第73話 囁かれた取引
帝国軍が一時撤退した後も、王都には張りつめた空気が残っていた。砦の外壁には焦げ跡が生々しく残り、空気にはまだ黒霧がかすかに漂っている。
柚希は治癒の光を放ち、負傷兵たちの間を回っていた。彼女の光が触れるたび、痛みが和らぎ、兵士たちの表情に希望が戻っていく。
そのとき、背後から静かな声が響いた。
「──聖女殿。少し、よろしいですか」
振り向くと、そこにはリディア宰相の姿があった。白銀の髪をひとつに結び、冷徹な瞳で柚希を見つめている。
リディアは周囲を一瞥し、人払いをしてから低く言った。
「帝国が退いたのは、一時的なものにすぎません。間もなく、新たな布陣で攻め込んでくるでしょう」
柚希は眉をひそめる。
「……どうしてそこまでわかるんですか?」
「情報です。帝国内部に、密かにこちらに協力している者がいます」
柚希は息をのんだ。
「協力者……?」
「ええ。ただし、その者から“条件”が出されています」
リディアの瞳が一瞬、揺れた。
「彼らは“聖女”を引き渡せば、戦を止めると言っているのです」
柚希は沈黙した。心臓が強く脈打つ。まるで光が胸の中で暴れているようだった。
帝国が自分を狙っている理由はわかっている──光の力。黒霧を浄化できる唯一の存在。
だが、彼らが求めているのはただの力ではない。
“聖女”という象徴そのものを奪い、帝国の正義に塗り替えるため。
リディアは柚希の沈黙を見て、静かに続けた。
「私はあなたを渡すつもりはありません。ですが、レオン陛下の中には、民の被害を抑えるために取引に応じるべきだと考える者もいます」
柚希はゆっくりと首を振った。
「……私は逃げません。戦うために、この世界に呼ばれたのだから」
そのとき、扉が勢いよく開かれた。
ルカが飛び込んでくる。
「宰相! 王都の南門で、帝国の旗が再び──!」
リディアと柚希は視線を交わした。
柚希の掌が、再び光を帯びる。
「……取引なんて、必要ありません。私は──この光で、すべてを守ります」
その光は、砦の壁を越えて夜空を照らした。
新たな戦いの火蓋が、再び切って落とされたのだった。