第15話 錨の歌亭
《錨の歌亭》は、港の喧騒から一本奥に入った場所にあった。
倉庫と倉庫の間を縫うような細い通りの先、
少し傾いた木造二階建ての建物。
外壁は海風に晒されて色褪せ、ところどころ補修の跡が見えるけれど、不思議と「荒れている」という印象はない。
入口の上には、錆びかけた鉄製の看板。
錨を模した意匠に、手書き風の文字で《Anchor’s Song》と刻まれている。
その下には小さなランタンが吊るされ、橙色の光がゆらゆらと揺れていた。
「……ここかぁ」
扉の隙間からは、暖かな光と、賑やかな話し声、
そして、決定的に抗えない匂いが漏れてくる。
焼いた肉。
香草。
麦酒。
「……だめだ、これは完全にダメ」
理性より先に胃が降参した。
意を決して、扉を押す。
中は、思っていたよりも広かった。
天井は低めで、太い梁が剥き出しになっている。
床は年季の入った木板で、所々に傷や染みが残っているけれど、きちんと掃除されているのが分かる。
壁には、古い航海図や、使い込まれた船具、色褪せた寄港証明書が無造作に飾られていた。
客層はさまざま。
港仕事帰りの男たち、商人風の中年、獣人の船乗り、
そして壁際のテーブルでは、日雇いらしき人々が安い酒を前に肩を寄せ合っている。
空気は騒がしいけれど、どこか安心感があった。
荒っぽさはあるけれど、排他的ではない。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、柔らかな声がした。
そこに立っていたのは、猫族の女性だった。
ふわりとした灰色の毛並みに、優しげな金色の瞳。
耳は少し丸みがあり、尻尾はゆったりと揺れている。
年齢は分からないが、包容力という言葉をそのまま形にしたような雰囲気だった。
「一人かい? 食事?」
「……はい。あの、軽めのもので」
声が少し震えたけれど、彼女は気にした様子もなく頷いた。
「今日は港仕事かい? 顔がそう言ってるよ」
……さすが。
「はい、今日が初めてで」
「そう」
猫族のママ――たぶん店長――は、にこりと微笑んだ。
「よく来たね。ここは腹を満たす場所で、情報が集まる場所でもある。無理はしなくていいよ」
そう言って、手際よく鍋に火を入れ始める。
カウンター席に腰を下ろすと、私は思わず背筋を正した。
店内を改めて見回してみると、《錨の歌亭》はただの安酒場というより、“港町の生活が染みついた居間”のような空間だった。
カウンターは分厚い木板を何度も削り直したような跡があり、肘を置くと、長年ここで語られてきた無数の話が木目の奥に染み込んでいる気がする。
天井から吊るされたランプは、魔導灯ではなく油灯らしく、炎が揺れるたびに影が壁を這い、航海図や船具の輪郭を歪ませていた。
壁際には簡素な長机がいくつも並び、椅子は統一されていない。
どこかの船から持ち込まれたのか修繕を重ねた跡があり、脚の長さが微妙に違うものもある。
けれど誰もそれを気にしていない。
この店では、“ちゃんと座れる”ことが何より重要なのだ。
カウンターの端には、木製のメニュー板が立てかけられていた。
黒板のようなそれには、白いチョークで文字が書かれている。
――港風シチュー 8リーナ
――焼き魚(日替わり) 6リーナ
――黒パンと豆の煮込み 4リーナ
――安酒(薄め) 3リーナ
――安酒(普通) 5リーナ
「……ふむふむ……」
私は腕を組み、真剣にメニューを睨みつけた。
まず前提として、私の手持ちは銅リーナが数枚。
一枚で1リーナ。
つまり、さっきの港仕事でもらった分を全部使っても選べるのはかなり限られる。
(港風シチュー……おいしそうだけど高い)
(焼き魚……タンパク質……でも6リーナ……)
(黒パンと豆の煮込み……4リーナ……いける……)
頭の中で、必死に計算する。
そして同時に、この世界の通貨体系を復習する自分がいた。
――銅リーナは一般市民の最低単位。
――銀リーナは10リーナで、日用品や少しまともな食事向け。
――金貨は庶民にはほぼ縁がない。
さらに上にはオーラム貨なんてものもあるけれど、
それはもう、異世界に来たばかりの医学生(無一文)には関係ない世界だ。
(今の私に必要なのは、空腹を誤魔化せて、明日も動ける最低限……)
そう考えていると、
「……うーん……」
無意識に声が漏れていたらしい。
「悩んでるねえ」
猫族のママが鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見る。
「初めての店で初めての街なら、無理もないよ」
「あ、えっと……すみません。ちょっと……」
言いかけて、言葉に詰まる。
“お金がない”と、どのタイミングで言えばいいのか分からなかった。
するとママは、穏やかな声で話題を変えてきた。
「見ない顔だけど、どこの国から来たんだい?」
――来た。
一番、答えに困る質問。
「え、えっと……」
頭の中が一気に忙しくなる。
日本、東京、地球。
どれも、この世界では通じない。
「……遠く、です」
我ながら、ひどく曖昧な答えだと思う。
ママは一瞬だけ目を細めたが、深追いはしなかった。
「そう。遠いところから来た人ほど、腹は減るもんさ」
その言い方が妙に優しくて、胸の奥が少しだけ緩んだ。
私は、意を決して切り出す。
「あの……正直に言うと、あんまりお金、持ってなくて……」
言葉にした瞬間、情けなさが込み上げてくる。
たった数枚の銅貨で席を取ってしまっていることが、急に申し訳なく感じられた。
「ここ、混んでますし……」
するとママは、ふっと笑った。
「気にしなくていいよ」
鍋の火を弱め、こちらに向き直る。
「ここはね、金がある奴だけの店じゃない。働いた帰りに体を休める場所でもあるんだ」
そう言って、棚の下から小さめの器を取り出した。
「今日は特別だ。黒パンと豆の煮込み、少し多めにしてあげる」
「えっ……!?」
「その代わり、今度余裕ができたらまた来な。話をしにでも」
ママはそう言って、ウインクする。
「この街じゃ、貸し借りは金だけじゃないからね」
ほどなくして運ばれてきた器からは、湯気とともに豆と香草の優しい香りが立ち上っていた。
黒パンも端が固いけれど、しっかりとした重みがある。
「……ありがとうございます」
思わず、深く頭を下げる。
スプーンを口に運ぶと、素朴だけれどちゃんと“食事”だった。
腹を満たすだけじゃなく、気持ちまで落ち着かせてくれる味。
「……生き延びてるなぁ、私……」
小さく呟くと、ママは聞こえないふりをしてくれた。
《錨の歌亭》は、ただの酒場じゃない。
ここは、港町ロストンで“踏みとどまる”ための場所だ。
そう直感しながら、私は温かいスープを一滴も無駄にしないよう、ゆっくりと飲み干した。




