第72話 黒霧の中の声
昼なのに、空が夜のように暗かった。
灰色の雲が低く垂れこめ、風の流れさえ、重たい。
柚希たちは、帝国軍が去った後の国境の村に立っていた。
村は焼け落ち、あたりには黒い残滓が漂っている。
地面に残る焦げ跡からは、うっすらと人の形が浮かんでいた。
柚希は胸を押さえ、息をのむ。
「……また、黒霧が使われたのね」
リディアの声は怒りに震えていた。
「この村の人々は避難していたはずなのに……」
「……違う。これは、避難した人たちじゃない」
ルカがひざをつき、地面の灰を指でなぞる。
そこには、奇妙な紋様──帝国の禁呪陣が描かれていた。
「……帝国の術師が、黒霧を“人の中に封じた”んだ」
「まさか……!」
そのとき、柚希の耳に、かすかな声が届いた。
──……ゆ……き……。
振り返る。風が吹き抜け、煙の中で影がゆらめく。
ひとりの女性の形をした黒霧が、ゆっくりと立ち上がっていた。
柚希の瞳が揺れる。
その顔に見覚えがあった。
「……エマ?」
数週間前、柚希が王都へ避難させた、あの若い母親。
彼女の瞳はもう焦点を結ばず、黒い霧が口元から漏れ出していた。
「いや……いや……! どうして……!」
柚希が駆け寄ろうとすると、レオンが腕を掴む。
「駄目だ、柚希。あれはもう……」
「でも、声が――私を呼んでる!」
彼女の叫びを遮るように、エマの影が苦しげにのたうち、低く唸った。
霧の中で、かすかな光が瞬く。
柚希は両手を胸の前で組み、光を集めた。
けれど──リディアの声が、鋭く響く。
「やめなさい! 光を放てば、魂まで焼かれるわ!」
柚希の手が止まる。
泣きたいほどの痛みが胸を締めつける。
どうして、助けるはずの光が、彼女を消してしまうの。
黒霧の中のエマが、かすれた声で囁いた。
──ユズキ……ありがとう……。
涙がこぼれた。
柚希は震える指で、祈りの印を描いた。
「……苦しまないで。光はあなたを責めない」
柔らかな光がゆっくりと広がっていく。
それは炎のように激しくもなく、ただ優しく、静かに黒霧を包み込む。
やがて、霧がほどけるように消え、空気が少しずつ澄み渡った。
エマの姿はもうなかった。
地面には小さな花が一輪、咲いていた。
柚希は膝をつき、嗚咽をこらえた。
レオンが黙ってその肩に手を置く。
何も言わず、ただ彼女の手を包み込むように握る。
「……これが、戦うってことなんだね」
柚希の声は震えていたが、その瞳はもう迷っていなかった。
「もう、誰にも──こんな思いはさせない」
その言葉に、レオンは深く頷いた。
──その夜、柚希の光が照らした村は、静かに息を吹き返し始めた。