第1話 異世界への転移
夜の雨は、街の灯りを柔らかく滲ませ、アスファルトの上で淡く踊っていた。
柚希は、コンビニのバイトを終えてから全力で駅へと向かっていた。閉店作業が長引き、時刻はすでに二十二時を回っている。
スマホで時間を確認し、ため息をひとつ。
「明日、レポート提出日なのに……」
髪や肩に雨が落ちる。傘は持っていたが、風が強く、気づけばスカートの裾までじっとりと濡れていた。
歩道橋の手前、信号が青に変わる。小走りで横断歩道に足を踏み出した瞬間──。
右側から、異様に強い光が差し込んだ。
ヘッドライトだと認識した時には、耳をつんざくようなブレーキ音が響く。
体が宙に浮き、雨粒がスローモーションのように目の前を通り過ぎていった。
痛みも、冷たさも感じない。ただ、胸の奥で小さな声が囁いた。
──ああ、私、死ぬんだ。
……次に目を開けた時、世界はまるで塗り替えられていた。
頭上には見たことのない濃い群青の空。見知らぬ星が瞬き、月は二つ、淡い光を放っている。
周囲は深い森。湿った土と草の匂いが鼻をつき、足元の草は膝まで伸びていた。
「……え……?」
言葉にならない声が漏れる。夜の森は、静寂ではなく、生き物の気配で満ちていた。
カサリ――。背後の茂みが揺れる。
振り返った柚希の目に飛び込んできたのは、常識では説明できない“怪物”だった。
狼に似た形だが、人間の背丈をはるかに超える巨体。毛は墨のように黒く、目は血のように赤い。唇からのぞく牙は、短剣にも劣らぬ鋭さだ。
息を飲む間もなく、獣が喉の奥から唸り声をあげた。
「や……いや……っ!」
背を向け、草をかき分けて必死に走る。足がもつれ、泥に滑り込む。
振り返れば、怪物の影が跳躍していた。
──その時。
耳を裂くような金属音とともに、銀色の閃光が横切った。
次の瞬間、獣の動きが止まり、そのまま地面に崩れ落ちる。
目の前に立っていたのは、全身を黒い鎧で包んだ男。手には長剣、切っ先からはまだ血が滴っている。
月明かりの下で、男の金色の髪が淡く輝いた。
氷のように冷たい青の瞳が、柚希を射抜く。
「……誰だ、お前は」
低く響く声は、問いというよりも警告に近い。
言葉が出ない。自分がどこにいるのかも分からず、息だけが荒く漏れる。
男は柚希を一瞥すると、背後に控えていた数人の騎士たちへ命じた。
「連れて行け。王都へだ」
その瞬間から、柚希の運命は、もう二度と元には戻らなかった。