第14話 問題は今日の寝る場所
日が傾き始めると、ロストンの港は昼間とはまったく違う顔を見せ始めた。
西の空は海に溶けるような橙と紫に染まり、ゆっくりと沈んでいく太陽が、水面に長い光の道を描いている。
昼間は喧騒に満ちていた桟橋も作業を終えた船員たちが帰り支度を始め、どこか安堵と疲労が混じった空気へと変わっていった。
潮の匂いは少し冷え、濡れた木材とロープの匂いに焚き火や屋台の香ばしい煙が混ざる。
遠くでは港の灯台「イルミナス」が、白銀色の光を一度、また一度と瞬かせ始めていた。
――ああ、夕方だ。
日本にいた頃なら、そろそろ帰り支度をして、コンビニでおにぎりでも買って、家でだらっとする時間。
そんな当たり前だった日常が、胸の奥で少しだけ疼く。
「……今日一日、生き延びたなぁ」
そんな感慨に浸っていると、背後から低い声がかかった。
「華奢なくせに、よくやったな」
振り返ると、昼間に一緒に作業していたあの初老の男の人が立っていた。
日に焼けた顔に、夕暮れの光が深い影を落としている。
「いえ……正直、腕も腰も限界です」
そう答えると、男は喉の奥で小さく笑った。
「それで十分だ。途中で音を上げる奴も多いからな」
そう言って彼は腰袋から革の小さな巾着を取り出し、私の手のひらに置いた。
「約束の分だ。……それと、少し色を付けておいた」
「え?」
思わず聞き返すと、男は肩をすくめる。
「文句を言わず、手も抜かず、ちゃんと話も聞いた。そういう奴は嫌いじゃねぇ」
巾着は、ずしりと小さな重みを持っていた。
紐をほどき、中を覗く。
――銅貨が、数枚。
淡い赤褐色の金属に、麦の穂の刻印。
これがラント帝国の通貨 《銅リーナ》。
「……これが、この世界のお金……」
私は思わず一枚を指でつまみ、まじまじと見つめてしまった。
表面は少し摩耗しているが、確かな重さと冷たさがある。
偽物じゃない、本物の“価値”。
「それで、だいたいどれくらい……?」
恐る恐る尋ねると、男は簡単に説明してくれた。
「銅貨一枚で、安いパン一つ。屋台のスープなら半杯ってところだな」
――つまり、今日の稼ぎで、最低限の食事はできる。
胸の奥に、じんわりとした安堵が広がった。
「ありがとうございます……本当に」
そう言って頭を下げると、男は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「礼を言うなら、怪我せず明日も来い。働き口は、腕より信用だ」
……なるほど。
この街で生きるには、まず“信用”か。
仕事場を片付けながら、私は周囲の人たちにそれとなく話を聞いて回った。
「日雇いって、他にも集まる場所はあるんですか?」
「市場の掲示板が一番だが、朝なら《潮待ち広場》もいい」
「潮待ち広場?」
「船が出る前に人足を集める場所だ。夜明け前から人が集まる」
別の男は、酒場の名前を教えてくれた。
「《錨の歌亭》だ。仕事の斡旋話が流れることもある。安酒だがな」
他にも、
治安が比較的マシな通り、
夜に近づかない方がいい裏路地、
宿屋の相場――。
それらを頭の中で必死に整理しながら、私は何度も頷いた。
「……ありがとうございます。助かります」
情報は、今の私にとって命綱だ。
やがて人々は三々五々に散っていき、港は夜の顔へと完全に切り替わる。
灯台の光、船のランタン、酒場から漏れる笑い声。
ロストンは眠らない街なのだと、肌で感じる。
私は再び巾着を握りしめた。
銅貨数枚。
たったそれだけ。
けれど、これは“施し”じゃない。
自分の手で働いて得た、最初の一歩。
「……よし」
小さく息を吸い、吐く。
今日は食べ物を買える。
そして、明日につながる情報もある。
この街で生きていくための準備は、ようやく整い始めたばかりだ。
夕暮れの港を背に、私はゆっくりと歩き出す。
夜の帳が下り始めると、ロストンの街はまた別の鼓動を打ち始めた。
港から続く大通りには次々と灯りがともり、昼間の実務的な顔を脱ぎ捨てた建物たちが、どこか芝居がかった表情を見せる。
酒場の扉が開くたびに笑い声と楽器の音が溢れ出し、酔った船乗りたちの陽気な歌が、潮風に乗って街路を流れていく。
石畳の上には昼間に落ちた水滴や油の跡が残り、灯りを反射して鈍く光っていた。
その光景は、まるでこの街がこれまでに飲み込んできた無数の人間の時間や記憶を静かに映し返しているようにも見える。
通りの脇では屋台が最後の客を呼び込もうと声を張り上げ、焼き串の脂が弾ける音が夜気に溶けていく。
一方で、少し奥まった路地に足を向ければ、灯りは急に乏しくなり、壁際に身を寄せる影のような人々の存在が浮かび上がる。
同じ夜の中に、こんなにも異なる世界が同時に息づいている。
その事実が、胸の奥に静かな重みを残した。
上を見上げれば、空には星が瞬いている。
日本で見ていた星空よりもどこか近く、鋭く、冷たい光。
人の流れに身を任せて歩いていると、自分がこの街の一部になったような錯覚と同時に、どこにも属していないという現実が交互に押し寄せてくるような気がした。
灯りの輪の中に入れば温かさがあり、一歩外れれば、すぐに闇が待っている。
ロストンの夜は残酷なくらい正直だ。
ここでは立ち止まる者を待ってくれないし、迷う者に道を示してもくれない。
それでも歩き続ける者には、最低限の居場所と、ほんのわずかな猶予を与えてくれる。
私はそんな夜の街を、静かに、確かめるように歩いた。
潮の匂い、酒の匂い、人の熱。
それらすべてが混ざり合ったこの空気の中で、私は確かに「生きている」。
けれどその実感と引き換えに、問いは否応なく突きつけられる。
――この街で、私はどこに身を置くのか。
――この夜を、どうやって越えるのか。
港の賑わいと灯りが、まるで私とは別の世界のものに見えてくる。
ほんのわずかでも前に進めた実感がある。
けれど街で生きるというのは、そんな一歩を積み重ねていくことが大事だとも思う。
だからこそ――次に考えるべきは、今夜をどうやって乗り切るか。
……そう、問題は今日の寝る場所だ。
銅貨の重みを確かめながら歩いていると、現実的な思考がじわじわと頭を占領してくる。
宿に泊まれるほどの金額じゃないことは、さっき聞いた相場で嫌というほど理解した。
だったら選択肢は一つしかない。
「……やっぱり、昨日の場所以外ないよね」
自分に言い聞かせるように呟き、私は港から少し離れた裏通りへと足を向ける。
昨日、半ば成り行きで見つけた、古い石造りの建物の裏。
人通りは少なく、雨風をしのげて、夜でも灯りが届かない暗がり。
――正直、女性一人で寝る場所としては百点満点でアウトだけど、
それでも「完全な野ざらし」よりはマシだった。
そう思いながら歩いていた、その途中。
「……はぁ」
胃の奥が、きゅう、と情けない音を立てた。
「……無理。これは無理」
朝からまともに何も食べていない体に、港仕事の重労働。
さっきまでは気力で誤魔化していたけれど、こうして一息ついた途端、空腹が一気に主張し始めた。
「パン一つ分はあるって言ってたよね……」
銅貨を思い出す。
使えば、今日の夜と明日の朝が少し楽になる。
でも使わなければ、今夜は空腹で眠れない。
――眠れない夜は、判断力を鈍らせる。
医学生時代、何度も身をもって学んだ。
「……よし」
私は進路を変えた。
さっき、港で教えてもらった場所。
《錨の歌亭》。
夜になると、仕事の斡旋話や噂話が集まる港町の酒場。
安酒だが、腹は満たせる。
それに――。
「困ったら、行ってみろって言われたもんね」
自分に言い訳しながら、石畳の道を進む。




