第74話 仮面の将
夜空に火の粉が散る。帝国の軍勢が再び王都の南門へと押し寄せていた。
その先頭に立つ一人の将──黒い仮面をつけた男が、静かに剣を構えている。
柚希は城壁の上からその姿を見つめ、息を呑んだ。
ただならぬ気配だった。
黒霧の瘴気がその将の周囲を覆っているというのに、彼自身は一切の影響を受けていない。まるで、黒霧そのものを支配しているかのように。
「……あれが、“仮面の将”か」
隣でルカが剣を握りしめた。
「帝国の前線を率いる謎の男。名も素性も不明。ただ、黒霧を自在に操るという……」
柚希の胸の奥がざわめいた。
どこかで──あの気配を知っている気がする。
けれど思い出そうとするたび、光が弾かれるように記憶が霞む。
そのとき、仮面の将が手を上げた。
静寂が訪れ、次の瞬間、黒霧が形を変えて襲いかかる。
それは獣でも炎でもなく──無数の影。
兵士たちの心に恐怖を流し込み、動きを封じる黒い幻影。
「くっ……!」
柚希は即座に光の結界を展開した。
黄金の紋章が地面に浮かび上がり、影たちを弾き返す。
その刹那、仮面の将の視線が柚希を射抜いた。
声は低く、しかし確かに彼女に届く。
「……やはり、お前が“光の聖女”か」
柚希は答えずに杖を構えた。
「あなたは誰? どうして黒霧を操れるの?」
男はしばし沈黙し、そして微笑んだように見えた。
「──昔、お前が救おうとして、救えなかった者だ」
心臓が凍りつく。
まるで封じられていた記憶が、ひとつ、軋む音を立てて動き出した。
柚希の中で、光が揺らぐ。
その名を──思い出しかけて、喉の奥で止まった。
帝国の旗が翻り、再び戦場が炎に包まれる。
リディアの声が響く。
「ユズキ様、退いてください! あれはただの敵ではありません!」
だが、柚希の足は動かなかった。
仮面の将がゆっくりと仮面に手をかける。
「お前が“聖女”であるなら──俺は、“堕天の王”だ」
その顔が露わになった瞬間、柚希の瞳が大きく見開かれた。
信じられない。
それは──かつて柚希がこの世界に召喚された直後、命を救ってくれた青年の姿だった。
彼の名を、柚希は震える声で呼んだ。
「……セイル、なの……?」
黒霧が再び渦を巻く。
戦場の光と闇が、ひとつの運命へと交差し始めていた。