第10話 とりあえず水がほしい
……はぁ。それにしても。
「……お腹、すいたな……」
目が覚めてから最初に意識を支配したのは、危機感でも恐怖でもなく、ものすごく現実的な空腹だった。
胃の奥が、きゅう、と情けない音を立てて主張してくる。
ゆっくりと体を起こすと、ロストンの朝はすでに始まっていた。
港の方からは船乗りたちの声が聞こえ、遠くで鐘が鳴り、街が少しずつ動き出しているのが分かる。
……どうやら、夜は無事に越えられたらしい。
「……生きてる」
当たり前の事実なのに、胸の奥でほっと息をついた。
寒さで目が覚めることもなく、誰かに見つかることもなく、最悪の事態は避けられた。
その代わりに、胃袋は限界を迎えていたけれど。
「……昨日から、何も食べてないんだよね」
そう思った瞬間、頭の中にまるで映像みたいに懐かしい光景が浮かんだ。
朝のキッチン。
少し寝ぼけた頭でリビングに行くと、すでに漂ってくる油の匂い。
フライパンの上で、じゅう、と音を立てる目玉焼きが二つ。
「ほら、遅刻するわよ」
そう言いながら、当たり前みたいに用意されていた朝ご飯がすごく懐かしい。
ご飯と味噌汁と、目玉焼きと、たまにウインナー。
「……朝ご飯なんて、いらないって思ってたな……」
忙しいから。
眠いから。
ダイエット中だから。
そんな理由を並べて、手を付けずに家を出た日もあったっけ?
コンビニでパンを買えばいいや、なんて軽く考えていた時もあった。
「……今思うと、めちゃくちゃ贅沢、だったな……」
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
毎朝、誰かが用意してくれるご飯があるということ。
温かい食事が、何の疑問もなく口に入るということ。
それがどれだけ恵まれたことだったのか、家を離れて、異世界で空腹に耐える今になって、ようやく実感する。
「……お母さん、元気かな……」
会えるはずもないのに、そんなことを考えてしまう。
考えたところで何も変わらないのに。
私は小さく首を振って、現実に意識を戻した。
ともあれ。
「……二日目、突入」
なんとか夜は越えた。
でも、計画らしい計画は、まだ何もない。
ノープランで迎えた二日目の朝。
さて、どうしたものか。
私は膝を抱えながら、昨日立てた「最低限の生存条件」を頭の中でなぞった。
寝床——ひとまずクリア。
次は、食糧。
そして、水。
情報。
できれば、身分。
「……優先順位、間違えたら詰むやつだ」
医学生としての癖で、自然と問題を分解し始める。
まず、食糧。
お金はない。
盗むのは論外。
施しを受けるのは、昨日考えた通りリスクが高い。
「……なら、対価を払うしかない」
でも、払えるものがない。
……いや。
「……“労働”なら?」
昨日、市場の掲示板に貼られていた依頼が脳裏に浮かぶ。
荷運び。
清掃。
雑務。
どれも肉体労働で、正直体力には自信がない。
でも食べないままじゃ、どのみち体力は落ちる。
「……短時間なら、いける……かも」
問題は、身分だ。
正式な雇用は無理でも、日雇いなら名前だけで済む可能性がある。
「……ダメ元で、聞いてみる価値はある」
次に、水。
これは比較的簡単だ。
港町だし、井戸や水場はあるはず。
昨日歩いた限り、街のあちこちに共同水場らしき場所があった。
「……水さえ確保できれば、最低限は生きられる」
そして、情報。
これが一番重要かもしれない。
この街の治安。
物価。
通貨。
危険な区域。
身分制度。
知らないまま動くのは、自殺行為だ。
「……情報は、人の集まるところにある」
市場。
酒場。
港。
「……酒場は、まだ早いな……」
朝から酒場に行く勇気はさすがにない。
市場なら昨日も歩いた。
人も多いし、仕事の話も集まりやすい。
「……よし」
私はゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払った。
闇医者だとか拠点だとか。
それは、もう少し先の話だ。
今の私は——
「……ただの、空腹な異世界人」
だからこそ、やるべきことは明確だ。
食べる。
生きる。
知る。
「……策は、単純でいい」
まずは市場へ行く。
日雇いの仕事を探す。
ついでに、通貨や相場を観察する。
その間に水場の位置を確認して、安全そうな場所を頭に叩き込む。
「……一歩ずつ、だね」
異世界二日目。
まだ何者でもない私だけれど。
「……ちゃんと、生き延びてみせる」
そう心の中で呟いて、私は朝のロストンへと歩き出した。
とりあえず水……
水が最優先でいいかも…




