第11話 とにかく、今日一日分の食べ物を
朝のロストン市場は、私が想像していた以上に“生きている場所”だった。
太陽が港の向こうから顔を出す頃には、すでに露店の準備は始まっていて、石畳の上を行き交う足音が絶えない。
木箱を運ぶ音、魚を並べる水音、商人たちの張りのある声が、波のように重なって街を満たしている。
「新鮮だよ! 今朝揚がったばかりだ!」
「香辛料はいらないか? 南方産だ、安くしとくぞ!」
鼻をくすぐるのは、焼いた魚の香ばしさと、甘い果実の匂い、そして少しだけ混じる生臭さ。
市場という場所は、どこの世界でも同じだ。
生命の匂いと、金の匂いと、生活の匂いが混ざり合っている。
……ただ一つ違うのは、私が財布を持っていないという現実だけ。
「……見るだけなら、タダ……」
そう自分に言い聞かせながら、市場の中心部へと足を進める。
昨日も通ったはずなのに、朝の市場はまるで別の顔をしていた。
人の数は倍以上に増え、種族も年齢も入り混じっている。
人間だけじゃない。
エルフが果物を選び、獣人が荷を担ぎ、ドワーフらしき男が金属製品を並べている。
多様な種族が、当たり前のように同じ場所で働き、交渉し、生活している。
……そして、その中で私は、完全な部外者だった。
「……さて」
気持ちを切り替えるように、小さく息を吸う。
今日の目的は明確だ。
日雇い。
とにかく、今日一日分の食べ物を確保する。
市場の一角に、昨日も見かけた掲示板があった。
木製の板に紙が無数に貼られ、すでに何人かがその前で立ち止まっている。
私は少し距離を取りつつ、内容を読み始めた。
「港湾清掃、日給銅貨三枚」
「倉庫の荷運び、半日」
「市場片付け補助、即金」
……やっぱり、肉体労働が中心だ。
「……医学生、完全に場違い……」
心の中でぼやきつつも、文句は言えない。
今の私は、選り好みできる立場じゃない。
ただ、ここで一つ気づいたことがあった。
掲示板の前にいる人たちは、どれも“顔なじみ”らしいということだ。
商人が声をかけ、作業内容を軽く説明し、頷き合って話がまとまっていく。
……身分証を出している様子はない。
名前を名乗るだけで済んでいるように見える。
「……日雇いなら、いける……かも」
胸の奥で、小さく希望が灯る。
私は一番人が集まっている札を選び、近くで様子を見ていた。
港湾清掃の募集だ。
体力勝負だろうけれど、半日なら耐えられる……と思いたい。
「……あの」
意を決して、募集を出している中年の男に声をかけた。
日に焼けた顔。
がっしりした体格。
港で長く働いてきたことが、一目で分かる。
「日雇い、まだ空いてますか……?」
声が、少しだけ震えた。
知らない世界で、知らない大人に仕事を頼むなんて今まで一度もしたことがない。
男は私を一瞬見下ろし、じっと観察するように目を細めた。
「……あんた、一人か?」
「はい」
「名前は?」
「……ナナです」
偽名を使うべきか一瞬迷ったけれど、今は余計な嘘を重ねる余裕がなかった。
「経験は?」
「……ありません。でも、真面目にやります」
沈黙。
心臓が、嫌な音を立てる。
拒否されるかもしれない。
女だから、断られるかもしれない。
体力がなさそうだから、信用されないかもしれない。
でも男はしばらく考えたあと、ふう、と息を吐いた。
「……まあ、人手は足りねぇ。半日だけだ。ついてこい」
「……っ、はい!」
思わず、声が少し大きくなる。
こうして、私はロストン市場で初めての“仕事”を得た。
港へ向かう途中、周囲の景色を改めて眺める。
朝の市場は、すでに昼に向かって加速していた。
金が動く音。
交渉の声。
笑い声と、怒鳴り声。
そしてその裏で、貧困層がこぼれ落ち、疫病の影が忍び寄っている。
「……綺麗なだけの街じゃない」
でも、それがリアルだ。
誰かが儲かり、誰かが働き、誰かが救われずにいる。
そのすべてが、同じ空気の中にある。
私は、自分の手を見つめた。
この手で今日は掃除をする。
荷を運ぶ。
港の汚れを落とす。
それは、医療でも魔法でもない。
ただの労働だ。
「……でも、今はそれでいい」
生きるために働く。
情報を集める。
街を知る。
この経験は、きっと無駄にはならない。
闇医者になる前に、
医者になる前に、
まずは“この街の一員”として地面に立てれば…!




