第09話:赤い目と赤いサプリ
外はすっかり日が落ち、空の端にかすかな赤い名残が漂っている。
「で、ここからどうやってウィル社まで行くつもり?」
歩みを止め、シエルがカインの顔を覗き込んだ。
「暴動の警戒はまだ解かれてないし、陸自のドローンも飛んでる。下手に映ったりしたら、あとあと面倒になるんじゃない?」
カインは2人を説得し、ウィル社に乗り込むことを提案した。
メディナの赤い目やサプリのことは伏せたまま、現状ではメディナの異常を調査するのには、それが最善だと断言した。「暴動で混乱している今がチャンスだ」とも付け加えた。
「足ならある」
そう言って指さしたのは、彼がここまで乗ってきた車だった。無残に壊れたまま、道路の端に捨て置かれている。
「……まさか、これに乗るって言うの?」
アリスが絶句した。
「ちょ、ちょっと待って! 仮に動いたとしても、あなたの運転はムリ! 私、死にたくないから!」
隣で見ていたシエルも、困惑を隠せない。
「だったらどうしろってんだよ。動きゃ十分だろ。見た目なんざ、乗ってりゃわかんねぇよ」
「……そういう問題じゃないのよ。この車で走れば、間違いなく途中で止められる。目立ちすぎるわ」
シエルがため息をついた。前後のバンパーは吹き飛び、ボディは傷だらけ。エンジンがかかると言われても、命を預けるには覚悟が要る。
「じゃあ、どうしろってんだよ。他に案があるのか?」
そのとき、アリスがタブレットを操作していた指を止めた。
「あるわ」
少し得意げに言い放つと、踵を返す。
「ついてきて」
先を歩き出したアリスの背を見送り、カインとシエルは目を合わせ、無言のまま後を追った。
アリスが向かった先は、雑多な通りに紛れ込むように建っていた古びたビルだった。
輸送庁の出張所、とは名ばかりで、看板すら外され、見るからに廃れた雑居ビルだ。
一階部分にはグレーのシャッターが閉じられており、風雨にさらされた「駐車禁止」の文字が、ところどころ剥がれかけていた。
「ここに、何があるってんだ?」
カインが眉をひそめると、アリスは答えず、左腕のウェアラブル端末を操作した。
金属が軋むような低音と共に、シャッターがゆっくりと巻き上がっていく。
「中枢街区に入るには、これが一番確実なの。政府の車なら、検問もスルーできる」
そう言って、アリスは半分ほど開いた隙間を身を屈めてくぐった。
それに続いて中に入ると、センサーライトがパッと点灯する。
照らされたのは、1台の漆黒のリムジンだった。無人運転型、中枢街区専用の公用車――政府関係者だけが使用を許される特権の乗り物だ。
「うお! こりゃまた、太っ腹だな」
カインが口笛まじりに言うと、シエルも思わず目を見開いた。
「ニュースでしか見たことない。これ、本物?」
「もちろん本物よ。フェイクを用意するなんて、そっちのほうがよっぽど手間なんだから」
アリスは得意げに胸を張る。
「これでウィル社に向かえば、少なくとも門前払いはされないはず。ただ……」
言葉を切り、彼女の表情にかすかな陰りが差す。
「ウィル社に正面から行ったって、中には入れないでしょうね……ましてやメディナに会うなんて……」
カインは軽く肩をすくめたが、確信はあった。
シエルの家で聞こえた声が本物なら、メディナは自分たちの訪問を拒否しないはず。
「中に入ってから考えるさ」
カインはわざと軽く流した。
中枢街区。
政治機関、都市管理AIの中枢、そして情報管理本部――新東京の頭脳とも言える機関がすべて集約された区域だ。厳重な監視体制のもと、一般人の立ち入りは原則として許可されていない。
ウィル社の本社ビルは、その中心にそびえていた。滑らかなガラスの外壁に覆われた塔は、まるで人工的な天柱のように空を突き刺しており、周囲のどの建造物よりも異質で、どこか不気味な存在感を放っている。
政府公用車であるリムジンは、何の検問も受けることなく正面ゲートを通過した。
顔認証もナンバー認証も、すべてアリスの政府認証タグが本物であるため、警備ドローンが一瞬こちらを見たが、それきりだ。
「……意外とあっさり通れたわね」
シエルが小声で呟くと、アリスは肩越しに笑った。
「こういうのは、あっさり通れるからこそ怖いのよ。裏で何を記録されてるか分からないもの」
リムジンはゆっくりと坂を下り、ビル地下の専用駐車場へと入っていく。
照明の落ちた静謐な空間。壁に沿って並ぶのは、どれも高級感のある黒塗りの車ばかりだった。無人の警備ロボが巡回していたが、特に干渉されることもなく、リムジンは滑るように指定エリアに停車する。
「……問題なさそうね」
車を降りたアリスが周囲を確認しながら言う。
カインは手早く後部座席のドアを閉めると、駐車場の奥を指差した。
「じゃあ、行くか」
「ちょ、ちょっとどこ行くの?」
カインの足取りに迷いはなかった。
彼自身にも説明がつかない、何かがあった。
3人は足音を殺して歩き出す。
人気のない、薄暗い場所にたどり着いた。
「それで、どこに行くの? ウィル社の担当だからって、どこにでも行けるわけじゃない。私が許可されているのは、会議室と打ち合わせフロアだけよ」
アリスの質問に答えたのはシエルだった。
「搬入用のエレベーターが使えるはず……」
彼女は呟くように言って、鉄の防火扉に手をかけた。
誰も口にはしなかったが、その場にいた3人は、すでに心の奥で覚悟を決めていた。
これはただの「侵入」ではない。
新東京という心臓に足を踏み入れることになるのだから。
「……私に、考えがあるわ」
沈黙を破ったのは、シエルだった。
その声に、カインとアリスの視線が揃って向けられる。
カインはわずかに顎を引いて頷き、アリスは彼女を一瞥するも、言葉は返さなかった。
「私が勤めていた頃、職場のフロアへ行くのに搬入用のエレベーターを使ってたの。混雑を避けたくて……いつも裏手から出入りしてた。フロアボタンは、地上68階、地下B5まであったわ。ただ、地上より下の階には降りたことがない」
その一言に、カインの眉がぴくりと動いた。
確証はない。けれど、賭けてみる価値はある。
アリスもまた、短く息を呑み、無言のまま頷いた。
「私の認証IDがまだ使えるなら……乗れるはずだけど」
語尾が濁る。曖昧な自信が、彼女の瞳に影を落とした。
だが、カインは鼻を鳴らして笑った。
「上等だ。どこに行こうが、それだけメディナに近づけるってもんだろ。シエル、案内してくれ。IDが通るか、試してみようぜ」
彼女の先導で、防火扉をあけ、先に進む。その奥に「STAFF ONLY」と表示されたもう一つの鉄扉があった。無骨な防火扉。分厚いその質量が、彼らの進路を無言で拒んでいるようだった。
「この奥か?」
「……うん。でも、監視カメラと守衛室があるわ」
「今さらだろ。通報されてたら、とっくに捕まってる。黙って見逃してるのは……まあいい。どっちにしても、もう後戻りはできねえ」
カインはニヤリと笑い、ためらいなく扉を開けた。
機械音が最初に聞こえ、空気が変わる。開けた先には、3基の搬入用エレベーター。
天井のカメラが2基、こちらを見下ろしていた。
正面には、ガラス張りの守衛室。
足を踏み入れた瞬間、守衛の男が顔を上げる。鋭い目つきが一瞬で空気を緊張させた。
「あんた……」
声は聞こえない。だが口の動きでわかった。
カインが動こうとした、そのとき。
「ごめんなさい。ちょっとエレベーター借りるわね」
シエルが一歩前に出て、エレベーターを指差す。
守衛はしばし目を細めたあと、小さく頷いた。
「しばらく見なかったけど……何かあったのかい?」
ガラスの下にある小窓を開け、やわらかな声が届く。
シエルは唇を噛み、「……ええ。ちょっと体調を崩してて」と答えた。
「そうかい。無理しちゃいかんよ」
シエルは何も言わずに俯く。握った拳に、わずかに力が入った。
彼女が認証IDをリーダー装置にかざす。すると「ポン」と短い電子音が鳴り、最奥のエレベーターが到着を知らせる表示を点灯させた。
数秒後、柔らかな案内音が鳴り、該当の扉が静かに開く。がらんとした無人の箱、無機質な空間が口を開けた。
3人は無言のまま、足を踏み入れる。
シエルがカインを見る。
どの階数ボタンを押すのか。本人もアリスも知らない。
カインは迷わず、「B5」を押す。
「地下に行くのね」
「どうして?」
2人同時に質問が飛んだ。
カインは、頭を指さしただけで何も言わなかった。
扉が閉まり、ゆるやかに下降する。
静まり返った空間。
壁面のカウントダウン表示が、緩やかに数字を刻んでいく。
「この先、どうなってるのか……知らないんだな? 2人とも」
カインの問いかけに、数秒の沈黙が落ちる。
「……ええ」
「うん……」
「俺に考えがある。質問はなしだ。黙ってついて来れるか?」
「わかった」
「……いいわ」
不確実な言葉が、会話の締めくくりとなる。
同時に、エレベーターが静かに停止した。
開いた扉の向こうは、フロアオフィスのようだった。
無機質な白壁、案内表示のない廊下が延びる。
「さて、どうするか」
カインが天井を見上げるように言った。
そのときだった。
何機かある監視カメラの一つが、赤く点滅していた。
対物センサーでもついているのかと、カインは一歩動いてみるが、点滅しているのはそれだけ。
「こっちだ」
確信めいたカインの言葉に、アリスとシエルは顔見合わす。だがすぐに、そっぽを向いて後を追った。
何度か角を曲がり、ドアの前に立つ。
「ここになにかあるの?」
シエルが確認する。通り過ぎたどのドアにも案内プレートはなく、同じドアが並んでいるだけだった。
カインは質問に答える代わりに、ドアノブに手をかけて回す。
「カチャッ」
特に認証キーのようなものはなく、あっけないほど、すんなりと開いた。
「ちょっと、拍子抜けね……」
アリスがぽつりと呟く。
カインが先に部屋の中へと足を踏み入れた。
無機質な空間に並ぶのは、ガラス張りのボックス群。その内部には、モノリスのような黒い物体が、沈黙を保ったまま鎮座している。
初めて目にする光景に、カインは思わず眉を上げた。
「これが、メディナか? 小型の冷蔵庫みてえだな」
「そんなわけない。これは、メディナの端末よ。私も何度か使ったことあるわ」
シエルがボックスに近づいて言った。どことなく懐かしい響きが含まれていた。
「基本は音声でやり取りするから、入力装置は付いていないの」
説明しながら、シエルは迷いなくボックスの扉を開けると、無造作にモノリスへと声を投げかける。
「メディナ、聞こえる?」
次の瞬間、機械的な声が空間を満たした。
『はい。認証タグを表示してください。生態認識データに該当社員は見当たりません』
ボックスの奥で、モノリスの「目」が青く発光し、スキャンの光がシエルの身体をなぞっていく。
やがて光が止まり、シエルは無言のまま扉を閉める。
そしてこちらを振り返り、肩をすくめた。
「本社の端末は、メディナの登録がないと動かないわ」
カインはしばし黙ってモノリスを見つめていたが、やがて一歩、前へと進み出た。
「俺がやる」
その言葉に、アリスが即座に反応する。
「ちょっと! まさかアレを使う気? ログが残るのよ!」
だがカインは無視して、ニヤリと笑う。
視界が揺らぎ、赤い光が脈打つ。
『カフカC-12』が脳裏を刺す。
「……メディナ、強制執行モードだ」
青い粒子がざわめく。
「ちょっと!」
アリスが声を上げるが、もう遅かった。
『エージェント鞍馬カイン、認識。あなたは当社の社員ではありません。会話を続けるには――』
「うるせ! 裏モード実行だ。今すぐやれ」
命令と同時に、モノリスの「目」が痙攣するように瞬く。青だった光が、「ジジッ」というノイズとともに赤に変わった。
『裏モード、実行しました。――鞍馬カイン、あなたが来るのを待っていました』
(第2章 第10話に続く)