第1話 落ちこぼれ医学生、目覚めたら異世界でした
——まぶしい光が、まぶた越しに差し込む。
「ん……」
最初に感じたのは、やけに澄んだ空気だった。
消毒液の匂いもしないし、エアコンの低温乾燥もない。
むしろ、どこか潮の香りが混じった外の空気。
ゆっくりと目を開けると、そこには——
「……空、青っ……」
雲ひとつない青空。
そして視界の端に入り込む、見知らぬ街並み。
木造とレンガ造りの建物が立ち並び、道はきっちり石畳で舗装されている。
ガタゴトと馬車が通り過ぎ、どこか遠くで鐘の音が鳴った。
……え、なにここ。
「……あれ?」
私は昨日まで、日本で医学生をしていたはずだ。
夜遅くまで医学書を開き、目の下にクマを作りながら、
「なぜ心臓はこんなに複雑な電気信号で動くのか」
という、考えれば考えるほど胃が痛くなる問題と戦っていた。
医学生といっても、ドラマに出てくるような天才タイプじゃない。
むしろ、「よくここまで来れたね?」と教授に言われる側。
解剖実習では見事に貧血で倒れるし、
テストは追試常連、
生活費のためにバイトを詰め込みすぎて講義を寝落ちで欠席。
——はい、落ちこぼれ枠です。
そんな私が。
「……なんで、石畳の上で寝てるの?」
周囲を見回す。
露店、荷車、通りを歩く人々。
……いや、人々?
その中に、明らかに「教科書に載っていない生物」が混じっている。
猫耳を揺らしながら魚を売る商人。
やたら背が高くて耳が尖った、モデル体型のエルフ。
角の生えた獣人が、普通にパンをかじっている。
「……夢?」
私はとりあえず、自分の頬をつねってみた。
——痛い。
わりとしっかり痛い。
「夢じゃない……?」
背筋が、ぞわっとする。
これって……
もしかしなくても——
「異世界転生……?」
声に出した瞬間、自分で自分がバカみたいに思えた。
いや、そんなわけあるか。
転生って、普通はもっとイベント性があるものじゃない?
トラックに轢かれるとか。
神様に呼び出されるとか。
「あなたは選ばれし者です」とか言われるとか。
「……私、そんな記憶ないんだけど」
思い出そうとしても、
最後にあったのは、夜道を歩いていたことと、
やけに眩しい光と、
頭に強い衝撃——
「……あ」
いや、思い出すのはやめよう。
脳震盪とか、今考えると怖い。
「……でも、ここが異世界だとしたら……」
私はゴクリと喉を鳴らし、自分の姿を確認するために、近くの水たまりを覗き込んだ。
そこに映っていたのは——
「……あ、私だ」
黒髪、肩くらいの長さ。
少し寝不足気味の顔。
色素の薄い茶色の目。
「おぉ……顔は変わってない!」
転生って、別人になるパターンもあるって聞いてたからちょっと安心した。
ただ、服装が明らかにおかしい。
昨日まで着ていたはずのパーカーとジーンズは影も形もなく、代わりに動きやすそうなチュニックとブーツ姿。
「……誰、着替えさせたの」
いや、文句を言う相手はいないんだけど。
しかもサイズが妙にぴったりなのが腹立つ。
「まぁ……下着そのままとかじゃないだけマシか……」
私はゆっくり立ち上がった。
足元はしっかりしているし、めまいもない。
どうやら、体調は問題なさそうだ。
改めて周囲を見ると、ここはかなり発展した都市らしい。
露店が並び、人々の活気があふれている。
港町なのか、潮の匂いと、魚と、鉄の混じった匂いが鼻をくすぐった。
「……えーと」
ここで、冷静に状況整理しよう。
・私は異世界っぽい場所にいる
・人間以外が普通に歩いている
・言葉はなぜか普通に理解できている
・お金も身分証もない
・そして私は——
「医学生」
……いや、これ詰んでない?
剣も魔法も使えない。
ステータス画面も出ない。
チート能力の説明もない。
「……せめて、治癒魔法くらいは……」
そう思った瞬間、胸の奥が、じわっと熱を持った。
「……え?」
次の瞬間、指先が淡く光った。
「え、え、え!?」
慌てて手を引っ込める。
今の、なに?
錯覚?
気のせい?
心臓が早鐘を打つ。
「……まさか……」
医学生としての理性が、必死に否定する。
——幻覚。
——ストレス反応。
——視覚異常。
でも。
「……もし、これが……」
治癒魔法だったら?
私は、思わず笑ってしまった。
「……落ちこぼれ医学生が、異世界で医者とか……」
設定盛りすぎでしょ。
でも。
「……それでも」
胸の奥で、何かが静かに、でも確かに動き始めていた。
——今度こそ。
——今度こそ、人を救えるかもしれない。
石畳の街の真ん中で、
私は深呼吸をして、空を見上げた。
青すぎるくらいの空の下で。
こうして、
落ちこぼれ医学生・兎田谷夏奈の、異世界医療(たぶん波乱万丈)生活が始まった。
……とりあえず。
「……まずは今日寝る場所と、ごはん確保しよう」
現実は、いつだってシビアだった。




