第75話 堕天の理由(わけ)
夜の帳が降りた王都は、ひどく静かだった。
昼間の戦火が嘘のように消え、代わりに淡い霧が石畳を包んでいる。遠くで鐘の音が一度だけ鳴り、それが消えたあと、柚希はゆっくりと目を閉じた。
──また、あの夢。
白い光。割れる空。
そして、自分を呼ぶ声。
「……ユズキ、逃げて」
まるで、懐かしい響きのように。
柚希が振り返ると、そこにはかつての自分の世界とよく似た風景があった。けれど、その中心に立つ青年の顔だけは、この世界の誰でもなかった。
淡い銀髪に、金の瞳。
今や“仮面の将”として知られる男──セイル。
夢の中の彼は、優しい表情をしていた。
柚希を庇いながら、伸ばした手の先で光を放つ。
それは今の柚希と同じ、「光の力」。
しかし、その光は一瞬で黒に染まり、彼の腕を呑み込んだ。
柚希が叫ぶよりも早く、彼の身体が闇に引きずり込まれていく。
「……誰かを救いたかっただけなのに……」
そう呟いて、彼は闇に消えた。
──そして今、彼は帝国の将として柚希の前に立っている。
翌朝。
王城の作戦室にて、リディア宰相が報告を終えると、重苦しい沈黙が流れた。
「帝国の南東部を制圧しているのは、“黒の面”の将。おそらく、セイル本人です」
その名を聞いた瞬間、柚希の心臓が跳ねた。
レオンは険しい顔で椅子から立ち上がる。
「……黒霧を操るあの男か。奴の部隊の進軍速度は異常だ。人間の軍ではない」
「黒霧と同調しているのです」リディアが低く言う。「かつて“光の契約者”だった男が、闇に堕ちた存在……それがセイル」
柚希は唇を噛みしめた。
「……“契約者”……だった?」
リディアの視線が柚希に向けられる。
「あなたが“光”を受け継いだのは偶然ではありません。召喚の儀式には、前任者──セイルの意志が関わっていたのです」
その言葉に、柚希の頭が真っ白になった。
彼がこの世界から消えた瞬間、自分が呼ばれた。
──つまり、彼の犠牲の上に、今の自分が存在しているということ。
そのとき、扉が開き、ルカが駆け込んできた。
「陛下! 帝国の使者が来ています。……名乗りは、“仮面の将”セイルと!」
柚希の胸に走る痛みは、もはや恐怖ではなかった。
それは、懐かしさと、悔恨が混ざった痛みだった。
「──会わせてください」
柚希は静かに言った。
レオンが驚いたように彼女を見つめる。
「危険だ、ユズキ。あの男は……」
「わかっています。でも、あの人は私の“始まり”を知っている。放っておくことなんて、できません」
柚希の瞳に宿る光は、もはや迷いを含んでいなかった。
夜明け前、王都の外れ。
黒い外套をまとった男が、月を背に立っていた。
彼の顔を覆う仮面の下から、わずかにこぼれた声が、柚希の名を呼んだ。
「──ユズキ。」
その瞬間、柚希の胸の奥で、遠い光が再び瞬いた。