第13話 東京で見上げていた空は
作業は、想像していたよりもずっと地味で、そして容赦がなかった。
桟橋の隙間に絡まった海藻を引き剥がし、濡れた木片を拾い集め、壊れた網や縄をまとめて一箇所に寄せる。
ただそれだけの作業なのに、潮水を含んだ藻は腕にずしりと重く、木片には貝殻や釘が食い込んでいて、気を抜けば指先を切りそうになる。
「そっちはそのまま持ち上げるな、滑るぞ」
隣で作業していた初老の男が、低い声で注意をくれた。
日に焼けた肌に、深い皺。
服は何度も繕われた痕があり、港で長く働いてきたことが一目で分かる。
「ありがとうございます……」
言われた通り端から順に藻を外し、棒を使って引き寄せる。
こういうところは、実習前に見た労働安全の資料を思い出す。
“素手で触るな”“無理に引っ張るな”。
世界が変わっても、怪我の原理は同じだ。
周囲を見渡すと、私以外にも数人の日雇いが集められていた。
年齢も、性別も、種族もばらばら。
獣人の若い男は力仕事を任され、細身の人間の女性は網の仕分けをしている。
誰もが無言というわけではなく、時折、短い会話が交わされる。
「今日は波が静かで助かるな」
「昨日の嵐がひどかった分、仕事は増えたがな」
その言葉の端々から、港の生活が垣間見える。
「……この仕事、毎日あるんですか?」
作業の合間に、私はそっと尋ねてみた。
話しかけたのは、最初に注意してくれた初老の男だ。
「ある日もあれば、ねぇ日もある」
そう言って、男は苦笑した。
「嵐が来りゃ仕事は増えるが、船が出ねぇ日が続きゃ、稼ぎも減る。港で食ってくってのは、そういうもんだ」
なるほど。
安定とは程遠い。
「……皆さん、普段は何を?」
「俺は元は職人だった」
男は、少し間を置いてから答えた。
「木工だ。だが、病で手が震えるようになってな。工房を離れてからは、こうして日雇いだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。
病や怪我で、生活が一変する。
医学生だった私には、教科書の中の話でしかなかった現実が、今は目の前にある。
別の若い男が、会話に混ざってきた。
「俺は田舎から流れてきた。畑が干上がってな。ここで稼げると思ったが……」
肩をすくめる仕草が、その後を語っている。
都市は、人を吸い寄せる。
仕事があると聞けば、希望を抱いて集まる。
けれど、全員が定住できるわけじゃない。
「下層に落ちるってのは、一瞬だ」
初老の男が、ぽつりと呟いた。
「商人だろうが職人だろうが、病気一つ、怪我一つで互助組合から外される。そうなりゃ、あとは日雇いか、路上か……」
言葉の続きを、誰も口にしなかった。
私は黙って手を動かしながら、その話を聞いていた。
この街には、確かに富がある。
立派な商館。
大きな船。
行き交う金。
けれど、それを支えているのはこうした人たちだ。
名もなく保証もなく、明日の仕事も分からない人々。
「……ロストンって、思ってたより厳しい街ですね」
つい、そんな言葉が漏れた。
「そりゃそうだ」
若い男が、鼻で笑った。
「交易都市なんてのは、金が動く分、格差もでかい。上は豪奢な屋敷で酒を飲み、下は港で藻を剥がす」
彼は、私の手元をちらりと見てから続ける。
「だがここにいりゃ、運が良けりゃ口利きにありつける。倉庫番に潜り込めば、日銭は安定する。だから皆、離れられねぇ」
希望があるから、人は縋る。
たとえ、その希望が細くても。
作業は、午前中いっぱい続いた。
腰は痛く、腕は重く、指先は潮と汚れで白くふやけている。
それでも、不思議と心は折れていなかった。
「……こうやって、街を知るのも悪くないかも」
作業の区切りを告げる合図が鳴ると、港にいた全員がほっとしたように肩の力を抜いた。
誰かが持ってきた木箱が即席の腰掛けになり、縄や樽の陰に腰を下ろす者もいる。
私も真似をして、桟橋の端に積まれた丸太に腰を下ろした。
潮の匂いが濃く、昼の陽射しを受けた海面はきらきらと光っている。
空は、驚くほど澄んだ青だった。
雲は高く、白く、ゆっくりと流れていく。
「……きれいだな」
思わず、声に出してしまった。
東京で見上げていた空は、もっと灰色だった気がする。
高層ビルの隙間から切り取られた、四角い空。
講義棟と病院棟の間を走り抜けるときに、ほんの一瞬だけ目に入る青。
それに比べて、ここはどうだろう。
視界を遮るものがなく、空と海がそのまま繋がっているように見える。
「……ここ、どこなんだろうね」
もちろん、答えは分かっている。
ロストン。
エルドラシア大陸の港町。
ラント帝国領。
でも、頭では分かっていても、心のどこかがまだ追いついていなかった。
私は膝の上で手を組みながら、ぼんやりと海を眺めた。
指先には、まだ藻のぬめりが残っている。
潮で荒れた肌が、少しひりつく。
「つい昨日まで……私は、何してたんだっけ」
記憶を辿ると、あまりにも現実味のない光景が浮かぶ。
真夜中の自室。
散らかった机。
開きっぱなしの分厚い医学書。
赤ペンで書き込まれたメモと、付箋だらけのページ。
「……生理学、ほんと意味分かんなかったなぁ」
思わず、苦笑が漏れる。
覚えても覚えても、次の試験範囲が追加される。
理解したと思った瞬間に、応用問題で叩き落とされる。
偏差値七十五の高校を出て、現役で医学部に入ったときは、正直少し自分を過信していた。
――努力すれば、何とかなる。
――勉強なら、得意だ。
そう思っていた。
でも、大学に入ってから思い知らされた。
医学はただの暗記科目じゃない。
そして医者という仕事は、知識だけで成り立つものじゃない。
解剖実習で、初めてメスを握った日のことを思い出す。
ゴム手袋越しに伝わる、異様な感触。
教科書で何度も見たはずの構造が、現実として目の前にある違和感。
「……あのとき、ちょっと倒れかけたんだよね」
今思えば、あれが最初の違和感だったのかもしれない。
臨床実習では、さらに現実を突きつけられた。
急変する患者。
慌ただしく飛び交う指示。
何をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた自分。
「……知識だけじゃ、人は救えない」
その言葉を、何度も自分に言い聞かせた。
患者さんの目を見るのが怖かった。
何を求められているのか分からなかった。
説明をしようとして、「お前に何が分かる」と言われたときの、あの胸の奥が冷える感じ。
それでも、医者になる夢を捨てられなかった。
幼い頃、頭を打って病院に運ばれたとき、優しく声をかけてくれた医師の姿がずっと心に残っていたから。
――ああいうふうに、人を助けられる人になりたい。
その想いだけで、ここまで来た。
「……なのに、今は港で藻を剥がしてるんだから、人生って分かんないよね」
自嘲気味に呟きながら、空を見上げる。
青い。
どこまでも、青い。
日本で見ていた空と色は同じはずなのに、まるで別物に感じる。
ここでは、誰も私の過去を知らない。
成績も、肩書きも、挫折も。
ただの、名もない日雇いの一人。
「……それって、案外、悪くないのかも」
ふっと、肩の力が抜けた。
知識があっても、実践で使えなければ意味がない。
そう言われ続けてきた。
でも、ここではどうだろう。
病で職を失った人。
怪我で転落した人。
医療に届かず、日雇いにしがみつく人。
教科書の中の症例じゃない。
統計データでもない。
生身の生活が、ここにある。
「……もし、私が医者になれたら」
そんなことを考えてしまう。
ここで。
この街で。
立派な病院じゃなくてもいい。
白衣がなくてもいい。
誰かの震える手を止められるなら。
誰かの不安を、少しでも軽くできるなら。
「……まずは、生き延びることだけどね」
現実に引き戻されて、苦笑する。
お腹は空いているし、寝床も不安定。
身分も、金もない。
夢を見るには、まだ足元が心許ない。
それでも。
海から吹く風が、頬を撫でる。
潮の香りと、遠くで鳴く鳥の声。
「……昨日までの私が見たら、腰抜かすだろうな」
医学部生が異世界で港湾労働。
しかも、案外前向き。
私は、膝の上で拳を握りしめた。
「よし。まずは今日を生きる」
空と海を胸いっぱいに吸い込んで、立ち上がる。
ここがどこであっても。
どんな形であっても。
私は、まだ――
医者になる夢を、完全には手放していないのだから。




