一匙だけ苦味が混ざったような、そんな口調だった。スープの香りに紛れても、確かにそれは感じ取れた。


「……裏の仕事、ですか」


「噂話、運び屋、賭場の手伝い……おすすめはしないよ」


きっぱりと言われて、内心ほっとした。


「この街はね、見た目よりずっと現実的だ。夢だけじゃ生きられない。でもちゃんと働く意思があれば、完全に見捨てられることもない」


ママはそう言って、私の空になりかけた器にほんの少しだけスープを足してくれた。


「焦らなくていい。まずは体を壊さず、顔を覚えてもらうことだ」


顔を覚えてもらう。

信用を積み重ねる。


昼間、港の男に言われた言葉とどこか重なる。


ママは私の顔をじっと見てから、ふっと視線を外した。

その仕草がなんだか意味深で、私は思わず背筋を伸ばしてしまう。


「……もしさ」


ママが鍋の火を少し弱めながら、何気ない調子で口を開いた。


「もし、あんたに“やる気”があるなら――仕事場をひとつ紹介してあげてもいいよ」


「……え?」


思わず声が出た。

スプーンを持っていた手が、ぴたりと止まる。


「し、仕事……ですか?」


聞き返しながら、自分でも驚くくらい心臓がうるさい。

ママはうん、と軽く頷いた。


「港の仕事だよ。正確にはね、漁業組合に入ってる漁船のひとつ」


漁業組合。

その単語だけで、なんとなく“ちゃんとしたところ”感がある。


「うちの常連でさ。船長とも昔から顔見知りなんだ」


そう言いながら、ママはカウンターに肘をついた。


「大きな船じゃないけど、近海漁で堅実にやってる船だよ。無茶はしないし、仕事も比較的安定してる」


私は、ごくりと喉を鳴らした。


漁船。

海。

魚。


正直体力的にきつい仕事だってことくらい、想像はつく。

でも同時に、今日みたいな“運任せの日雇い”よりはずっと現実的な響きがあった。


「……どんな、仕事になるんでしょうか」


恐る恐る聞くと、ママは遠慮なく教えてくれる。


「最初は雑用ばっかりだよ。網の片付け、魚の仕分け、甲板の掃除、道具の手入れ」


……うん、想像通り。


「漁に出る日は早いし、天気が悪けりゃ中止。海の上だから、危ないこともある」


その言葉に、思わず背中がぞくっとする。


「だからね、最初から魚を獲らせたりはしないさ。怪我されても困るし、船の上は甘くないから」


……それは、正直ちょっと安心した。


「でも」


ママは少しだけ声のトーンを落とす。


「港の仕事の中じゃ、漁は比較的“続く”方だよ。船が出られれば仕事になるし、入港がなくても稼ぎは出る」


その言葉が、胸の奥にすっと入ってきた。


――継続性。

――最低限の収入。


さっきまで、頭の中でぐるぐるしていた言葉だ。


「住み込み……とか、なんですか?」


ダメ元で聞いてみると、ママは首を振った。


「そこまではまだ。正式に雇われたら、船員用の宿舎に入れるかもしれないけどね。最初は日当払い。様子見だよ」


日当でもいい。

毎日ゼロかもしれない状態より、ずっといい。


「それにね」


ママは、私の目を見て言った。


「漁業組合に顔を出すようになると、港での見られ方も変わる。“ただの流れ者”じゃなくなる」


その一言が、ずしんと胸にきた。


今の私はまさにそれだ。

名前も身分も、後ろ盾もない。


「……私、そんな……ちゃんとやれるか、正直分からないです」


気づいたら、本音が口から出ていた。


体力にも自信ないし、船なんてほとんど乗ったことない。

医学生としての知識も、たぶん役には立たない。


ママはそんな私を見て、にゃあと笑った。


「最初からちゃんとできる人なんていないよ」


そして、少し身を乗り出して言う。


「大事なのは逃げないことと、人の話をちゃんと聞くこと。それができるなら、港の仕事は続く」


……あ。


その言葉、今日何度目だろう。

“話を聞く”“信用”“顔を覚えてもらう”。


全部、同じところに繋がっている。


「船の仕事はね、半分は共同生活みたいなもんだ。好かれようとしなくていい。でも、信用だけは失っちゃだめ」


私は、ゆっくり頷いた。


「……その船、明日も出ますか?」


自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。


ママは少しだけ目を細める。


「天気次第だけどね。今のところは出る予定だよ。…確か、夜明け前だったかな」


夜明け前…か。

正直きつい。

でも――


「……行ってみたいです」


そう言った瞬間、意外なほど後悔はなかった。


ママは満足そうに頷いた。


「だと思った」


そして、布巾を肩にかけながら続ける。


「港の東側、《潮待ち広場》の先。青い帆の船があるから、“錨の歌亭のママから聞いた”って言いな」


具体的すぎる指示。

逃げ場のない現実。


それなのに、胸の奥が少し軽い。


「……ありがとうございます」


私は、深く頭を下げた。


不安はある。

体力も技術も、何も足りない。


それでも。


――働く場所がある。

――明日の予定がある。


それだけで、世界はずいぶん違って見える。


スープの器をそっと置きながら、私は小さく息を吐いた。


この街でどう生きるかは、まだ分からない。

でも“学べる場所”は、ようやく見つかり始めた。


《錨の歌亭》のあたたかな灯りの下で、私はほんの少しだけこの世界に足を下ろせた気がしていた。


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